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エッセンシャル思考、読んでうっすらと人生に方向が見えた。

グレッグ・マキューン著『エッセンシャル思考』読みました。
その感想です。


自分も何者かになりたい ―キラキラした人生への憧れ―

社会人2年目。仕事も私生活も今のままでいいのかと思いながらあれこれと手を出しながら注意散漫に生きていたタイミングで『エッセンシャル思考』という本を手に取りました。

私は『激レアさんを連れてきた』と『マツコの知らない世界』を毎週欠かさず見ています。これらの番組に共通しているのは、すごく特殊だけど、すごく魅力的な人生を送っている一般人が登場することです。無難に義務教育を修了し、それなりにいい高校、大学を卒業し、ふつうにいいホワイト企業に就職して毎日をなんとなく送っている自分にとって、この番組に出てくる人たちの人生はきらきらと充実しているように見えるのです。いろいろ困難はあるだろうけど、それでも自分の人生を選び取って生きている彼らの人生が楽しそうなんです。

そんなふうで、テレビやSNSで充実した人生を送っていそうな人を見るたびに「自分も何者かになれたらなあ」と大学生の頃からずっと思っていました。だから大学ではいろんな経験をしようといろんなバイトをやってみたり、シラバスから手当たり次第に講義を履修したり、いろんなとこ行って、本読んで、いろいろとやりました。

で、その結果、、、最強の"中途半端人間"が完成しました。

こんなにいろいろやったのに、就活でも特筆すべく語れる経験が一つもない。自分の強みは?学生時代に力を入れたことは?挫折経験は?そんなものあるはずがありません。だって全部かじりかけで辞めているんですから。

幸い名の通った大学だったし、普通に会話することができたので今の会社から内定がもらえたわけですが、ここでも懲りずにあれこれと手を出していました。1年目は働く上で必要(そうに見える)な資格の勉強や、業界や商品の情報収集をがむしゃらにやりました。1年目だったのでこのやり方も間違いではなかったと思うのですが、これは典型的な非エッセンシャル思考です。

社会人2年目になってもとりあえずはこの「ひたすらやる」思考で日々働いていました。勉強も続けました。ただどれだけやっても正解に向かっている感触も成長している実感もなく、ただただ中途半端さが膨張した自分が出来上がっていくだけの現実にかなり落胆していました。もはや自分の中では「特技」であった勉強すらやる気がついてこなくなりました。

どうして自分はこんなに中途半端なのか

振り返れば小学生の頃、なんでも知ってる学校の先生に憧れて「オールマイティな人物」になりたいと思っていました。国語も算数も理科も社会も、それに音楽や体育までできるなんて、なんてすごいんだ。自分もああいう大人になりたい。クイズ番組とかで理科とか社会の問題を間違えるような大人はダサい。そう思って中学ではテストのある9教科まんべんなく頑張っていい点数を取っていました。それで先生からは褒められて、クラスのみんなからも尊敬されました。高校でも結局同じようにセンター試験のために必要な教科の勉強はまんべんなくやって、そのおかげで名の通った私立に入ることはできました。それから大学での生活は先に書いた通り。いろいろ勉強はしたし、たくさん単位も取った。バイトもやって旅行にも行って、いわゆる”充実した”大学生活を送っていたように思っていたけれど、社会人になった今、自分の武器が何一つないんです。この段階へ来てようやくわかりました。「何でもできて偉い」と褒められるのは高校生がギリギリなんです。様々な分野が専門化され、情報過多のこの時代、すべてに精通することなんて到底不可能だということを、大学生のうちに気づくべきでした。

たしかに、いろんな知識に足を突っ込み、いろんな場所でいろんなことにチャレンジすることは悪いことではないし、実際浅く広く多くの体験ができる点で視野は広がると思います。でも、本当に人生を楽しんでいる人、人の心を動かせる人はそうじゃない。彼らは「これだ」と決めたものに自分の時間を全集中させます。だからこそ「専門家」「プロ」として多くの人から敬意が払われるんです。”野球の”大谷翔平とか”将棋の”藤井聡太のように、たった一つのことを極めて極めて、磨き抜いて磨き抜いて、その分野でトップに立って初めて崇められる。そういう風になってるんです。そのレベルまでやれば、大谷翔平がサッカーができなくたって、藤井聡太が囲碁ができなくたって、そんなこと何にも関係ない。それでマウントを取ろうとするほうがダサいことこの上ない。

レオナルドダヴィンチという人は何でもできたすごい人だったらしいけど、今の時代に生きていればきっと何か一つの分野に特化しなければ何も功績を残せなかった可能性だってあります。

大事なのは、短い人生の中ですべてをやるなんてことは到底不可能だということを認め、自分が「これだ」と思ったことを最優先にして生きること。ほかの選択肢がどんなに魅力的に見えても「これだ」に当てはまらないならやらない決断をすること。そうしてこそ人生の充実が得られるというわけです。

やればできるがすべてはやらない

この本を読んで最も価値観を揺さぶられたのは、「エッセンシャル思考では、やればできるがすべてはやらない」という一文です。小中学生の頃「お利口さん」で育ってきた私のような人は同じ落とし穴にはまりやすいと思いますが、私たちはやろうと思えば基本何でもそれなりにできてしまいます。身体性とか芸術性が多くを占める分野では限界があることに早い段階で気づけても、勉強とか研究とか頭を使う作業に関しては、優等生組は少し時間をかければ理解できてしまうし、ともすればいろんな分野に手を出して博識であるかのような気分になれてしまいます。これこそが落とし穴で、なんでもできてしまうがゆえに何の専門性もなく価値の低い、会社にとっては使い勝手のいい人間が出来上がってしまうのです。仕事を振ればなんでも「できます」と言ってちゃんとこなしてくれるんですからね。

でもそんなやり方をしていればいつまでたっても何者にもなれないし、一時的に誰かの役に立っているという満足は得られるかもしれないけれど、あとから絶対後悔する。できなくはないが、やりたくありません。やれなくはないけれど、それは自分の仕事ではありません。こうやって自分が本当にすべきことに境界線を引き、きちんとNOを言えることが大事だと本書は述べています。

価値観が多様化し、実質的に選択肢が無限である現代、それに対して私たちに与えられた時間は有限であること、しかも薄情なほどその時間が短いことをもっと認識しなければいけません。あれもこれもと欲張っていてはキリがないし、ましてや人から振られた価値の低い仕事に貴重な時間を奪われている暇なんてあろうものでしょうか。

『エッセンシャル思考』の読書体験は、私が今まで書き溜めていた「やりたいことリスト」「やるべきリスト」を見直すきっかけになりました。もう一度ゼロベースでこれからの人生を熟慮してから、一歩を踏み出していきたいと思います。


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