信州の科学技術と歴史
概要
この話の目的は、信州の科学技術と歴史について、縄文時代から現代まで概観し、信濃の国の創建の経緯を科学技術から理解することです。私は20年ほど前から、趣味と健康のため、信州上田市内にある約200のすべての神社仏閣を巡り歩き、信濃の国創建の歴史について深く考えるようになりました。信州の古い神社をめぐってわかることは、縄文時代から弥生時代への移行期に、信濃の国が成立したことです。この信濃の国が成立した時に、稲作、酒造り、養蚕、製鉄の技術の4つの新しいハイテク技術が、信州にもたらされたことが、多くの神社の由緒記から明らかになりまた。そこで、その一つ一つを、皆さんと一緒に見ていきたいと思います。
このような地方史は、ふつう学校の歴史の教科書では全く習わないと思いますので、他府県の方々には、大変興味深いと思います。それでは、信州の出身の住民が知っているかと言えば、実は、ほとんどの人は知らないことばかりで、県内外の人全員が非常に驚くことと思います。ぜひ、ご一読頂ければ、信州に限らず日本の歴史への見方が変わるでしょう。
1. 縄文時代 どんな材料と技術が使われたか
1-1 縄文のビーナス
縄文時代は、今から約15,000年前から約2,500年前までの約1万2千年間続いた時代です。縄文時代の始まりは、それまでの旧石器時代にはなかった土器が発明された時とされています。土器の発明により、煮炊きができるようになり、それまで食べられなかったものが食べられるようになりました。縄文土器は世界最古で、土器の発明は日本列島だといわれています。
土器の発明から、しばらくたった今から約11,000年前になると、土偶が登場し、縄文中期以降にたくさん作られるようになりました。
そこで、この写真を見て下さい、これは今から5,000年前の土偶で、長野県茅野市で出土したものです。極めて魅力的な女性像です。そのため、縄文のビーナスと名付けられ、国宝に指定されています。日本の国宝の中で、最も古いものです。
材料は粘土と雲母です。粘土は造形して焼き固めるための材料ですが、粘土を土器以外にもこのような造形に1万1千年も前から使っていたというのは、豊かな精神生活を送っていたということです。さらに、雲母は和語ではキララと言いますが、これをわざと混ぜて、焼きあがった時に肌の表面にきらきらと美しいきらめきが出ています。この写真をよく見てもらうとわかるでしょう。これは現代のキラキラメークと同じ発想です。5,000年前も今も同じというのが面白いですね。
このように、土偶の縄文のビーナスは、粘土と雲母を材料にして、焼き固める、つまり焼成という技術が使われています。
材料: 粘土ときらら(雲母)
参考 https://www.youtube.com/watch?v=AeWXC2CKZWU
https://www.joyphoto.com/japanese/travel/150922/togariishi01.html
1-2 黒曜石
次にお話しするのは、黒曜石です。
黒曜石というのは、火山から噴き出した流紋岩が急冷されてできたガラスです。そのため火山ガラスと呼ばれます。これら上段の写真を見てわかるように、濃い黒色をしたものや、うすい灰色をしたものなど産地によって色は少しずつ違います。また、ガラス状態ですので、ガラス一般にみられる、貝殻状断面、を示します。この貝殻状断面は、普通の窓ガラスなどが割れたときにも、その割れた部分を見ると、このような断面になっています。この断面は、極めて鋭利ですので、旧石器時代より、ナイフや矢じり(鏃)、槍の穂先などの材料として使われてきました。下段の写真は、長野県の野尻湖周辺の遺跡から出た、黒曜石の加工品です。ナイフや、矢じりとして使用されていたことがわかります。
期 間 2017年7月15日(土)~9月3日(日); http://nojiriko-museum.com/?p=1119
会 場 長野県上水内郡信濃町野尻湖ナウマンゾウ博物館3階特別展示室
展示品 黒曜石の原石、野尻湖遺跡群(仲町遺跡、照月台遺跡、上ノ原遺跡、東裏遺跡など)から出土した石器
これらの黒曜石は野尻湖周辺では手に入らない石ですが、石器時代の遺跡からはこの石を素材とした石器がたくさん見つかります。この黒曜石の産地は、この野尻湖からは直線距離で80kmも離れた諏訪湖の北東側の一帯です。つまり、野尻湖周辺の遺跡で見つかる石器は諏訪湖周辺から運ばれてきたもので、こうした石器の動きから人々の移動などを推定することができます。
(1) (2) (3)
(1)https://ja.wikipedia.org/wiki/黒曜石
(2)https://plus.amanaimages.com/items/search/黒曜石?page=1&sort=score
(3)貝殻状断面: https://www.photo-ac.com/profile/1734714
火山から噴き出した流紋岩が急冷されてできたガラス = 火山ガラス
ガラスの断面 =貝殻状断口
旧石器時代より、ナイフや鏃(やじり)、槍の穂先などの石器として使用
日本での黒曜石の代表的産地として、以下の5か所がよく知られています。
(1-2-1)北海道遠軽町(旧白滝村) = 十勝石: 北海道全土から東北北部で使用
