まずちゃんと読もうよ 本当の文学の話をしようじゃないか⑬
結局人文学系の学者というのは自分の「専門分野」においてさえ、事実確認する義務を免除されている、という状況があることが問題の根本ではないかと思う。「会社法」を専門としながら会社法の運営を知らず、株主総会に参加してもいない。何なら自分が問題視した株主提案を読んでさえいない。ネット記事の拾い読みで批判することが許されている。そういういい加減なものが文学以外のアカデミックな領域に拡大しているのではないか。
文学に関しては何か格好いいつもりのことを書いていると褒められるという歴史がある。
江藤淳の失敗を横取りしようとする蓮實重彦。このおぞましい光景は蓮實重彦の権威をいささかも損なわないでいる。
・人間としてはまことに敬服すべき婦人
・夫に對する妻として完全無缺
・悟道の老僧の如き見識
・節操の毅然たるは申すに不及
・二世と契りし夫
嫂の死に際して子規に送った漱石の手紙にはこのような文言がある。これで実際に肉体関係があれば漱石はとんだサイコパスである。
夏目漱石というほぼだれでもアクセスできる研究対象に関して、これほど頓珍漢なことを書いていて誰にも批判されないのは、ちくま学芸文庫の『夏目漱石論』が原材料値上がりの所為で再版されないからではなく、ただただ蓮實重彦が権威だからである。
しかし
問題はそこなのかね?
漱石が誰とセックスしていようがいまいが、それが文学的問題なの?
結局それは夏目漱石作品を読んで、感動しなかった人の余技なのではないか。少なくとも『行人』で「梅」「テレパシー」「いいかげんなお使い」「重箱」「一郎の死」に気が付いていれば、漱石と嫂の関係はどうなっていたのか、などということは考えもしないだろう。
しかしただ作品を正しく読むというだけでは論文にはならず、学位ももらえない。だから「まず正しく読む」という当たり前のことが軽視されてきた。
デッドコピーを再生産するシステムが出来上がった。これは適当に読み飛ばしても論文が書けるという話ですらない。適当に読み飛ばしている人たちが論文の指導をしているのだ。ズボンのおしりが茶色い人がうんこの拭き方を指導しているようなものだ。これこそ教育のデストピアではないか。
さらに不味いのはこれが日本国内だけの話でもないということだ。
こうした間違った情報の伝搬というのは日本人が気が付かないところで盛んにおこなわれているのだろう。それにしてもこのダミアン・フラナガンの企ては悪気がない分深刻なものであろう。夏目漱石をアヘン中毒者と見做し、一人の女を巡って子規と争い、裏切ったと言い張る。ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』の影響下で宗助は山門に登らされたのだということに日本人は気が付いていないと主張する。
ふう。
何でもありだ。
つまり問題にすべきこと、すべきでないことの基準があいまいで、検証が不十分。ニーチェ云々に関しては、漱石作品を読みつくしていないところから生まれた誤解に過ぎないと言うしかない。
すべてはただひたすらに丁寧に読むというところからやり直しすべきではないかというのは、原テキストたるべきものに付けられた註解がそもそも間違っているからだ。
全然読めていないのだ。それなのにこの段階で「漱石文学とは……」と総括して見せて格好つけていることが一番格好悪いと思う。まず全然読めていないこと、そもそも読んでいないことを認めない限り何も始まらない。
スカンボエグスとは何か、タマルーとは何か、そういうところから始めなくてはならない。ひひらく、ヒビラギヌとは何なのか、そこから始めなくてはならないのだ。
そして何が書かれているのかを正確につかまなければならない。
読んだつもりの知ったかぶりの恥ずかしさ、それを避けるためにはこの本を読まなくてはならない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?