SF小説飛浩隆『ラギッド・ガール 廃園の天使Ⅱ』で難しかった「ふた組の目」という概念とフーコー

 何気なくテレビをつけていると自分を内側から監視する監視人が生まれる、、、というような話が聞こえてきた。Eテレの世界の哲学者に人生相談「社会の中での生きづらさとどう向き合うか~フーコー」という番組だった。哲学者ミシェル・フーコーの考えをわかりやすく解説しそれを生活にどう生かしていくか、という番組でこれが面白かった。この話を聞いて思い出したのは飛浩隆の小説『ラギッド・ガール 廃園の天使Ⅱ』だった。この小説にこのような一節がある。

コグニトームが自己組織的に連合していくとき、それを内省する視点──目が自然に発生する。サビーナの中に、それとは別のふた組めの目をセットしたかったのだ、と老人はこともなげに言った。

—『ラギッド・ガール 廃園の天使Ⅱ』飛 浩隆著
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 この「ふた組めの目」というものが読んでいるときはよくわからなかった。結局そのまま読了してしまったのだが、ふとテレビから飛び込んできた話の刺激でそんな記述があったなと思いだした。もしかしたらよく分からなかったものを理解する手助けになるのではと思えた。ここを理解することでより物語への理解も深められそうだという思いもあった。

 フーコーのほうから先に補足する。自分を監視する監視人という話はパノプティコンの世界で出てきた話だ。パノプティコンは牢獄の設計で、監視者は中央の監視塔から全体の牢獄を見ることができ、罪人から監視者の姿は見ることができない。罪人はいつ監視塔から自分が監視されているかわからない。逆に言えばだれも監視塔におらず監視されていない可能性もあるが、それでも逃げ出そうとしないのは自分の中に監視人が生まれその第二の目ともいえるものに縛られてしまうから、ということらしい。実際に監視の目があるかどうかは関係なく、一方的な監視体制というシステムがあることで罪人それぞれの内面に監視の目を生み、パノプティコンは監獄として機能する。

 ラギット・ガールでの「ふた組めの目」についても同様のことが言える。二組目の目というシステムが存在し、監視されていると認識することが大切だった。システムがあると認識することで監視される側の内面に監視人を作り上げることが可能となる。監視される側は監視の目からひと時も逃げることができず、結果として安定した秩序(?)が生まれる。監視されるほうとしては絶対に逃げられないためたまったものじゃないが、監視する側にとっては非常にリーズナブルな対処法だとおもう。管理するのは中央の監視塔ひとつでよく、監視対象は視界に収まる限り無尽蔵に増えても能力が損なわれない。極論、監視塔は張りぼてでも、監視できるというシステムが成立していると思い込ませることができればいい。それならばメンテナンスコストもかからない。

 小説の中では、監視対象が人になっているシステムと、システムAがシステムBに監視されるという話の二つがあり、それがよくわからなくなったポイントだったと思う。いつ逃げ出すかわからない無秩序な罪人と、いつバラバラになってしまうかわからないシステムの要素群、これらが同列なものとして扱われたためだろう。これらはどちらも「ふた組めの目」によって秩序を与えられる対象ということだ。そう考えると同列に扱われるものとしてとらえることができた。

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