北海道遠軽町(旧白滝村)の黒曜石は十勝石として知られています。ここの黒曜石は、化学的な成分分析から、北海道全土から東北北部で使用されていたことがわかっています。青森県三内丸山遺跡では、ここの北海道産の黒曜石が矢じりに加工され、これを、秋田産のアスファルトを使用して接着していたものが出土しています。
参照: http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/jomon/life_exchange3.htm
(1-2-2)長野県小県郡長和町(旧和田村)の和田峠付近(~八ヶ岳山麓)一帯
つまり諏訪湖の北東側の一帯が、黒曜石の一大産地です。ここの黒曜石が、東日本中に流布し、中部、関東の地域から多数出土しています。800kmも離れた東北の青森県三内丸山遺跡からも、出土しています。三内丸山遺跡の黒曜石は、北海道白滝からも、信州和田峠からも、このように黒曜石が運ばれてきたのですね。石器時代の縄文時代にもこのように大変広域的な交易がおこなわれていたことがわかります。
参照: まるごと信州黒曜石ガイドブック
https://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/bunsho/kassei/documents/new.pdf
(1-2-3)伊豆諸島の神津島
神津島の黒曜石も非常に有名です。主に、南関東の遺跡で発見されており、2万年前の旧石器時代後期の遺跡からも見つかっています。ということは、2万年前に、すでに、人々は、船で、本土と50kmはなれた神津島の間を行き来していたことがわかります。
参照: 海を渡った黒曜石 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/umiwata.html
(1-2-4)島根県の隠岐島
隠岐島の黒曜石の使用分布は、日本の中国地方、朝鮮半島、ロシア沿海州ウラジオストックにも及びます。
参照: http://web.joumon.jp.net/blog/2007/12/407.html
(1-2-5)大分県の姫島
一般の黒曜石が黒色であるのに対して、姫島では、珍しい乳白色から灰色の黒曜石を産出します。そのため、国の天然記念物に指定されています。東九州から中四国、大阪府に使用分布が広がっています。
参照: http://www.digital-museum.hiroshima-u.ac.jp/~maizou/jiten/Koueki02.htm
1-3 ヒスイ(翡翠)
長野県から新潟県糸魚川市を流れる姫川流域でヒスイ(翡翠)が産出されます。姫川の古名は奴奈川(ヌナカワ)です。この中のヌは、古語では宝石を意味します。したがって、ヌナカワは宝石の川という意味です。ここのヒスイは7000年前の縄文前期から1300年前の古墳時代までの数千年間、勾玉(まがたま)などの宝石に加工され、利用されていました。ヒスイは世界最古の宝石といわれています。この糸魚川のヒスイは、北海道礼文島から沖縄までの日本列島全域と、朝鮮半島南部の遺跡から発見されています。
参考:http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku241.htm
http://satochinblog.jp/blog-entry-5072.html ヌナカワ姫とその子タケミナカタ、糸魚川市内
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku241.htm 出雲大社の勾玉、重要文化財:長さ3.6センチ、厚さ9.9ミリ
この図中の銅像は、現在糸魚川市内に立っているヌナカワ姫の銅像の一つです。奴奈川姫は、糸魚川のヒスイを支配し、その交易を牛耳っていた高志(越)の国の女王です。才色兼備のクレオパトラみたいな人だったといわれています。ところが縄文時代の終わりころ、出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)がこの地にやって来て、ヌナカワ姫と結婚して、この高志(こし)、つまり後に越前・越中・越後などと呼ばれる越(こし)は、出雲の国の勢力下に入りました。出雲の大国主命と結婚したヌナカワ姫は、タケミナカタを生みました。この銅像の子供がタケミナカタです。タケミナカタは、後程詳しくお話しする諏訪大社の御祭神です。この大国主とヌナカワ姫の結婚のいきさつは、越や信濃の縄文時代が終わり、弥生時代が始まるきっかけになった話です。
この写真にあるきれいな勾玉は、出雲大社の所蔵されている、大きな勾玉で、重要文化財になっているものです。
糸魚川の翡翠は宝石として、今から7000年前から1300年前まで、利用され続けました。しかしながら、1300年前くらいから宝石として使われなくなり、その後忘れ去られました。その理由は、神道を推した物部氏と、新しく入ってきた仏教を支持した蘇我氏との争が原因だろうと言われています。神道では、勾玉などを宝石としてあがめていましたが、その推進者の物部氏が、蘇我氏との宗教戦争に敗れました。その後、仏教が主流となり、翡翠は1000年以上も忘れ去られていたため、日本では産しないと考えられてきました。しかしながら、昭和の初めころ、極めて興味深いことに、糸魚川市に住んでいた相馬御風(*注1)という詩人が、万葉集に詠われ(*注2)、ヌナカワ姫が大国主に送ったという宝石が、翡翠であると気づき、そのことで探索が始まり、実際に姫川で翡翠を再発見するきっかけとなりました。
