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身体的健康を目指す「現代食育の限界」

 日本で初めて「食育」という言葉が用いられたのは明治29年(1896年)のこと。福井県出身の医師で薬剤師、また陸軍少将(軍医・薬剤監)としても活躍した石塚左玄が自らの著書「化学的食養長寿論」の中で「体育・智育・才育は則ち食育なり」と説いたのが最初である。

 栄養学がまだ確立されていなかった時代に教育の基本は食にあると唱えたその画期的な理念は後世へ脈々と受け継がれ、現在の食育基本法(平成17年6月10日制定)の重要な基盤となったことに因んで、同氏は「食育の祖」とも呼ばれている。

 100年以上も前に提唱された理念が現代になって改めて推奨され始めた背景は、食生活の洋風化をはじめとする食環境の時代による移り変わり、現代人の極端な偏食による栄養の偏りや不規則な食習慣からくる肥満、過度なダイエット志向、高齢者の低栄養傾向など様々な健康上の問題が生じている点にある。

 当時に比べ食料自給率こそ半減しているものの、ほぼ全世帯を賄う潤沢な食品流通面など栄養環境的に遥かに恵まれた今の世の中でなぜ敢えてそういった健康上の不利益な選択をする者が後を絶たないのだろうか。政府関係機関も度々問題視している個食(家族がそれぞれ別々のものを食べること)や孤食など、生活環境上の諸事情が各人の自由な態度を許容しているのも理由のひとつと考えられるが、真に目を向けるべきは各人がその選択に行き着くに至った心の動向であり、更に言うならば食育という概念が目指すところの「心身の健康」という漠然とした指針の限界である。

 石塚左玄の提唱した食育理念の柱の一つに食養道というものがある。大まかに「心身は食によって作られる」という教えであり、それを要綱として取り入れた現代の食育基本法の条文にも「心身の健康を増進」や「心身を培う」など"心身"に言及する箇所が散見される。 

 問題はその片翼である「心の健康」をどうやって得るのかという具体的な方策が何ら示されていないことだ。よもや古代ローマの風刺詩人ユウェナリスの名言よろしく「健全な精神は健全な肉体に宿る」とでも安易に考えられてはいまいか。心と身体が不可分なのは無論のことだが、この格言の実際はラテン語の原文の部分的な引用が誤訳されて広まったものであり、本来は「健全な精神が健康な肉体に宿るよう(神に)祈るべきである」というごく普通の言い回しに過ぎず、心身の同格性を喚起はしても心が健康に至る根拠としては余りに説得力に乏しい。

 言葉を選ばずに言えば、現在の食育は目標の一つに心身の健康を掲げていながら、実質的には健やかな心が宿る受け皿として身体的健康をこそ目指しているのであり、心そのものについては片手落ちの状態なのだ。

 物質的な充足を経てある程度成熟した社会は遅かれ早かれモノだけでは満たせない心の世界と向き合う必要に迫られる。この場合、食という人間の生命と直結する根源的な営みが心にどう影響し得るのか、また食が身体的健康の先に何をもたらし得るのかという現行の食育が触れていない領域への洞察・考察を通じて、食育が本当の意味で心身の健康に繋がる教えとなるよう新たな一歩を踏み出す必要があるのではないだろうか。

出典元:大人のための「感性の食育学」- コラムニスト・フジワラコウ


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