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言葉が拙いと思考は単純になる

どうも,こうせいです.台湾に来てから1ヶ月が経とうとしています.1ヶ月が凄く早く感じるような気もしますが,凄く鮮明に記憶が残っている気がします.不思議な感じです.

この1ヶ月で生活にも慣れてきて,いろいろな気付きもありました.今日はその一つについて書きたいと思います.

台湾に来てから当然のように日本語を使う機会がめっきり減少しました.日本語を使うのはラボのボス(日本人です)とポスドク(日本に2年間住んでました)くらいです.あとは時偶,友人や家族と電話で話す程度です.基本は英語でやりとりをしています.もちろん,中国の練習もコツコツ進めています.

中国語はいうまでもなく,英語にしても自分の言語運用の拙さには日々うんざりしています.英語に関しては,確かに日々の会話で使うのですが,あくまでもここは台湾なのでその使用頻度は低く,没入して使うことなどはほとんどないです.街に出れば聞こえてくるのは当然中国語で,看板の文字だけを見れば下手すると日本語と大差ありません.というのも,日本人がアルファベットをかっこいいと思うような感覚で,台湾では平仮名や片仮名がいたるところに使われています.

拙い英語で相手とやりとりをするわけですが,伝えたい内容が高度な場合も当然あるわけです.しかし,悠長に母国語の思考の流れを止めることなくそれを表現することは不可能です.回りくどく婉曲的な部分は割愛し,目的と要求をはっきりさせ話さなくてはなりません.それゆえ,自分の思考も単純(シンプル)になっている気がします.どうしても,複雑な内容を伝えたいときは予め考えを紙に書き出して整理することもあります.言語的な限界が思考を制限する,以前どこかで聞いたことありましたけど,それを実際に体験しているという感じです.「元の思考→言語的制限→再編された思考(単純化)→表現」の流れで言語を運用しているといった具合です.

さて,もう一つ変化がありました.冗長で回りくどい表現を取り払うが故に,そもそも相手と素直に対話できるようになったと感じています.遠慮を表現に織り交ぜられなければ,1ターン目から有り難く素直に受け取るし,いらなければスッと断る.YESかNOかをはっきり言うし,5W1Hを要求する.母国語の感覚でいくと少し無愛想な感じもするし,きっと英語の母国語話者からすると失礼な表現もあるんだろうけど,相手を気遣ったりしていることを暗示する表現が使えない以上,最低限の要求を正確に伝えることが大事になってきます.

この1ヶ月で私は随分と無邪気になったような気がします.もちろん,文化的な側面もあるんでしょうけど,上で述べた側面が少なからず作用しているように思えます.あるいは,英語の特性上簡潔に話さざるをえないのかもしれません(実際にそういう傾向があるかどうかは知りません).

日々無邪気に生活していると,いかに母国語でその流暢さ故に色々と意識的な部分で拘束されていたのかがわかります.もはや,言葉に縛られていたのか,思考に縛られていたのか,鶏か卵かみたいな話なのでなんとも言えませんが,何にせよ,母国語以外で生活することにはそれなりのメリットがあると感じています.

ところで,これを踏まえてみると,中学生の頃,先生に対して敬語を一向に使わなかった級友たちも少し違うように見えてきます.当時は,目上の人に敬語も使わず失礼だとしか考えていませんでしたが,その級友はある意味では言語に縛られていなかったといえるわけです.思い出してみると,そういった級友の多くは自由奔放でのびのびとしていたようにも感じます.もちろん,中には度が過ぎていて,今振り返っても良いものではない記憶もありますが.

そう思うほどに形式的にでも敬語を教育として教えるのにはそれなりの意味があるのだなと感じます.単純に善し悪しの問題ではないと思っています.運用方法によって,思考と行動を制限するわけですから,自分の使う言葉の一つひとつが常に自分を縛り付けていると,私は思っています.


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