(*注1) 早稲田大学校歌の作詞者
(*注2) 沼名河(ぬなかわ)の底なる玉 求めて得し玉かも 拾(ひり)いて得し玉かも あたらしき君が 老ゆらく惜しも
作者未詳 万葉集 巻第13-3247
2. 信濃国の成立と信州の歴史の概略
皆さん、すでにご存知と思いますが、長野県の古い名前は、信濃の国であり、略して信州といわれています。信州大学というのはそこから名前を取っているわけです。
2-1. 信濃国は出雲の亡命政権
さて、その信濃の国は、縄文時代から弥生時代に移行する時期に出雲の亡命政権として成立しています。
まず、この図の系図を見て下さい。
信濃の国開闢の祖 タケミナカタ
父:出雲(=現島根県)の大国主命、母:高志(=現新潟県)の奴奈川姫)
参考 http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/s26.htm
出雲の大国主は、大国の王様という意味ですが、この系図を見てわかるように、神屋楯姫と結婚して、事代主という子供が生まれます。事代主は、現在、釣竿を担いだ神様の恵比寿様として、よく知られています。父親の大国主は、漢字を音読みするとダイコクと読めるので、のちに、インドの神様シヴァ神と結びついて、今は、お金持ちになる御利益のある財運の神、大黒様としてよく知られています。大国主は、また高志の女王、ヌナカワ姫と結婚して、タケミナカタという子供が生まれます。タケミナカタは、諏訪の神様、諏訪大明神です。タケミナカタは、そのお妃の八坂刀売とともに、出雲から信濃に逃れてきて、信濃の国を建国しました。タケミナカタとヤサカトメは、信濃の国では、西洋のアダムとイブみたいな存在です。そのためタケミナカタは、信濃の国開闢の祖と言われています。
出雲は大国でしたが、西の方にあった、九州の大勢力のアマテラス系の軍隊が、出雲に来て、国を譲れ、つまり、アマテラス系の支配下に入れと言ってきました。大国主は、長男の事代主に相談したいといけないと即答を避けました。その時、事代主は海に釣りに出ていたので、今も恵比寿様の像は釣竿担いだ姿であらわされます。事代主は、アマテラス系の支配に入ることを認めましたが、次男のタケミナカタは、反対し意見が分かれました。そこで、アマテラス系軍隊の将軍タケイカヅチは、タケミナカタに、じゃあ相撲を俺と取って、お前が勝ったら国を譲らなくていい、お前が負けたら国を譲れということになり、2人は相撲を取ったところ、タケミナカタは負けてしまいました。出雲はそれで、アマテラス系の支配下に入りました。相撲を取ったといっていますが、実は戦争をしたのであって、負けたタケミナカタの勢力は、母親の元の支配地であった、高志に逃げますが、海岸沿いでは追手が迫ってくるので、姫川(古名:奴奈川(ヌナカワ))をさかのぼり、今の長野市のあたりに出て、そこから千曲川をさかのぼって、今の上田市まで逃げてきました。最終的には、岡谷まで逃げ、諏訪湖の周辺に落ち着き、もうここから出ないからということで、停戦となりました。そして、信濃の国を建国しました。
したがって、信濃の国は、出雲の亡命政権なのです。これが、出雲の国譲りの話の、最終章となります。
このように、タケミナカタの集団が出雲から信州へ移動しました。そして、弥生文化の稲作、酒造り、養蚕、製鉄の技術を、いまだ縄文時代のさなかにあった信州に、もたらしました。それで、信州で弥生時代が始まったのです。これはAD50頃で、今から1950年ほど前のことと推定されます。年代推定に関しては、この「古代史の復元」を参照しました。興味のある方は読んでみてください。
(参照:「古代史の復元」http://mb1527.thick.jp/nenpyou-jinmuzen.html)
2-2. 稲作
ここに示したのは、長野県の北半分を示した地図です。
一番上の北の方は、新潟県です。この北の端に青い四角で囲んだところが、糸魚川市であす。JR糸魚川駅の近くにバツ印をつけたところに、天津神社とヌナカワ神社の2社を併設した神社があります。このうち、ヌナカワ神社は、タケミナカタのお母さんの、ヌナカワ姫を祭った神社です。ヌナカワ姫は、前にも述べましたように、高志一帯を支配した女王です。
タケミナカタは出雲から、お母さんの元支配地の高志に逃げてきました。しかし、海岸沿いでは、アマテラス系の軍隊から逃げきれないので、ここから姫川をさかのぼり、途中で東に転向して長野市方面に出ました。この辺りには1900年前に創建されたという伊豆毛(いずも)神社があります。この名前からも出雲(いずも)の人たちがこちらに来たことがわかります。また、長野市南長野の妻科(つましな)神社の由緒によると、タケミナカタは千曲川を遡って横山(現在の善光寺付近)に辿り着いたところで、追撃するタケイカヅチ勢に迫られて応戦したと言われています。戦いが激しく、この際にお妃の八坂刀売は、裾花川上流の地に戦火を逃れて隠れひそんだことから、この神社は妻科(つましな)という名称となったと言われています。
さらに、タケミナカタ勢は千曲川をさかのぼって、現在の上田市まで逃れて来ます。
(2-2-1)上田市加美畑神社の由緒
上田市に「加美畑(かみはた)神社」というのがありますが、この神社の由緒には、タケミナカタがこの地にしばらくとどまり、原住民に稲作と養蚕を教えたと由緒に書かれています。ここの神社の名前は加美畑(かみはた)神社といい、ここの辺りの地名は神畑(かばたけ)といいます。神が教えた畑なので加美畑(かみはた)や神畑(かばたけ)というのであろうと思われます。
