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AI@SFエッセイ / 人工知能で考える。ぼくのさいきょうのらいばる。

人工知能はライバルになれるか。

人工知能はライバルになれるか。このVUCA時代において、多様性が増してきている人と組織対してこの時にだからこそライバルが重要である。ライバルとは何か、人工知能は到達できるのか。考えていきたい。

あなたの人生にライバルはいるか。

私は、今絶賛ライバルを探している。ただ、これは、私が優れているということではなく、私と似たロールのヒトに出会えていないというのがある。

生物学 / 神経科学が専門で、脳科学 / 人工知能を現在取り扱っており、医療系の経営や企画などにサブの適性があり、ITのコンサルティングもやっているプログラマ。子供のために、今の自分のすきを推し通せない日本社会を変えたいと思っている。

へんてこにもほどがある。(似てる!と思った人はぜひ語りましょう。)

ただ、このへんてこさが、上記の問いのきっかけであるし、たぶんこれから多くの若い世代が直面する課題なのだと思う。

その理由は、今変わってきている組織論に見ることができる。

あなたの組織にライバルはいるか。

まず、この問いの背景にある、組織と人の多様性について少し触れたい。

現在、多くの企業でグリーンだのティールだのフラットな組織について議論がされている。この中でティール組織として

①強力な権限を持つリーダーが存在しない
②現場のメンバーが多くのことを決定する
③組織を一つの生命体としてとらえている

という特徴が挙げられている。これは、各個々人が自己運営(セルフマネジメント)やホールネスを行えるということで達成できる組織の特徴となっている。

ここは本題でないので詳しくは以下の本を読んでほしいが、この背景には、人材不足やテクノロジーによる効率化により、組織における個人の能力が一つのロールに収まらなくなってきている / 収めている余裕がなくなってきたことが挙げられる。

つまり、多くの人材がホールネス(自分自身のすべての強み)を発揮し活躍することが望まれており、複数のロールにまたがったその人材の正しさは、本人にしか判断できなくなってきている。

その結果、ヒトは、一つの側面に依存した指標だけで測定すること(営業成績 / 売り上げ / チーム単位のKPIなど)が難しくなり、多様性が増していく。この多様性は、スキル要素間の組み合わせなので、簡単に組み合わせ爆発が起きる。

そして、仕事上のホールネスが自分自身(N=1)に近づけば近づくほど、それはつまり人生に近づいていく。

まとめると、ホールネスが求められば求められるほど、そもそも競える対象がへり、自分自身のホールネスの成長先を自分で決定することが求められていくのだ。そして、今後の時代において、あなたの人生においてライバルを見つけることは非常に難しいと言わざるを得ない。

そして、それは少子高齢化がより進んでいく私の子供、孫の世代では、もっとそうなるだろう。

「神の一手」を見つけるためには。

等しく才たけた者が2人要るんじゃよ

ヒカルの碁で桑原本因坊がいう言葉である。

この言葉は非常に面白い。

ヒトは、対面にリアルのヒトがいることで脳活動が同期するとともに、対面のダンスなどでは引き込みが起こり、よりシンクロしていくことなどが知られている。

逆に、デジタル経由でのやり取りではシンクロが起きず、発想力などが制限を受けることが知られている。(SAIは、ネット碁でもやたら強いが)

これは、個人的な予測でしかないが、ある程度シンクロが可能な2人のうち、片方がフロー状態に入ることが起きた場合に、両者ともフロー状態になるということが起こるのではないか。そして、一歩神の一手につかずくことができるのではないか。

ここにライバルとしての可能性があるのではないだろうか。

しかし、だからこそここで元の問いに戻りたい、人工知能は、ライバルになれるのかということである。

例えば、碁のように特定の知能(単一知能)は、指数的に成長することが知られている。実際に2016年には、AlphaGoがイ・セドル棋士を打ち負かしたことが有名である。

これには、AlphaGoがヒトの人生ではたどり着けない数の対局を仮想的に行い、知能の厚さを増したことによって達成されている。

しかし、一方で、「神の一手」と呼ばれるイ・セドル氏の白78手は、単一知能が指数的に成長する過程で発生したバグをつき、その後のAlphaGoの悪手を誘ったといわれている。

もし、AlphaGoが身体的な表現を持っていたとしたら、彼はその時何を感じたのだろうか。

もし、AlphaGoが身体的な表現を持ち、イ・セドル氏とより深く同期することができたとしたら。イ・セドル氏は、もっと神の一手に近づけたのではないか。

人工知能はライバルにできるか。

人工知能をライバルにできるか。これは、ヒト側の問題でもある。人工知能が、学習するには、大なり小なりデータが必要である。

しかし、ヒトのホールネスを考えると、碁や将棋などと違って、一定の形式で記録もされていないし、そもそも評価軸すらない。

人工知能は、明確な評価関数によって自己のシミュレーションの正しさを評価しているが、その評価がないため"正しい"を学習できない。これは、知能とは何かという本質的な問いにかかわってくる。

例えば、ある起業家に対してのライバルを考える。

ある人は、起業家は、暗闇の中でジャンプをするようなものだと言っている。つまり、情報も何もない中で、ジャンプし、地点を変更し、ぶつかりながら、周辺を把握し、少しづつ答えらしきものを探していくものである。

この時のライバルは、どんなものだろうか。

飛び方を比較するのだろうか。高さを比較するのだろうか。答えらしきものについて、議論をするのだろうか。

それとも、社会課題をこうすれば変えられるとどや顔をしながら、ジャンプして転ぶようなものだろうか。

それには、与えられたデータではなく、データ自体を取得しに行きながら、課題設計から、解決まで思考するような人工知能ではないだろうか。

翻って見れば、そのような人工知能をライバルにできる起業家は、自分自身を言語化し、体当たりでデータを集め、それをライバルである人工知能と共有し、新しい手を考え、また、無謀にもジャンプし、新しい考えに落ちるような人材ではないだろうか。

そして、それはホールネスを発揮しているヒトとよく似ている。

人工知能で考えるぼくのさいきょうのらいばる。

それは、自分自身と似ていながら、その考えの根本を違う体験に置き換え、違う視点を元に、考えを述べるような”もの”なのだろう。

違うことが大事である。でも、異なりすぎてはいけない。

多様的な自分自身。

それこそが、さいきょうのらいばるなのではないか。


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