見出し画像

書けていること

訳があって、いつもとは別の場所で書く。場所が違うと書けるものも違う。「書ける」という言葉に違和感を覚える。書ける、というと何か自分に能力があってそれを行使しているような印象がある。しかし、書くことは、自分の中の力を使うことではないと思う。身の回りの環境、時間帯、その時の気分、体調、天気、それらがお互いに交わったところに文章という一つの線が生まれる。だから、書く、というよりももっと自然だ。太陽が空に昇って、明るくなるように。滴が葉からこぼれ落ちるように、人が笑うように自然だ。

私は、書いているのではなく、私の手元から言葉がこぼれ落ちている。それ以上のことではない。昔、と言っても何ヶ月か前の私は、書かれた文章が私を表しているのかどうか考えてみたことがある。noteという新しい場所に文章を投稿し始めた。その時までは、毎日自分の文章を人に見せるようなことはしていなかった。なんだか新しい自分を見つけたような気がして、ワクワクしていた。そのワクワクから余計に期待しすぎてしまった。確固とした自分のようなものを手に入れようと、文章を固めようと固めようと書いていた。それは疲れることもあったし、書いている間の違和感を通り過ぎなくてはいけないこともあった。

今なら、その考え方が間違っていることをはっきりと言える。文章によって、確かな自分を作り上げることはできない。むしろ、文章によってできるのは自分を取り巻く様々なものによって、揺れ動いているその瞬間の自分だ。だから、文章は人格にはなり得ないし、私を代表するものではない。むしろ、凝り固まった「私」のイメージから、私を自由にさせるものである。文章を書くのならば、私はどんな人にもなれる、どんな存在にもなれる。思いつく限り、言葉がある限りどこまでも自分を広げてゆくことができる。

その場所では、空想も事実も些細なことも、重大なことも、重すぎて普段はなかなか言えないことも、全てが言葉によって伸びやかに広がっている。すべてが平等に書く価値がある。素晴らしいことを言うならば、くだらないことも言わなければならない。いろいろな場所で書かなくてはならない。いろいろな感情を書かなくてはならない。どんなことでも、そこに言葉がある。

何も考えずに指を動かせばいい。そこに言葉がある。目をつぶって歩くように、地面があると信じるように。言葉を信じて、ただ心のままに書いていればいい。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!