(2-2-2)上田市生島足島神社の由緒
さらに、タケミナカタ勢は、ここから大門峠を越えて諏訪に行こうとしましたが、ここで、2柱の神、生島と足島が、通してくれませんでした。古代に神というのは、力の強いもの、土地の有力者という意味です。なので、ここで2人の土地の有力者が、通してくれなかったということです。そこで、タケミナカタは、毎日、お粥を炊いてこの神々に捧げ、こんなおいしいものがあると許しを請い続け、ついにここを通り抜けることを許されたということです。この生島足島神社では、今も米粥をささげる神事、御籠祭が伝えられています。
(参考 http://www.ikushimatarushima.jp/jinja/ )
これら上田の2つの神社の由緒から明らかなように、当時の上田地方はまだ縄文文化のさなかにあり、稲作をしていなかったことがわかります。
(2-2-3)訪大社の縄文文化と弥生文化の混合
タケミナカタの一行は、大門峠を越え、茅野市を通り諏訪まで来ると、そこには原住民の漏矢(もれや)族すなわち守矢(もりや)氏がいて、戦争となりました。しかしながら、お互いに相手を徹底的に殲滅することはせず、最終的には、お互いの宗教を尊重しあって、共存することとなりました。
それはここに示した諏訪大社の上社と下社の神事の違いから、信州でタケミナカタの時代に、縄文文化と弥生文化の混合が行われたことからわかります。
(参考 http://suwataisha.or.jp/gyouji.html )
@縄文文化(上社)
守矢族 (神長官の家系:現在78代目)
御頭祭(上社のみ:鹿の首75頭を飾る)
蛙狩神事(上社のみ)
@弥生文化(下社)
筒粥神事(下社)
お舟祭(下社)
御田植祭(下社の末社御作田社(田舞)現在、昭和の初めから上社でも実施しています。本来は、下社の神事だったようです。)
例えば、ここに挙げた上社の御頭祭と蛙狩神事を見てみると、御頭祭では鹿の首を75頭飾り、蛙狩神事ではカエルが土の中の冬眠から覚めて、土から出てくることが、生命の復活のしるしとして神事などが行われます。これらは、極めて縄文的です。また、これらの神事は守矢氏の家系が務める神長官が行うことに、戦前までなっていました。守矢家は縄文時代から存在する家系で、現在78代目です。おそらく、日本で一番古い家系の一つと考えられます。一方、下社の祭祀を見てみると、筒粥神事、お田植祭りなど、極めて弥生的です。
そのため、諏訪大社では、現在まで1950年間の長きにわたって、上社が、縄文文化の祭祀を行い、下社が弥生文化の祭祀を行っているのです。
これら上社と下社の神事の違いから、信州でタケミナカタの時代に、縄文文化と弥生文化の混合が行われたことがわかります。ちなみに、日本人が、他の宗教に寛容であるというのは、この諏訪の神様の出来事が、原点の一つではないかと考えられます。
以上の神社の由緒や祭祀からわかるように、縄文人は、それまで食料獲得が不安定な狩猟採集で生きてきましたが、タケミナカタによってもたらされた稲作によれば食料を安定的に得られることを初めて知ったことがわかります。なぜ縄文人は稲作を取り入れたかというと、稲作を取り入れれば、食料は自ら生産でき貯蔵できるからです。このように、縄文人が農業革命を経験した歴史が、これらの神社の由緒や神事からわかります。
2-3. 酒造り
次に、信州に酒造りという技術がどのようにして、入ってきたかというお話をします。
まず、日本に酒造りが伝わったのは次の2つの時代だと現在のところ言われています。
日本酒の酒造りは「フンレイの酒」という、蒸米を使った製法が、紀元前600年ころに、中国南部から直接日本に、稲作とともに伝わったと考えられています。また、「ビレイの酒」という中国北部で始まったお粥を使った製法が、紀元1世紀ごろ、朝鮮半島経由で、日本に伝わったといわれていますが、今はほとんど廃れてしまっています。これらのことは、ここに示した、URLを参照してください。
フンレイの酒:中国南部で始まった蒸米を使った製法、紀元前600年ころ日本に伝わる:
フンレイ=饙醴; 饙=蒸し飯; 醴=さけ
ビレイの酒:中国北部で始まった粥を使った製法、紀元1世紀ごろ日本に伝わる:
ビレイ=糜醴; 糜=濃いお粥; 醴=さけ
参考http://www.infochina.jp/jp/index.php?m=content&c=index&a=show&catid=10&id=9896
(出典:日本経済新聞2018年(平成28年)5月12日朝刊)堀江修二「出雲古伝の酒に乾杯」
(2-3-1) 出雲神話の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)
皆さんは、出雲神話に出てくるヤマタノオロチの話を知っていると思います。この話は、高志の国、現在の新潟県から、毎年秋に、ヌナカワ族がやってきて、新米と新酒、女性を略奪する被害の話と考えられます。出雲神話にはちゃんとヤマタノオロチが高志の国から毎年やってくると書かれていますが、今までそのことが軽視されてきたので、背景がよく理解されていませんでした。しかしながら、上のヒスイの話からわかるように、高志の国のヒスイは、7000年前の縄文前期から、ヌナカワ族によって、勾玉という宝石に加工され、北海道礼文島から沖縄までの日本列島全域と、朝鮮半島南部にまで、交易されていたことがわかっています。ヌナカワ族はまだ、稲作も、酒造りもできない部族でした。それで、普段は平和裏に交易で出雲に来るのですが、新米と、新酒ができる、秋にはこれを狙って、略奪をしたものと容易に考えられます。だから毎年秋になったら高志の国からやってくるというわけです。
