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なぜ「他者の美味しい」は信用できないのか

 テレビやSNSなど各種メディアで話題沸騰のスイーツ店。長蛇の列に1時間以上並んで買ってはみたものの、声高に言うほどの味ではない。オープン直後から有名グルメサイトで高得点を叩き出し、全国にその名を轟かせた気鋭店。遠路はるばる足を運ぶも想像していた味と全く違う。お高い飲食店に足繁く通う食通の知人に勧められ、清水の舞台から飛び降りるつもりで数ヶ月前から予約した高級レストランの味がまさかの期待外れ。

 残念ながら、決して少なくない時間とお金を費やしても、食の世界では必ずしも満足を得られるとは限らない。このような不幸な出来事も言わば日常茶飯事だ。筆者がこれまで国内外のべ数千軒の飲食店を訪ねてきた経験から身に沁みて思うことだが、他者の発信する「美味しい」情報は得てして当てにならない。

 メディアに関しては、前回記事「美味しいは美味しさを騙る」の観点から見れば、局所的に集団発生した未分化な「美味しい」の感情の集まりに対し、各媒体が話題性を高める狙いで尤もらしい美味しさの論理をラベリングし続けた結果、実態以上の虚像が生み出されたのだと推察できる。つまり、実際のスイーツに内在する美味しさの論理が話題性の高まりに釣り合わなくなった格好だ。

 グルメサイトや知人の件については、自分以外の多数の人間または食通と認識する者の評価が読み手・聞き手に高い期待値という架空の美味しさの論理を生み出し、それを自らお店にラベリングしてしまったのだと考えられる。これも一種の虚像がもたらした影響と言えよう。

 これら三つの出来事に共通しているのは、食べ手が受信した情報の解釈とその実態に著しい乖離が起きている点だ。それを価値観の相違と切り捨ててしまうのは簡単だが、膨大な情報を正確かつ瞬時に送受信可能となった情報社会の現代において、なぜそのようなことが頻繁に起こるのかは一考の価値がある。

 可能性のひとつは、広帯域通信に対応したスマートフォンの普及による発信者の急増により、単純に情報量が増加したこと。それによって流通する情報の精度や質、信頼性に大きな隔たりが出来てしまったことだ。

 誰が言ったか"1億総メディア時代"の昨今、一般人が大手報道局並かそれ以上の影響力を持つ発信者、いわゆるインフルエンサーたり得る反面、社会にとってノイズにも等しい無価値な情報や流言飛語までもが溢れ返らんばかりの有り様だ。それ自体は一時的な世の流れとして受け止めざるを得ない側面もあるが、この問題に本丸があるとすれば、時代性を逆手に取り、際限なく複製され増殖し続けるデジタル情報の氾濫で半ば強引に押し進められる虚像のインスタント虚構化である。

 本来、虚構とは大小様々な虚像が部材となり、年月をかけて定着していく過程で偶発的な要素も多分に含みながらゆっくりと組み上がるものだ。それが近年、Googleに代表される検索エンジン勢力による情報のハブ化や主要ソーシャルネットワークサービス等によるプラットフォーム囲い込みによって情報の流通経路自体が概念上の箱庭化してきており、その情報環境に取り込まれた多くの人間にエコーチェンバー効果(※1)が起きやすくなったり、自己確証バイアス(※2)が増長することなども指摘されている(Eli Pariser.2011)。すなわち、そこではデジタル情報の物量やアルゴリズム等の仕掛けひとつで情報を特定の方向性に偏らせたり、その信頼性・信用性をも簡単に捏造できることを意味する。言い換えれば即席で虚構を作れてしまう致命的な脆弱さが根底にあるのだ。

