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感情はなかったことにしなくていい

いやー、本当にこれでした。

「現実に起きたことが正解となる」ということを、靈氣を習い始めてからずっと聞いてきました。その現実が、起こってほしかったことか、起こってほしくなかったことなのか、(自分にとって)いいことか、悪いことか、という判断ではなく、やっと「起こった出来事について自分で解釈をつけて納得する」ということができるようになったのです。
敢えて、ちょっと雑な言い方をしますが、これができるようになると(こうやって俯瞰できるようになると)、自分の人生で起こった出来事すべてにオッケーが出てしまうので、過去にとらわれず、今と未来のことだけ、目を向ければよくなる、といった感じでしょうか。
どんなに当時嫌な思いをしても、その後の人生に多大な影響を及ぼしている出来事だとしても、自分でオッケーを出してしまうと、もう気にならなくなる、という状態になるのです。

でも、私の中で大きな盲点があったことについ最近気が付きました。
今回、私の中でオッケーを出したのは「ブレインハックされていた」という出来事に対してです。
そう。何年も前に、「人生を劇的に変える」というN◎Pというプログラムを受け、その後何年にもわたり人生が大幅にずれていった、そのきっかけとなった出来事に対して、です。
もうかれこれ5年前後経っているので、見方によっては「5年も人生を遠回りさせられていた」ということにもなります。
この洗脳に気づいたとき、まー怒りも出たし、でも自分が選んでやったことだし、とくちゃくちゃになりました。
でも、この経験を生かしていくぞ、と決めたから、この経験があるからこそ語れる話があるから、というところで折り合いをつけたんですよね。

そう。だから、この「洗脳にかかった」という出来事に対してはオッケーを出したんです。出来事に対しては。

でも、そこで私が誤ったのは感情にまで蓋をしてしまったこと。んー、もっと言えば、感情に蓋をした、というよりも、出来事にオッケーを出したんだから、もうそこに感情を持っていても仕方ない、とあきらめた(?)みたいなところでしょうか。
自分の中では終わったつもり、になっていたんですよね。
そしたら感情が爆発しました笑
この出来事、話すだけで泣くんだもの。そんな状況だった、ってことですよ。いや、笑えない。

この、「出来事にオッケーを出す」ということと、オッケーが出たからそのことに感じた感情をなしにすること、は一緒にしなくてよかったんですよね。
そしてそれに気づいたとき、本当に疲れた。どっと疲れた笑
身体の力が抜けるんだけど、ぐたっというより、へにゃ、という感覚で、なんとも気持ちが悪いという感覚。

本当ビックリした。

そうしたら、最近X(旧Twitter)で、「怒りを書き出すときは単語でもいい。理路整然と書かなくていい」とかいうのを見つけまして、なんか理路整然と他人に説明できないといけないと思っている自分がいるな、と気づくっていう。
怒りが大きければ大きいほど、同じ単語しか出てこなかったりするのは別に正解らしい。

私は、この感情に気づいて、大きな大きな荷物を一つどこかにやれたような気持ちがしました。
もし、同じような人がいたら感情を無視していないか、点検してほしいなと思います。ぜひ点検してみてね。

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