(2-3-2) 出雲の古酒
ヤマタノオロチを酔わせた酒は、お粥から作る「ビレイの酒」で、これは手間がとてもかかるのですが、極めてフルーティでおいしいお酒で、近年、「やしおりの酒」として復活されて販売されています。
参考:出雲のヤシオリの酒;ヤマタノオロチを酔わせた酒(製法は上のビレイの酒の製法)
(映画「シンゴジラ」に出て来るヤシオリ作戦名の由来となっている)
近年ヤシオリの酒復活:参考 http://www.kokki.jp/yashi4.htm
(2-3-3) 信州に酒造りが伝わった経路と伝説
経路:出雲(大国主命)→ 糸魚川(奴奈川姫)→ 諏訪
伝説:酒造りの伝説は、この図と前掲の地図を見ながら読んでください。
(2-3-3-i) 越後国一之宮天津神社奴奈川神社
天津神社奴奈川神社という神社は、新潟県JR糸魚川駅前にあり、1つの境内に両社併設された神社です。この奴奈川神社およびもう一つ同じ名前の奴奈川神社が糸魚川市田伏にもありますが、これらの奴奈川神社には、越後で酒造りが始まったのは奴奈川姫によるという伝説が残っています。この伝説は、出雲の大国主が、高志の国の奴奈川姫に求婚して結婚し、酒造りを教えたというものです。
参考1: 平成25年(2013)9月23日日経朝刊35頁「天津神社(糸魚川市)」
参考2: 大吟醸奴奈川姫賢い女(さかしめ)https://e-ee.jp/SHOP/SKTH14042.html
伝説:大国主が奴奈川姫に求婚して結婚し酒造りを教えた。
これを裏付けるように、
(2-3-3-ii) 長野県茅野市御座石神社
御座石神社には、次のような伝説とともに、今も「どぶろく祭り」という神事が伝えられています。
タケミナカタが信濃の国を建国した後、母親のヌナカワ姫は、糸魚川から鹿の背中に乗って諏訪のタケミナカタのところまできて一緒に住んだといわれています。途中、茅野市の御座石神社のところまで来たところで休憩しました。そのことを示す、鹿の蹄の跡のある石が、この神社の境内に残っています。この御座石神社では、ヌナカワ姫を祭っており、酒造りをヌナカワ姫がこの地に伝えたという言い伝えが残っています。それで、現在もなお、そのことをしのんで、「どぶろく祭り」を行っています。
参考 http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/doburoku.htm
以上の神社の由緒と神事から、信州に酒造りが伝わったのは、高志の国のヌナカワ姫からであることがわかります。
皆さんは、文字のないころの神話というのは全部事実ではないと思われるかもしれませんが、このように、大変広範囲に、各所に、一連の関連した話が残っており、これらが全部嘘だということの方が嘘だと言っていいでしょう。文字のないころの言い伝えは、各地の神社に由緒として数多く残っており、今後、皆さんが、全国の神社を訪ねられた時に、その由緒をぜひ読んで、太古の昔の歴史に思いをはせていただいたら、大変うれしいです。そうすれば、学校ではほとんど習わない縄文時代から弥生時代に移行する時期の具体的な歴史が、見えてくるでしょう。
(2-3-4) 6号酵母、7号酵母
信州のお酒と言えば、6号酵母と7号酵母のお話をしなければなりません。
日本酒の製造は、長い間、西日本のような暖かい地方が中心でした。
寒冷地でも日本酒が問題なく作れるようになったのは6号、7号協会酵母が発見されてからです。
(2-3-4-i) 6号酵母
6号酵母というのは、10℃以下でも発酵する酵母で、東北秋田の新政酒造で、昭和5年(1930)に発見されました。現在も、そのことを記念して、毎年一回「全国6号酵母サミット」が盛大に開かれています。
(2-3-4-ii) 7号酵母
7号酵母というのは、長野県諏訪市にある宮坂酒造で、昭和21年(1946)に発見された酵母です。この7号酵母は、信州のような低温の地でも、発酵力が強く、華やかな香りを生み、名酒として名高い日本酒「真澄」を生んでいます。
2-4. 養蚕
養蚕の技術も、タケミナカタの出雲からもたらされました。
この下の図と先に示した地図を見ながら読んでください。
・上田市加美畑神社の由緒
養蚕の技術は、タケミナカタの出雲からもたらされました。(稲作も:第2-1項参照)
すでに稲作のところでも述べたように、上田市の加美畑(かみはた)神社の由緒によると、タケミナカタの一行は、出雲から諏訪に逃避する途中で、この地にとどまり、原住民に稲作と養蚕の技術を教えました。
・諏訪大社の神紋、諏訪梶と明神梶
諏訪大社上社: 根が4本の「諏訪梶の葉」; 諏訪大社下社: 根が5本の「明神梶の葉」参考 https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/zatugaku/kaji.htm
タケミナカタをご祭神とする諏訪大社の神紋は、この写真を見てわかるように、上社は、根が4本の「諏訪梶の葉」、下社は、根が5本の「明神梶の葉」です。梶は桑科の木です。