※1 複数の情報源(と思わされているケースも多い)から同一の情報を反復的に受け取ることで真実として受け入れやすくなること
 
※2 自分を肯定するための情報ばかり集めてしまうこと

 実は、このような社会構造を憂慮する視点自体は半世紀以上も前に米国作家のダニエル・J・ブーアスティンの著書「The Image(邦題:幻影の時代).1962」でも掲げられている。"マスコミが製造する事実"という尖った副題訳からも時代を問わない情報の力の片鱗がうかがえる。しかしながら、現代社会において情報の流通網から隔絶された生活が現実的でない以上、そういった特性を理解しつつ、共生していくための情報リテラシーを養うことが今後とも受け手側に求められることだろう。それが情報と実態の乖離をひとまず軽減することに繋がると考えられるからだ。

 そしてもうひとつの可能性は、前述のようなデジタル情報がひとつの基盤となる社会構造へ変遷したことで、「ことば」の主要な役割がもはや"情報の正確な伝達"ではなくなってきているという見方だ。芸術が現代において美を表現する手段でなくなったように、ことば=言語を手段とする目的が意思疎通やコミュニケーションという旧来の機能性よりも個性や偏りなどの自己表現であったり、唯一性や独自性といった「価値の提供」に比重が置かれ始めているのではないかということだ。それ故に同じ「ことば」で紡がれる情報も正確さや受け手の理解度よりもその影響力の強弱こそが重視されてしまう理屈だ。

 ジャーナリズムにおいて"ペンは剣よりも強し"と言われる。テレビや新聞に代わり、今や広告・マーケティングの主戦場となった各種SNSの活況ぶりや、某国の大統領選の間際にメディア界隈を賑わせるスキャンダラスなフェイクニュースの応酬等を見るに、ひとつの情報が経済や社会を動かし得るという「ことば」の絶大な力は健在だ。また、情報が様々な媒体を通じて指数関数的に伝播していく流れから、今の情報社会は一般人を含む発信者全員がその力の一端を担う分散構造とも言え、その力を自認する者たちを中心に「ことば」の機能性がより「力」へ傾倒していったとしても不思議はない。

 改めて冒頭の虚像3例を振り返ると、それぞれメディア・インターネット・人が情報を媒介することで予期せぬ「ことば」の力が介在し得ることに受け手の意識が及ばなかったリテラシー上の問題と、「ことば」の力が掛かる力点が情報社会において巧妙化し、リテラシーの範疇を超えて暗躍しかねない構造問題の存在を示唆しているように思われる。

 この場合の力とは、「ことば」に事実が正確に投影されることではなく、むしろ誇張や秘匿による不正確さや多義性が生む曖昧さといった発信者の意図による「ことば」の取捨選択で生まれるものだ。今や「ことば」の正確性は影響力の強弱を制御するための一手段に過ぎず、それ自体は必ずしも最大化の対象とならない。また、元来事実とは動かしようのない定数だが、言語学の権威ノーム・チョムスキー博士が著書「メディア・コントロール(2003)」で民主主義とメディアのあり方を指摘したように、いつの時代も情報の受け手の解釈は媒介者にとって動かす対象であり、実質的に変数として扱われる前提に立たなければならない。

 なぜ「他者の美味しい」は信用できないのか。もしもその美味しさの論理が事実=定数による組み立てであれば一定の信用に足ろう。しかしながら、事実は情報となった時点で媒介者の「ことば」の力=変数が掛かり、受け手の解釈は大なり小なり御される運命にある。その条件の下、情報を限りなく事実に近い形で理解しようとすれば、自分がどのような情報環境にいるのか、そこに虚像や虚構があるのか、あれば具体的にどのような干渉を受けているのか、また事実が情報となる過程でどのような変数が掛かり得るのかなどを洞察し、ひとつひとつ明らかにしていく必要がある。そして、最も重要なのが、受け手が偏った主観を自認し、正し、無用な偏見を排した上でその情報を受け入れられるかどうかだ。そう、最後の変数は受け手自身なのである。

出典元:大人のための「感性の食育学」 - コラムニスト・フジワラコウ

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