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勝つことの喜びを知った中学野球 市原ポニー

皆さんこんばんは!尾形 康平です。

さて今回は僕自身の野球人生の振り返りについて書いていきたいと思います!
いつのことから書いていくか迷い、先日Twitterでアンケートを取らせていただいた結果、「市原ポニー時代から」に投票が集まりましたので

市原ポニー→習志野高校→清和大学→ハナマウイ

この順番で書いていきます!

是非最後まで見ていただけたら幸いです。

今回の市原ポニー時代は、怪我もありましたが、高いレベルでの野球、チームの勝利、ライバルとの出会い。すべてが揃っていたと言える順風満帆な野球生活でした!

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野球やめたい 中学1年夏

いきなりですが、野球やめたいと思いました。笑
どこが順風満帆なんだよと。笑

僕は少年野球時代、弱小チームでプレーしていました。
開会式では隣のチームからユニフォームをパジャマと言われたこともあります。
その為、基本を全く知らなかったのです。

みんな簡単にできるようなことができない。
もうやめたい。家でゲームしてたい。

こんな理由でした。笑

しかしこんな僕を引き止めてくれたコーチがいました。
今はチームには所属していないのですが、この時引き止めてくれなければ今の僕はありません。

戦力になるかもわからない選手を止めてくれたのには今でも感謝しかないですね。

「プロになったら契約金半分くれ」

と言われたのを覚えています。笑

これ以降の中学時代は、やめたいと思うこともなくなり、野球に打ち込むことができました!

初めてのピッチャー 中学1年秋

実は小学生の頃の僕は4番ショート、もしくはセンターでした。笑
僕のことを知っている方、見たことのある方は想像もつかないと思います!
ではなぜ、ピッチャーを始めたのか。

その日は2試合が行われる予定でした。
1試合目が終わり2試合目の先発ピッチャーが登板前のキャッチボールをしていると、「いってえー!!」と言う大きな声が聞こえました。
なんと取り損ねたボールが利き手に当たってしまい、ボールを握れなくなってしまったのです。

1試合目で多くのピッチャーを使った為、代わりのピッチャーはもういません。
そこで 肩が強いから と言う理由だけで初めて僕がピッチャーをやることになります。笑
初めてのマウンドは4回11失点。中学野球では珍しい柵越えのホームランも打たれました。

あぁ悔しいなあ

当時の僕はそう思えたようで、そこからピッチャーとして本格的に練習を始め、1つ上の代ながら試合に沢山出るようになっていきました!
この思い、経験がなければピッチャーをやらず、社会人野球まで続けることはできなかっただろうなと今でも思います、、、

投げれば抑えていた 中学2年秋

この頃には変化球も操りマウンドでの立ち振る舞いもピッチャーらしくなってきたのではないでしょうか。

夏も終わり代替わりしたチームでは背番号1をつけさせてもらいます。

自分で言うのもなんですが、この頃の僕は無敵でした。笑
中学生にして身長は180cmあり球速130Km越えのスーパー中学生です。笑

打たれるイメージも湧かない、投げれば抑える。
そんなこんなで関東大会優勝、さらにはその後行われたアジアカップ(正式名は忘れました)でも優勝を果たします。
この関東大会では個人賞総ナメのようなものでした。

しかしうまく行くのもここまでだったのです、、、

絶対に忘れない試合 中学3年春

冬が明け練習試合が始まりました。
その日の相手は神奈川の強豪 中本牧シニア です。

詳しく覚えていないのですが、この日までチームは30連勝ぐらいしていました。

しかしこの日、先発した僕は5回10失点近くしてチームの連勝を止めてしまったのです。

試合後、練習試合にもかかわらず試合に出ていた選手の中には、荷物置き場で泣いている選手もいました。
僕もそのうちの一人です。

今だからこそ言えますが当時は野球やめようかと思いました。
そのぐらいこの試合は忘れられません。
人生で悔しかった試合ランキングに入ってます。笑

この試合の後、監督に「お前天狗になってないか」と言われたのを覚えています。
今だからこそ言えますが当時は「1回打たれただけでなに怒りはじめてんだよ」って思ってましたね。笑

しかしその後の春の関東大会で準々決勝で敗北。
さらには運動禁止になるほどの大怪我をしてしまうのでした。

ライバルに追い越された 中学3年夏

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春の大会後、腰に異変感じて病院に行くと、「腰椎分離症」だったことが判明します。
3ヶ月ほど運動禁止ということで夏の全国大会と千葉県すべての硬式野球チームが参加する「マリーンズカップ」に出場することが難しくなりました。

この時期には習志野高校への推薦も決まっていた為、無理はするなと監督からも言われ、結局この2つの大会にはほとんど出場しませんでした。
その結果、全国大会は3回戦で敗北してしまいます。

焦りを感じている中、それを煽ってくるようにチームメイトの

原田 泰成

が急成長しています。
野球ファンの方なら見たことがあるのではないでしょうか?
後の東海大市原望洋のエースで甲子園出場
さらには東海大から日立製作所へ進んだ豪腕です!

その原田はマリーンズカップで初戦から準決勝まですべて完封という離れ業をやってみせたのです。
しかも準決勝の佐倉シニア戦では1安打完封。

もうこれは追い越されたなと。
歯痒さも感じますがその後、腰も完治して最後の集大成の大会へ臨みます!

最高の締めくくり 中学3年秋

この頃のポニーリーグは秋に3年生主体で参加する全国大会がありました。
本当の最後の大会ですね。

この頃には腰も完治し、予選から短いイニングを重ね、全国大会の頃には万全の体調となっておりました。

舞台は秋の西武ドーム
準決勝で先発のマウンドに立ちます。

ただあんまり試合内容について覚えてないんですよね。笑
皆打ってくれた記憶はあるしあんまり打たれた記憶もないです。笑

この大会の動画がこちらになります。

最初の二人で赤いグローブが原田。黄色のグローブが僕です。

決勝戦は原田が完投してくれて全国制覇を果たしました!
僕は決勝戦はレフトを守っていましたね。笑

市原ポニーでの3年間を最高の形で締めくくれることになりました!

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中学時代を振り返って

これが僕の市原ポニーでの3年間です。
この後、高校 大学 社会人での振り返りも書くのですが、先に言っておきます。

ここが野球人生の絶頂期でした。
なにをしてもうまく行ってた思い出が深いですね。笑

ただ、原田とはライバルと書かせてもらいましたが、現役の時に日立製作所とオープン戦を行い、ブルペンでの原田の投球を見ました。
もうライバルとは到底思えないほど上へ行ってしまいましたね。笑

原田の他にも、習志野 東海大市原望洋 市立船橋と県内強豪校へ進んだチームメイトは他にもいます。
チームメイトだけではなく、もちろん指導者もですね。
本当に周りに恵まれていました。

さて、次は習志野高校時代の振り返りを書いていこうと思います。
書きたいことと、書いていいかわからないことが沢山あるので少し時間がかかるかもしれません。笑

合間に観戦記も投稿できたらさせていただきますので、是非ご覧になってください!







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