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40代でリ・デザインする自分のミライ -2-

事件記者として、えげつない世界で生きてきた。

「思えば大学にはほとんど行かず、山登りばかりしていましたね」 
作家・ジャーナリストの佐々木は、学生時代をこう振り返る。京都大学を目指して二浪したものの叶わず、早稲田大学に入ったが、大学に対して興味をもてなかった。そこで、社会人山岳会に参加し、ロッククライミングや冬山巡りにひたすら明け暮れた。 当時は、狂乱のバブル時代。学生たちは、後年の就職氷河期が嘘のように、普通に大学に行き卒業すれば難なく就職できる、そんな時代だった。
「そんな右肩上がりで順調な社会への反発もあったのか、大学4回生になっても就職せず、7年もいました」

そんなとき転機が訪れる。大学7回生で中退し、毎日新聞社に就職したのだ。
「もともと読書や文章を書くのは好きでしたが、それ以上の深い理由もなく、学歴不問で受けたら受かった。だから入ったという感じでした」
新聞記者として担当したのは警察。いわゆる事件記者としての日常は、激務の連続だった。警視庁記者クラブの場合、特別捜査本部事件、すなわち新聞で大きく取り上げられる殺人事件や誘拐事件などは、年間35件ぐらい発生する。つまり、ほとんど毎週のように事件に追われ続ける。
しかもこの時代(80年代末~90年代半ば)、日本史上に残る大きな事件が連続して起きた。
オウム真理教事件、ペルーの日本大使公邸占拠事件、エジプト(ルクソール)での外国人観光客襲撃事件、山一證券の倒産など。
いずれの事件にも佐々木は最前線で取材し、特ダネをとるために修羅場をくぐり抜けてきた。

事件記者、特に東京本社の中枢に籍を置く記者は花形とされたが、その実態は過酷だ。
毎日、朝刊・夕刊と2回の締め切りに合わせて、記事を書く。毎日寝る間も無く、特ダネ探しに明け暮れた。
単に事件を追いかけるだけなら何とかなるが、特ダネをとれないと、降格されたり、違う部署や地方に配置換えされたりする。社員だからメシは食えるが、中枢に居られなくなる現実があり、生存競争が激しい。

「記者どうしもライバルです。本当に信用できる人とはチーム取材もしますが、基本的に他人を信用できません。油断すると手柄を横取りされます。えげつない世界ですよ」
一般会社員の感覚だと、こんな厳しい環境だからこそ、同期の結束のような厚いつながりがありそうだが、そのへんはどうなのか?

「つながる人もいるでしょうが、同期からも妬まれます。特に花形にいたら、それ以外の人から露骨に妬まれる。私なんかはずっと花形を歩んできたから、誰からも好かれていなかったでしょうね」
事件記者は、一見、聞こえのいい花形だが、実態はそんな生易しいものではなかった。
この環境を耐え抜くには、心身に強いタフさが求められる。いかに百戦錬磨の佐々木でも、たやすい道ではなかった。

【続きます】

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