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光る酸素


「おい」
千吉さんが、細い肩越しに人差し指を振り上げた。
「眩しいから、ちょっとそこのカーテン閉めてくれねえか?」
真昼の日差しが、目にしんどいのだと言う。
私は、日用品が入ったプラスチックケースを
ひっくり返さないように、水色の薄いカーテンを引く。


窓の外では干した下着が風に揺れて、すぐそこの高架の上を、西武線の黄色い車両が通り過ぎて行くところだ。
淡い日差しでなお明るいアパートの一室に、タタンタタン、と歯切れのいい車輪の音が響いた。

電車が行ってしまった後は、いつものように、酸素濃縮機のシューシューと眠気を誘うような作動音が、狭い部屋を廻っている。


引っ越したその日の様子が想像できるほど質素な部屋には、介護用ベッドとこたつと小さな食器ダンスがあるだけだ。
あとは、千吉さんが手を伸ばせば届くところに何でもある。
爪切りや孫の手や筆記用具や手ぬぐいが入れてあるプラスチックケースがいくつか、こたつの周辺を取り巻いていた。

「今日は掃除はするな」
千吉さんは背中を向けたまま、そう言った。
二十四時間機械から送られてくる酸素の管を
鼻に差し込んで、小さなこたつの天板に肘をついて、痩せ細った上半身を支えながら、テレビの画面をにらみつけている。
眉間の縦じわが何本も寄って気むずかしそうなのに、瞼と涙袋がたれ下がっていて、悲しそうにも見える。
メロドラマを見ているのだが、音声を消してあるのがおかしい。

千吉さんはすっかり横着になっている。
少しの動作で疲れてしまうので、できるだけ動かない。
「髭を剃ってくれ」
プラスチックケースに手を入れて、ぶっきらぼうにシェーバーを取り出した。
管を取っても少しの間なら大丈夫だと言う。

スイッチを入れると、のどかな日差しのなかで
渇いた音が鳴り出す。
私は千吉さんの顎に手を添えながら、シェーバーを押し当てる。
すると、千吉さんはすぐに私の手首をつかんだ。
握ったまま、少しも動かさない。
千吉さんのてのひらが湿っている。
シャリシャリシャリと、伸びた白髭を刈り取って行く。
への字に結んだ口をへの字に開いて、下の銀歯が
覗いている。
「いいな。いいな。あんた、まだまだ若いな」
二重の瞼をぎりぎりまで大きく見開くと、テレビを見つめたまま、千吉さんはうん、うん、と、うなずいた。

しばらく経って苦しくなったらしく、急いで酸素の管をつかんで鼻に差し込む。
ごっくんと唾を飲んで大きく息をしながら、虫の羽音みたいな小さな声で、
「肩を揉んでくれ」
と言った。
小人のような背中が、切なそうに上下している。

後ろから両肩に手を乗せると、細い糸のような呼吸が伝わって来た。
カーテンの水色を含んで、短く刈られた襟足の白髪がきらきらしている。
肩は鉄板みたいに凝っているが、揉むよりも優しくさする方が先だった。

千吉さんは、息が整わないうちから話し始めた。
明日、と千吉さんは言った。
「明日、俺の身体を拭いて欲しいんだ。あんた、できるか」
できます、と答えると、私の指先を軽く握った。


「でもな」
てのひらが湿って、冷たい。
「男が目の前で、裸になるんだぞ。俺のおちんちんも、全部見えちゃうんだぞ。あんた、興奮しねえのかな」
千吉さんはまだ息が荒いのに、勢いづいていた。

ところで、あんたの旦那はどうだ?
満足させてもらってんのかい。
ああ独身か。じゃああんたの彼氏はどうだ、床上手かい?


千吉さんは、しばし卑猥な問いかけを繰り返し、
それが終わると、今度はかつての性の武勇伝を始めた。
熱っぽくつぶやく千吉さんは、意地が悪くて下品だったが、湿ったてのひらは枯れ枝のように理性的だった。

俺とアレした女は、みんなよがった。
みんなよく泣いたよ。
女はみんなよがった。
あんたもそうだろう。
「アッハーン、いいわぁ……」


少しのけぞった千吉さんの声が、急に裏返る。
ひとしきり話し終えたところで、握っていた私の手を静かに離した。

「疲れただろう。休みなさい」
浮き出た青白い頸椎を、午後の柔らかい光が
包んでいる。
背中では西武線の急行が、速いリズムの音を立てて通り過ぎる。

駅前の銀行で頼まれた現金をおろして買物をして帰ると、千吉さんが、
「よし、食べる」
と言った。
惣菜を買って来ても、食べるのは決まって冷凍庫の中のハーゲンダッツだ。
二つ出して来るように言って、一つは私に勧める。
向かい合ってラムレーズンのカップにスプーンを立てると、千吉さんの眉間の縦じわの数が少しだけ減った。

「タクシーやってたんだ。
二十年くらいだったな。
まあまあ羽振りはよかったよ。
女房子供に、いくらかはいい暮らしさせてやった。
でも病気になってさ。
俺は女房にクビになったんだ。
俺は人生をクビになった」

千吉さんはぴちゃぴちゃと舐め取った舌を鳴らしながら、この暮らし見ればだいたいのことわかるだろう、と、情けなく肩を落として窓の方を見た。
干した洗濯物の影が、水色のカーテンに映っている。
影は穏やかに風に揺れている。

「アイスクリーム、好きなのかい」
私がうなずいたら、じゃあ今度買物に行ったら買いなさい、と言った。
「俺、あんたのいる事務所の社長と仲がいいんだ。楽で近いとこ行かせてやるように、社長に頼んでやるからな」
また肘をついて、背中を丸めて、いつものポーズでテレビをにらみつけている。
手を伸ばしたと思ったら、耳かきで耳をかいていた。

「おい」
帰りがけに、千吉さんに呼び止められた。
「持って行け」
片手で財布から千円札数枚出して渡された。
六千円ある。
もらえません、と断ると、
「誰でもやっていることだ。遠慮するな」
と言った。
何度も断っているうちに、枯れ枝のような手が
私の手に触れた。
「あんたが好きなものは何だ。
俺はこんな身体だから、買って来てやれねえんだ。だから、これで買え」


喉がかすかにぜいぜい鳴っている。
手はやはり冷たくて湿っている。
私はその手を何気なく握った。
シューシューシュー。
酸素をつくる音を聴きながら、お互いに気まずくなった。

「爺さんになるのって、早いな。俺、自分がもう爺さんだなんて、信じられねえや」
千吉さんは、ペットボトルのお茶を両手で持って、ひとくち、ふたくち、すするように飲む。


「また明日」
と、ドアを閉めた時、それまでずっと両耳を撫でていた酸素の音が急にやんだ。

千吉さんは、翌日、救急車で病院に運ばれて行った。
私は仕事でアパートの前を通るたびに、水色のカーテンを見上げた。
半年後に通った時、そこは空き部屋になっていた。
高架の前に建つアパートの二階の角部屋は、
とても日当たりがよかった。
空き部屋のガラス窓に、さんさんと光が降り注いていた。

(了)

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