見出し画像

空っぽな自分が空っぽなままでもいいと思えるように

「今の私は、もともとあったものが欠けてしまって空虚な状態なんです」

と私は言った。上野の好きな喫茶店で。

空虚さを感じるようになったのはいつぶりか

独立してからしばらくたった頃、私は知り合いのデザイナーに連絡した

イベントなどに参加した時に使う名刺のデザインを考えてもらうためである

彼と私は、かつて一緒に働いていたことがあり、今はたまに連絡する関係性。私と彼はたしか10歳以上離れていたと思う

著名なデザイナーのところでしばらく彼は働いたのち、以前の職場で一緒になり、今は別の会社に勤務している


彼と会うのはもう2年ぶりくらいだろうか

どこから話していないのかわからないくらいに会ってなくて、昔の話と最近の話で盛り上がる

彼が最近やっと一人暮らしを始めたこと、引越しの時に家の周辺のハザードマップが真っ赤で不動産屋と笑いながら話をしたこと、最近はドライブでどこどこに行くのにハマっていること、など

どうでもいい他愛もない話をしながら、お互いの近況を交換し合う

私もプライベートで人と会うのはかなり久しぶりで、「会話ってどうやってたっけ」と思いながら話を進めていた


「でね、今回おねがいしようと思っている話なんだけどさ」

私が切り出す。彼は、カバンからノートとペンを取り出し、私が事前に送ったPinterestのリストを確認する


「以前は、緑で中心にセリフを使ったちょっと理系的クールな感じでお願いしていたと思うのだけど、今回はモノトーンでなるべくシンプルな感じでお願いしようと思うんだ」

と私は説明した。彼は、うなづきながら聞く


「でもね、シンプルでカッコいい感じにはしたくなくて、なんというかぼんやりしていて、曖昧で色がない透明な感じにしたいんだ」

と私が伝えた時、彼が難しそうな顔をする。そりゃそうだ

私は、いろんな背景と私自身のアイデアを、考えを巡らせながら言葉を色々使って彼に説明する。時折、デザインを追加で探しながら。


そんな話をしながら「空っぽな自分になったのはいつぶりだろう」と私は思うのであった

大事なのは「私自身はどのような状態であるか」から目を逸らさないこと

名刺というのは、会社などでいうとコーポレートアイデンティティを具現化したものになる

コーポレートアイデンティティとは、その名の通り「その会社がその会社であると我々が特定できる理由や要素」を表したもので、ブランディングなどでも広く使われている言葉だ

難しく考えなくてもよい。会社がなんのために何をしているのか、そして何ができるのか、などが正しく伝わっていれば、多くの人の中で「あの会社ってXXな会社だよね」と言われるようになるのだ

それを作るためのコンセプトと考えることができる


名刺という"1点"で物事を考えると、物事はより単純だろう

しかし、それではただ名刺を用意しただけになってしまう

だから彼と話す前に私はぼんやりと、今の自分の状態を見つめて、自分が今後どういう風に何を実現していこうと思っているのかを考えてから望んだ

空虚であるがゆえに、何者にでもなれる今を愛している

今の私はキーワードでいうと「空虚」「透明」「曖昧」「未完成」である

これをそのまま表現するとネガティブに捉えられてしまいそうだが、決してネガティブではない

会社を離れて、自らで生きるようになってから、なんとなくの空虚さと自分の色がなくなってしまった感覚を持っていた

でも、そうであるからこそ他人の色に一時的に自分を染め上げて、ある目的のために成果を創出することができる側面もあると思っている

決して自分には満足していないけれど、それでも今の自分を愛している自分もいる

自他の境界が曖昧になりがちな自分

自分自身がやりたいことは今のところはないのだ。かつてはたくさんあったのだけれど

いろんな人生の変化が起きて、私の中で積み上げてきたものが一度壊れて、自分自身を再構成している最中にいると、私自身がやりたいことを問われても「何にもない」と答える他ないのだ

空虚さや虚無な感じは正直、そこはかとない不安感を生み出すのだが、それがあっても私はいいと思っている

逆にいえば、その不安感を拭おうとすればするほど、他人と自分の境界が曖昧になってしまって、他人のやりたいことが自分のやりたいことに置き換わっていく。そうして、他人に私が侵食されるのだ


他人のやりたいことを自分のやりたいことにしてしまった時、人の感覚は狂っていくと私は思う。少なくとも、私のような性格であると自他の境界が薄くなりやすい

結果的に、自分の領域は侵食されていき、徐々に自分を蝕んでいく

だから、今一人でいるのだし、クライアントの要望を叶えるべく、黒子に徹しているのだ

これを忘れてしまったら、また同じ轍を踏んでしまいそうで怖いのだ

役作りのように仕事をしていく

特定の職業で成果を出すためには、その職業になりきらないといけないと私は考えている。まるで、俳優が役作りをするみたいに

私はいろんな分野の仕事をしてきたが、職業になり切れた時が一番成果が出る。話し方も、性格も、大切にする感情もあらゆる面でその職業らしく振る舞うことで成果につながる

どんなに自分が透明に近くたって、色を染めた時に思ったように色が染まりきらない時もあるし、それが結局自分自身の個性なのであるから、最初から個性なんて考えなくても良いのだ、と私は思う


それよりも、その職場や職業に潜って行って、いろんな人の気持ちを理解して、その人たちと同じように物事が見れるようになることこそ、自分の色を出すよりもずっと重要であると私は思う

彼らの自然な感情も、些細な苛立ちも、日々の感情の機微も、そういうなりきりから全て生まれてくるのだから

空っぽな自分を乗りこなせるようになりたい

とはいえ、不安もある

役作りしやすい空っぽな自分はいつも満たされていないのだから、一人でいる時は不安になりやすい

誰かの目的を叶えるために行動している方がずっと楽だし、染まってしまえばそれなりに成果が出るから染まっておきたいとも思うのである


でも、もうこのままではいけないと思うのだ

この空っぽな自分を乗りこなせるようにならないといけない、と私は今思っている

この先ずっと、この空っぽな気持ちに苛まれるより、空っぽな気持ちと仲良くなるほうがずっと幸せになれると思っているからだ

まだ乗りこなす方法はわからない。それでも時間をかけて自分を理解するために一人になったんだと今日も私に言い聞かせるのだった

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?