そして、さらに下の写真を見てわかるように、梶の葉は桑の葉より少し分厚いが、形はほとんど同じ形をしています。左の桑の葉の写真は信州大学繊維学部キャンパスのもの。右の梶の葉の写真は、茅野市の神長官守矢史料館に展示のものです。ほとんど同じ形をしています。
したがって、諏訪大社の神紋は、養蚕のシンボルと考えられます。このように、絹は、タケミナカタの時代から、ほんの戦前までの1800年間もの長い間、信州の主要な産物であったことがわかります。
2-4. 製鉄
日本の製鉄は、今まで5世紀に始まったといわれてきましたが、最近の研究ではもう少し古く1世紀の弥生時代後期から始まっていたことがわかってきました。日本の砂鉄(磁鉄鉱=Fe3O4)を使った「たたら製鉄」という新しい技術は、信州には出雲からタケミナカタらの集団が移住するとともにもたらされたようです。
参考: https://tetsunomichi.gr.jp/history-and-tradition/tatara-outline/part-2/
一方、タケミナカタが信州に来る以前の、いまだ縄文文化の生活をしていた先住民の守矢氏は、すでに褐鉄鉱(オキシ水酸化鉄=FeOOH)を使った古い製鉄技術を有していたようです。
参考:真弓常忠「古代の鉄と神々<改訂版>」、学生社、1997.
https://ameblo.jp/cypris11/entry-12279387676.html
http://museum.starfree.jp/206_takashikozo/306takashikozo.html
@縄文時代の製鉄
高師小僧あるいは鈴石と呼ばれるものは、湿地に生える葦などの根元に、水中の鉄成分が褐鉄鉱(FeOOH,オキシ水酸化鉄)として筒状に析出したものをいいます。全国の沼沢地にみられますが、愛知県豊橋市高師のものが有名です。小さい人形のように見えるので高師小僧と呼ばれます。空洞の中に小石が入ったものは、振ると鳴るので、鈴石とも呼ばれます。古代諏訪湖の沢山の葦が生えており、その根元にこの鈴石が沢山ついていたころから、「鈴なり」という言葉が生まれました。また、信濃に係る枕詞の「みすずかる」は、この「すずなり」になった葦を刈るという意味から来ています。この刈り取った葦を山積みにして燃やすと鈴石(褐鉄鉱)が取れます。これを800℃という比較的に低温で加熱すると質は悪いが、鉧(けら)という鉄が取れます。これは、鉄鐸、つまり銅鐸の前身、に用いられました。
諏訪大社上社に伝わる鉄鐸(古くは「さなぎ(鈴)」という)
すでに第2-1項で述べたように上社は縄文の文化を表している。
その上社に鉄鐸が伝わっていることに注目。
この写真のようなものが鉄鐸です。これは諏訪大社上社に伝わってきたものです。これを振ると鈴のように音が出ます。現在、全国の神社の拝殿の前にある鈴や、巫女さんが手に持って鳴らす鈴は、この鉄鐸が原形と考えられています。
天照大御神が天岩屋戸に閉じこもったときに、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、神代鈴をつけた矛をもって、扉の前で舞をまいました。その時の鈴は鉄鐸と考えられます。
参考:映画「日本誕生」1959年(昭和34年)東宝:https://www.youtube.com/watch?v=VDuyePWY2dA
@タケミナカタと守矢氏との戦いからわかる古い製鉄の歴史
諏訪絵詞には次のような伝承が残っています。タケミナカタの集団が、諏訪にやって来たとき、先住民の洩矢(守矢)族は、鉄の輪を用いて戦った。しかし、タケミナカタは藤の枝を用いて戦った。そして、タケミナカタが勝った。
この伝承から疑問に思うことは次の2点です。
(1)製鉄の技術は出雲からタケミナカタが信州にもたらした新しい技術と考えられるが、それ以前にモレヤ(洩矢、守矢)氏がすでに製鉄技術を持っていたとなる。
(2)なぜ、藤の枝が鉄の輪に勝てるのか、常識的に考えて藤の枝より鉄の方が強いだろう。
これらの疑問に、すでに、滝沢きわこ氏が、明確に答えておられます。
参考: http://www.weekly-ueda.co.jp/tethu/back/main25.html、滝沢きわこ「信濃の鉄ものがたり」第177話(2009.5.2)、第178話(2009.5.16)、第183 話(2009.6.20)
これによると、鉄の輪は、褐鉄鉱を使った古い製鉄技術で作った鉄鐸を象徴し、藤の枝は、砂鉄を取るときに使う藤の枝で作ったかごのことで、新しい製鉄技術を象徴したものといいます。
この滝沢氏の論考により、日本の砂鉄を使った「たたら製鉄」の新しい技術は、信州には出雲からタケミナカタらの集団が移住するとともにもたらされましたが、タケミナカタが信州に来る以前にすでに原住民の守矢氏が褐鉄鉱を使った古い製鉄技術を用いていたということがはっきりわかります。タケミナカタと守矢氏との戦いは、製鉄技術の対決であったのです。
参考:
https://tokyox.sakura.ne.jp/forum/discussion/373/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E8%A3%BD%E9%89%84%E9%81%BA%E8%B7%A1-%E9%89%84%E3%81%AE%E6%B0%8F%E6%97%8F/p3
