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40代でリ・デザインする自分のミライ -5-

社会からの離脱と浮上への布石。

これまで佐々木氏、前園氏の経歴を辿ってきたが、ここで、筆者である私の話も記しておこう。

文系大学を卒業後、理化学機器メーカーに営業職として就職したものの、わずか3ヶ月で退職。当時の自分からしたら色々と理由はあったものの、今の自分からみれば、ただの言い訳に過ぎないと、バッサリ切り捨てることができる。あえていいように言うならば若気の至りというやつだろうか。

いきなり蹴つまずいた原因は、就職活動の失敗だ。メーカー志望で、主に精密機械系メーカーを中心に狙っていた。BtoCよりもBtoB系で、検査機器などの製品に深い関心をもっていたからだ。
当時は就職氷河期と言われた時代。バブル崩壊の影響で企業の求人も減り、有効求人倍率は1を下回っていた。そんな時代に、文系の学生が理系企業への就職を目指すことに、そもそも無理があった。文系学生に開かれた職種は、営業職のみ。自己分析と職種分析も甘かった状態で、企業もよく採用してくれたものだ。私が人事担当者ならば採用しない。
あらためて振り返るならば、こんな状態での就職に無理があったのかもしれない。

かくして、せっかく得たチャンスを自らの意思で離脱し、社会にニートが一人増えただけだ。
離脱後しばらくは、さすがに精神的にまいっていた。自業自得とはいえ、自分の甘さへの自己嫌悪と将来への不安が、交互に自分のメンタルを追いつめていく。家からほとんど出ない時期が数ヶ月続き、体調も思わしくなかった。
今思えば、あれは軽いうつ、もしくは自律神経失調症のような状態だったのかもしれない。

実家住まいとはいえ、少ない蓄えも尽きていき、焦りも増幅していく。
いつしか、何もかもが嫌になっていた。
自分の状況、その原因を引き起こした自分の甘さ、そのすべてに。
その自己嫌悪は、いつしか大きな憤りに変わっていく。
「このまま終わるわけにはいかない。」

バイトを始めた。
求人誌で見つけた製版会社(印刷系)。条件も悪くなく、社員登用の道もあり、仕事にも興味があった。すぐに応募したらラッキーにも採用された。
実はこの会社には、少なからずの因縁があった。
新卒の就職活動時代に応募し、二次面接まで受かっていたが、他社で内定をもらったため、断りを入れていた。
あれから月日も経っていたし、生活がかかっていたため、バツの悪さは微塵も感じなかった。むしろ誰も自分のことなど覚えてはいないだろうと、高をくくっていた。

初出勤すると、まず社長との面談が行われた。社長は顔を合わせてすぐさま、こう言った。「覚えているよ〜」。これまで感じたことのないほどのバツの悪さを感じ、恥ずかしくてたまらなくなり、その場から逃げ去りたくなった。
それが顔に出ていたのか、「よくぞ来てくれた。本当にうれしいです」。リップサービスかもしれないが、社長が温かい言葉をかけてくれたことには、素直に感謝した。

それから、印刷に関する知識、技術を一からたたき込まれた。ちょうど時代は、アナログからデジタル化への移行期で、手作業とPCでの作業の両方を習得する必要があった。各部署を渡り歩きながら、次々に技術を学び、できることを増やしていった。MacやAdobeソフトとの出会いもこの頃。Illustrator5.5やPhotoshop4.0の時代だ。実務の学びだけでは足りないため、自費でスクールにも通い、デジタル技術を貪欲に吸収していった。画像処理検定やDTPエキスパートなどの資格試験にも挑戦し合格した。
職種も駆け出しの手作業スタッフから、製版オペレータ、レタッチャー(写真補正・加工)と主力要員となり、さらにデジタル化が進んでいく。
それから月日が経つのは早いもので、気がつけば5年ほど経ち、通常業務の傍ら若手への指導をするまでになっていた。

【続きます】

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