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芥川龍之介の『芭蕉雑記』に思うこと③ 世襲になったらおしまいだ

十句に及ぶ人は名人なり

「翁凡兆に告て曰、一世のうち秀逸三五あらん人は作者、十句に及ぶ人は名人なり。」
 名人さへ一生を消磨した後、十句しか得られぬと云ふことになると、俳諧も亦閑事業ではない。しかも芭蕉の説によれば、つまりは「生涯の道の草」である!

(芥川龍之介『芭蕉雑記』)

『羅生門』
『芋粥』
『地獄変』
『蜘蛛の糸』
『女』
『蜜柑』
『あばばばば』
『奇怪な再会』
『河童』
『歯車』

 ……ほかにも『トロッコ』『お富の貞操』など、

 完全に理解しきれている訳ではないが、芥川の「凄い」と思われる作品は確実に十以上ある。特に『お富の貞操』は凄い。芥川は名人だ。
 夏目漱石は、

『こころ』
『それから』
『三四郎』
『道草』
『坊っちゃん』
『吾輩は猫である』
『行人』
『倫敦塔』
『彼岸過迄』
『明暗』

 ……『草枕』『虞美人草』『二百十日』『野分』いずれも佳作だが、秀逸に届くのは十作品に届くかどうか。ただ小説家ならば、ただ一作でも名人と言えるのではなかろうか。

 問題は阿蘭陀西鶴が万句読み捨ててなお、小説家として秀逸なる作品を残したこと。

 その一方で西鶴の句としてすぐに誰しもが思い浮かべる有名な句がないこと。 

 俳句、というのはそれだけはかなくも厳しい世界なのかもしれないし、なんなら小説の方こそ題名だけ知られていて中身は読まれたことがないという程度にはかない世界なのかもしれない。

 それを、全集の注釈迄校正している私はあほとしか言いようのない生き物だが、作家の情熱とは誰よりも真摯に向き合っているつもりだ。

 傑作の肝が読み飛ばされていては浮かばれない。作品の自釈を却けてきた漱石にも理由がないわけではない。『虞美人草』の結末について談話で「爆発」と言っているのに無視されて、「藤尾は自殺した」みたいに言われてしまう。これではへたに談話などできない。

うづくまる薬のもとの寒さかな

「十一日。朝またまた時雨す。思ひがけなく東武の其角来る。(中略)すぐに病床にまゐりて、皮骨連立したまひたる体を見まゐらせて、且愁ひ、且悦ぶ。師も見やりたまひたるまでにて、ただただ涙ぐみたまふ。(中略)

鬮とりて菜飯たたかす夜伽かな  木節
皆子なり蓑虫寒く鳴きつくす  乙州
うづくまる薬のもとの寒さかな  丈艸
吹井より鶴をまねかん初時雨  其角

 一々惟然吟声しければ、師丈艸が句を今一度と望みたまひて、丈艸でかされたり、いつ聞いてもさびしをり整ひたり、面白し面白しと、しは嗄れし声もて讃めたまひにけり。」
 これは芭蕉の示寂前一日に起つた出来事である。芭蕉の俳諧に執する心は死よりもなほ強かつたらしい。もしあらゆる執着に罪障を見出した謡曲の作者にこの一段を語つたとすれば、芭蕉は必ず行脚の僧に地獄の苦艱を訴へる後ジテの役を与へられたであらう。
 かう云ふ情熱を世捨人に見るのは矛盾と云へば矛盾である。しかしこれは矛盾にもせよ、たまたま芭蕉の天才を物語るものではないであらうか? 

(芥川龍之介『芭蕉雑記』)

 芭蕉は享年五十歳。十一日とあるのは十月だが現在の暦では十一月末。ここはどうしてもやはり冬の寒い時期に同じような年齢で亡くなった漱石のことを思わずにはいられないところだ。

 にも変わらず、

 かう云ふ情熱を世捨人に見るのは矛盾と云へば矛盾である。しかしこれは矛盾にもせよ、たまたま芭蕉の天才を物語るものではないであらうか? ゲエテは詩作をしてゐる時には Daemon に憑つかれてゐると云つた。芭蕉も亦世捨人になるには余りに詩魔の翻弄を蒙つてゐたのではないであらうか? つまり芭蕉の中の詩人は芭蕉の中の世捨人よりも力強かつたのではないであらうか?
 僕は世捨人になり了せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる。同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる。さもなければ深草の元政などにも同じやうに敬意を表したかも知れぬ。

(芥川龍之介『芭蕉雑記』)

 芥川はここで、 Daemonを持ち出して世捨て人でもないゲーテにつなげる。何か漱石に向かおうとした意識が振り払われたような感じがある。あるいはそこにはあらかじめアクリル板の衝立があり、漱石には触れられないような……。

 大正七年に既に『枯野抄』が書かれている。

 それにしても「愛している」?

 二百年前の人物に対して言葉が少々生々しい。

三百年たつても

五 未来

「翁遷化の年深川を出いで給ふ時、野坡問うて云ふ、俳諧やはり今のごとく作し侍らんや。翁曰、しばらく今の風なるべし、五七年も過なば一変あらんとなり。」
「翁曰、俳諧世に三合は出いでたり。七合は残りたりと申されけり。」

 かう云ふ芭蕉の逸話を見ると、如何にも芭蕉は未来の俳諧を歴々と見透してゐたやうである。又大勢の門人の中には義理にも一変したいと工夫したり、残りの七合を拵へるものは自分の外にないと己惚れたり、いろいろの喜劇も起つたかも知れぬ。しかしこれは「芭蕉自身の明日」を指した言葉であらう。と云ふのはつまり五六年も経れば、芭蕉自身の俳諧は一変化すると云ふ意味であらう。或は又既に公にしたのは僅々三合の俳諧に過ぎぬ、残りの七合の俳諧は芭蕉自身の胸中に横はつてゐると云ふ意味であらう。すると芭蕉以外の人には五六年は勿論、三百年たつても、一変化することは出来ぬかも知れぬ。七合の俳諧も同じことである。芭蕉は妄りに街頭の売卜先生を真似る人ではない。けれども絶えず芭蕉自身の進歩を感じてゐたことは確かである。――僕はかう信じて疑つたことはない。

(芥川龍之介『芭蕉雑記』)

※「遷化」 ……遷移化滅。高僧が亡くなること。


 芭蕉の没年は1694年。それから300年経つと1994年。地下鉄サリン事件が起きた年だ。正岡子規の『芭蕉雑談』が1893年。正岡子規は概ね芭蕉を褒めてはいるが、決して仰ぎ見てはいない。例えば『猿蓑』には悪い句が少ないと書いてみる。(『俳諧大要』)「物いへば唇る寒し秋の風」などは好みの句だという。(『俳句の初歩』)元禄時代を作った本尊ともいう。(『俳句上の京と江戸』)しかし芭蕉に300年を背負わせる気はさらさらない。

 それに対して芥川は正岡子規など眼中になく、「三百年たつても、一変化することは出来ぬかも知れぬ」と書いてしまう。

 これはまあ、かなり正確な予言だったということにはなるかもしれない。その後多くの俳人が生まれ、さまざまな流派が誕生し、『ホトトギス』は今でも続いていて!

 今、名聞を好まぬ俳人は結社になど入らずただ黙々と句作を続けているのであろう。NHKにFAXで俳句を送ることもしないだろう。

 曽祖父が高浜虚子の稲畑廣太郎が主催する『ホトトギス』というのは、どうにも蕉風とは遠い世界のものに思える。


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