また、信州各地で、古代の製鉄所の跡が見つかっています。一番古いものは、中野市の南大原遺跡で、弥生時代の集落跡から加工した鉄が出土しています。
さらに、信州の各地にある金井という地名は、砂鉄や鉄鉱石の採掘場のことです。また、信州の方言「ずくだせ」、つまり「頑張れ」の意味の方言の「ずく」は、銑鉄のことで、製鉄に関連した言葉です。炭素含有量の多い鉄を銑鉄といい、和語では銑(ずく)といいます。また、炭素含有量の少ない鉄を鋼鉄といい、和語では鋼(はがね)といいます。銑(ずく)は、もろくて割れてしまいますが、鋼(はがね)はたたいても割れないので、その後「たたら製鉄」の普及とともに、玉鋼は日本刀などの刃物に成形されて用いられてきました。
参考:
<弥生時代の集落跡に鉄加工の痕跡 中野の南大原遺跡 県内初>
http://naganomaibun.or.jp/archives/category/%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E6%83%85%E5%A0%B1/%E5%8C%97%E4%BF%A1/%E5%8D%97%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1-%E5%8C%97%E4%BF%A1
信州上田市の北隣にある坂城町には鉄の展示館があります。
<坂城町鉄の展示館> https://www.tetsu-museum.info/
この<坂城町鉄の展示館>には、坂城町の人間国宝、刀鍛冶の故宮入行平氏の日本刀などが展示されています。
このように信州では、製鉄と日本刀の長い歴史があります。
以上のように、縄文時代から弥生時代への移行期に信濃の国が成立し、この移行期に、1. 稲作、2. 酒造り、3. 養蚕、4. たたら製鉄、の4つの新しい技術が信州にもたらされたことがわかります。
このように信濃が出雲との密接な関係があったことは、10月の和名からもわかります。信濃の国では10月は、その当時から今も出雲と同じで、神有月(かみありづき)といい、出雲と信濃以外は、全国的に10月は神無月(かんなづき)です。
なお、信濃の国は、タケミナカタやその子らが生存していた間の約100年間は、神武天皇らも一切干渉せず、このように独立国となっていました。しかしながら、神武天皇の孫やひ孫の時代になると、大和朝廷から、科野(信濃)に初代国造として「タケイホツ」(*)が送られ、大和朝廷に組み入られていきました。
*参考:
・原田常治「神武天皇から応神天皇まで 上代日本正史」、83頁、昭和52年(1977)。
・上田市科野大宮石碑碑文、阿蘇の初代国造「タケイワタツ」の子「タケイホツ」が、阿蘇から信濃に初代国造として赴任したことが書かれています。
・上田市北小学校前の双子塚古墳(=前方後円墳)はタケイホツの墳墓との口伝が残っています。
@古代から近代へ:古代の国分寺=近代の国立大学
奈良時代になると、朝廷は中国からの政治制度(律令制度など)や科学技術(算術や天文暦法など)を導入する拠点として、日本中に60の国分寺・国分尼寺が建立されました。信州では、当時国府のあった上田に信濃国分寺・国分尼寺が建てられました。日本は、グローバル化のために二度開国したといわれており、一度目は中国文明を受け入れた奈良平安時代、二度目は西洋文明を受け入れた明治時代です。その受け入れ装置として、古代には国分寺が、近代には大学が多数建てられて、その役割を担ったのです。
3. 明治維新の近代化と信州
時代は一気に近世・近代に移りますが、最後に「明治維新の近代化と信州」というお話をします。
3-1. 幕末、幕府の高級官僚、小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)
最初のお話は、近世の末、つまり幕末の、幕府高級官僚、小栗上野介忠順(ただまさ)の話です。
小栗は、幕府から派遣されて、万延元年(1860)にアメリカを視察しました。そのとき、持ち帰った金属製のネジ釘が群馬県高崎市東善寺に残っています。小栗は、この視察で日本の近代化には、製鉄と造船が必須と悟りました。そこで、幕府はフランスの技術を導入することにしましたが、そのためには莫大な費用が必要でした。これを賄うために、日本の生糸を幕府の専売にしてフランスに輸出し、その代金を製鉄所と造船所建設の費用に充てることにしました。幕府が倒れた後も明治政府はこの政策を踏襲して、明治5年(1872年)上州いまの群馬県に「富岡製糸工場」を作りました。この富岡製糸工場は、皆さんもご存知のように、平成26年[2014年]に世界遺産に登録されました。また、明治43年(1911年)信州現在の長野県には「上田蚕糸専門学校」(今の信州大学繊維学部の前身)が作られました。その理由は、当時、上州と信州が、日本の中で最も生糸の生産量が多かったからです。したがって、小栗上野介忠順の近代化の青写真に従い、富岡製糸工場と上田蚕糸専門学校が作られたことがわかります。このように、養蚕は日本の近代化の礎だったことがわかります。
参考:
○1 信州大学繊維学部案内英語版、Guide 2020-2021: Faculty of Textile Science and Technology, Shinshu University.
