派遣社員の天使がくれた、私を変える3ヶ月 第2話

「天使のラク夢メソッド一ヶ月目~今を感じる~」

『呼吸を意識する』 

次の日、いつもと同じように資格試験の参考書を読みながら、電車に揺られていた。

昨日の出来事を思い返す。天使夢という変わった名前の派遣社員さん。薄暗いエレベーターホールで変な話をされて、とまどった。と同時にわくわくしている自分もいる。

でも、天使さんも業務が本格的に始まれば、私とはあまり話してくれなくなるんだろうな。私はチームリーダーの立場で、彼女は派遣社員。

仕事をする上では、そんなに仲良くしない方がいい。今日から、線引きをしていかなくちゃ。

ため息をつきながらページをめくったとき、ぐいっと参考書を引っ張られた。

「え?」

目を上げると、天使さんが私の参考書をペラペラめくりながら目の前に立っていた。 

「へーこんなの読んでいるんですね」

「て、天使さん! ちょっと! 返してください!!」

焦って取り返す。いつか転職してやると意気込んで買った資格参考書。見られると恥ずかしい。それ以上に、転職希望だということが、部下である天使さんにばれるなんてまずい。

天使さんは資格については触れず、思いがけない質問をしてきた。

「これを読んでいて、実希さんは楽しいんですか」

「楽しい? いや、必要に迫られてやっている勉強だからそりゃあ楽しくはないですけど」

「じゃあ何なら楽しいんですか」

「えーと……、小説とかなら読んでて楽しいですけど。読書は好きだし」

「何でそれを読まないんですか」

なんか矢継ぎ早に質問してくるなぁと困惑してきた。

「あの、私は楽しもうと思って参考書を読んでるわけじゃなくて、時間を有効活用したくて読んでいるんだけど」

「楽しいことをするのが一番、時間の有効活用ですよ」

ぽい、と参考書を私に返して天使さんはそう言い放った。

この人、私の通勤時間の過ごし方にケチつけて、何様なんだろう。イライラしてきたのが、顔に出たのかもしれない。

「実希さん疲れてますよね」

昨日、小雪ちゃんに言われたのと同じことを言われた。またこの人も私の批判?