② 信州大学繊維学部の歴史等http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/s40.htm
③「一人息子」:昭和11年(1936年)映画、小津安二郎監督
https://www.youtube.com/watch?v=xIHdnzDoB7Y&t=297s
昭和初期の信州の養蚕業の映像が上の古い映画に残っています。これを見ると、当時の信州の主要産業が養蚕であり、全国的にも知られていたことがわかります。また、当時の蚕糸の製糸工場でどのようなことが行われていたことも実際に見ることが可能です。
3-2. 上田蚕糸専門学校
上田蚕糸専門学校は、上に述べた通り、現在の信州大学繊維学部の前身に当ります。
英語名:Ueda Imperial College of Sericulture and Silk Industry
この英語名を見てわかりますように、上田蚕糸専門学校は旧制帝国単科大学であったことがわかります。戦前の日本の大学教育制度は、フランスの制度を模して作られており、総合大学のUniversité(フランス語で大学という意味)と単科大学のGrandes Écoles(フランス語で大きな学校という意味)の2つに分かれていました。したがって、上田蚕糸専門学校は、戦前日本に設立されたフランス式のグランゼコール(Grandes Écoles)の一つでした。よく誤解されますが、戦後の高等専門学校とは全く異なるものです。戦後は、上田蚕糸専門学校は長野県内にあった他の高等教育機関と一緒に信州大学に統合され、信州大学繊維学部となって今日に至っています。
参考: 信州大学繊維学部の歴史等http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/s40.htm
3-3. 絹から人絹へ:日本最初の繊維化学科と人絹の神様、加美好男
次に、この上田蚕糸専門学校は当初絹の繊維を専門とする大学でしたが、時代の変化とともに、人絹の研究に移ってき、それに伴い、日本最初の繊維化学科が上田に設立されたというお話をします。
(1)日本最初の繊維化学科
幕末から、明治、大正、昭和初期は、天然繊維の蚕糸の生産の盛んな時代でしたが、昭和初期に、これからは人造繊維の時代が来ると見通した上田蚕糸専門学校の教官たちが、化学繊維を研究する繊維化学科の設立の準備を重ねました。当時政府は、戦費で国家予算が逼迫していたので、資金を自己調達できるならと設立の許可が下りました。そこで同窓会の千曲会の尽力により、当時長野県の財閥であった片倉製糸紡績(現片倉工業)から資金を出してもらえることになり、昭和15年(1940年)繊維化学科が、日本で最初に設立されました。これは京都大学よりも1年早く、日本で最初にできた繊維化学科です。これが、現在の繊維学部化学・材料学科にまでつながっているのです。
参考:繊維化学科の設立年度
昭和15年(1940)、上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)
昭和16年(1941)、京都大学
昭和19年(1944)、東京繊維専門学校(現東京農工大学)
(2)人絹の神様、加美好男
当時、上田蚕糸専門学校には朝比奈晃十という教授がおられ、いち早く大正時代から人造絹糸、略して人絹、英語では、レーヨンの研究をされていました。その研究室の卒業生に加美好男さんという学生がいました。加美好男さんは、上田蚕糸専門学校製糸科に第3回(大正2年、1913年)入学した極めて優秀な人で、卒業後は、ビスコースレーヨンの独自製法を発明して、日本の人絹、レーヨンのホープとして、人絹の神様(加美様)と言われました。名前が加美だったのでそれにかけてこう呼ばれたのです。最後は三菱レイヨン(現在の三菱ケミカル)の常務取締役まで出世した人です。
(参考:https://soar-ir.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=14919 を開いて、その中のpdファイル「伝記」をダウンロード:その伝記の中の10頁)
信州大学繊維学部は、以上のような長く輝かしい伝統と優秀な卒業生を多数輩出してきたおかげで、平成14年(2002)、21世紀COE「先進ファイバー工学研究教育拠点」に選ばれ、日本で現在唯一の繊維学部として、大きく発展してきています。
以上から、信州では絹の生産が太古昔から行われてきて、その伝統の上に、現在の信州大学繊維学部があることが、これで皆さんもよく理解できたことと思います。これは、信州の科学技術と歴史が密接に関係している一例としてとても面白いと思います。
2020年4月1日―11月11日
2021年2月23日加筆
信州上田之住人和親
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