もうやけになってきた。

「そうですね! 疲れてます!! だから小説を読む気力もない。参考書は楽しくないけど、こんな毎日から抜け出すために読んでるの!」

一気に言ってからふと周りを見ると、私の大声に驚いた車内の人たちがこちらを見ている。恥ずかしくなって顔をふせる。

せっかく私のことを気にかけてくれたのに、またきつい言い方しちゃった。なんでこんなに余裕がないんだろう。

泣きそうになってきて、もう天使さんの顔を見ることができずに逃げるために参考書を開いた。

「だったら、もう休んで」

今度は優しい声で、天使さんは両手を私の手に添えて、参考書をそっと閉じさせた。

「本は閉じて、呼吸してみて」

「呼吸? 呼吸なんて、いつもしてるけど…」

優しい声と仕草に少し心がほぐれたけど、やっぱりこの人が言うことは変だ。

「そう。呼吸っていつもしてるけど、意識してないよね」

天使さんは続ける。

「知らない間に、呼吸って浅くなってるの。ストレスを感じるときは特に」

「へぇ……」

「だから、こういう電車に乗ってる時間を使って、深く呼吸してみて。目を閉じて、鼻から吸って、お腹と胸に空気を入れて」

言われたとおり目を閉じる。なぜか天使さんの言葉は、私の心に素直に入ってくる。

「そして、吸うより長い時間をかけて細く長く、吐いて……」

落ち着いた天使さんの声にそって、吸って吐いてみる。

やってみると、いつも私の呼吸って浅かったんだなぁと実感する。

深呼吸すると、だんだん心が落ち着いてくる。

「ゆっくり吸って、吐いて。何か考えごとが浮かんできても、それは手放してね。呼吸だけに意識をむけて」

なんだか、友達と京都旅行に行ったとき、お寺で体験した禅みたいだった。

そうやって浮いてくる思い出も置いといて、自分の呼吸だけを意識してみる。

電車の中にいるのに、自分の周りだけ別世界になったみたい。いつのまにか、私は自分だけの空間にいた。

「まもなく駅に着きます」

急にアナウンスが流れてきて、びくっとする。

「大丈夫。ゆっくり自分の身体に意識を戻して……手足の先から徐々に」

天使さんに従って、意識を戻す。だんだん、周りのザワザワが戻ってくる。ゆっくり目を開けたとき、ちょうど駅についた。

駅のホームで、天使さんは 「ね。ちょっと軽くなったでしょ」 と言いのこし、人ゴミに紛れていなくなってしまった。

私は、まだポカンとしたまま突っ立っていた。

やがて人の波に押されて改札をくぐり、いつものようにビルまで歩きはじめた。歩いている内に、どんどん頭がクリアになってくる。

「あれ。確かに、なんか身体が軽いかも」

朝はいつもしんどくて、それが当たり前だったのに。数分呼吸を意識しただけでこんなに身体の感覚が違うなんて。

それに、憂鬱な気持ちが今日はない。「これから一日がはじまるんだ」という改まった感じがする。こんな朝は何年ぶりかな。

会社が入っているビルにつくと、エレベータで、この前のえらそうなおじさんと一緒になった。

私の後ろに乗り込んだおじさんに、何も言わずに五階ボタンを押してあげた。

「おっ」という声が背中で聞こえる。

おじさんが降りるときに開ボタンを押して待っていると、 「ありがとうな」 と言ってくれた。

たったそれだけのことだけど、少しだけ理想の自分になれた気がした。

業務時間はいつも通りに過ぎていった。天使さんは、普通の派遣さんのように業務にあたっていて、昨日の出来事にも電車での出来事にも触れてこなかった。

昼休憩は、また声をかけてくるかと身がまえていたけど、いつのまにか天使さんはフロアを出ていた。ちょっと肩すかしをくらった気分。

私もあえて、話しかけなかった。

その日の夜。

家に帰って一息ついていると、ふとカバンに入れっぱなしになっていた、天使さんからの、あのもらいものを思い出した。

「天使が私を変える三か月」と書いてあるノート。

開いてみると何も書いていなかった。

せっかくもらったし、何か書こうかな。天使さんからもらったんだから、天使さんの言葉を書いておくのはどうだろう。

とりあえず「呼吸を意識する」と一ページ目に書いてみた。

私は元々、手帳やノートが好きで何かを書いていると安心するという癖があった。

昔は日記もつけていたけど、社会人になってからは記しておきたい出来事も特になくて、やめてしまった。こうやってノートを開くのは久しぶりな気がする。

「今日は電車の中で天使さんに会って、呼吸を意識するように言われた。呼吸をする間は、不安も焦りも感じなかった。

(感じてもまたすぐ呼吸に集中を戻した)。そしたら、いつもの朝のイライラが少し治まった」

こんな感じで日記を続けてつけてみた。

「そういえば、天使さん。このノートに書いていけば、変われるっていってたけど、何を書いて変わればいいのやら」

はぁ、とため息をついて、ノートをまたカバンにしまった。


次の日からときどき天使さんと電車で会うようになった。

「うわ!また居る!」

思わず言ってしまうと、

「またとは失礼な。ほら、休んでって言ってるでしょ」

怒られるので、天使さんに見られているときは参考書を閉じて、深呼吸をしてみることにした。

そうしていた、気分が落ち着いて疲れも取れていることに気が付いた。

天使さんと電車で会わない日も深呼吸が習慣になってきている。

天使さんの言いなりなんて悔しい気もするけど。それにしても、彼女はなぜこんなに私にかまってくるんだろう。

会社での天使さんは、他の社員とはいたって普通に接している。たわいないおしゃべりしかしていないようだ。

間違っても「天使夢のラク夢メソッド」なんて意味が分からないことは言っていない。

みんなの前だからか、私に対する態度も普通で、

「岡野さん、頼まれたコピー終わりました、次は何をしたらいいですか?」

と、いたってクールな常識人のように接してくる。

変な人だと思うけど、天使さんにあれこれ言われるのは実はそんなに嫌じゃなかった。会社のチームの人とはあんな風に楽しくしゃべることはない。だからこそ、意味の分からない天使さんの話でも、話しかけてくれることが嬉しかったのかもしれない。

通勤時間に呼吸を意識しながら休むようになってから、朝だけでなく、毎日のイライラが減ってきていた。

業務中にも、イライラしそうになったらノートを開いてみることにした。

自分が書いた「呼吸を意識する」という文字を見て、一呼吸おいてみる。

「えーと、小雪ちゃん、進捗はどんな感じかな?」

前に、報告を聞いて怒ってしまった後輩の小雪ちゃんに、自分から進捗を聞いてみることにした。

「えっ? あ、あの。実はこれがまだです。すみません」

小雪ちゃんは明らかに狼狽していた。あー、私怖がらせているんだなぁ、少しショック。

自分から様子を聞くことがこれまでなかったし、報告されたときは怒っていたからしょうがない。

「そっか。まだ終わってないか。じゃあさ、みんなで割り振ろうよ。どこまでなら自分でできそう?」

「えー! いいんですか! みんなにやってもらって。助かるなー! てへへ」

 本来お調子者の小雪ちゃんは、手伝ってもらえると分かって安心したのか、みんなに「もう~」「やだよ~」と突っ込みを入れられながらも嬉しそうだった。

それを見て、なんだか私もホッとした。私、やればちゃんとチームの進捗管理できるかもしれない。

小雪ちゃんの隣で、私たちのやり取りを聞いていたはずの天使さんをチラリと盗み見た。

天使さんはこちらを見てはいなかったけど、少し微笑んでいるような気がした。

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