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“あの”四月の話。- Day X

もう1ヶ月以上も前のこと。

1ヶ月以上も前のことを、人はどのくらい覚えているだろうか。
いま目の前で本を読んでいるあのおじさんは、
1ヶ月前…正確には「39日前」に誰の本のどんなシーンを読んでいたのか覚えているだろうか。

ベンチで前髪にカーラーをつけるあの女子大生は39日前の“ある明るい時間”に誰とどこにいたのか、覚えているだろうか。

俺は覚えている。はっきりと。

あの日の、あの時の、あの瞬間の
青い瞳に吸い込まれそうになった感覚も
折れた枝を思って心が濁ったのも
彼の後ろ姿を微かに、でも確かに疑ったことも

覚えている。

確かにあったはずだ。

綺麗な発音で日本語を奏でる青い目の青年。
ポラロイドのフィルムが写す俺のボヤとした顔。
婆ちゃんが大事にしていた桜の木に“似た”木。
年輪を見せたままこちらを見据えるお婆ちゃんの桜の木。
婆ちゃんの木と青い目の青年を写したはずのポラロイドのフィルム。

有ったはず。
会ったはず…そう、俺は彼に会ったはずだった。

日本の、息が詰まるほどの平和が蔓延する空港のベンチで
俺はフィルムを眺めている。

向こうで撮った写真が手帳を膨らませていた。
決して上手くはない。幻想的な写真でもない。
俺が歩いた記録だった。記録…う〜ん、記憶…存在の証明?
まぁとにかく、どんなにかっこいい言い方を探しても
芸術作品という写真のジャンルからは程遠いと言うことを想像してほしい。

そんな写真を抱えて俺は今
本を読むおじさんの前で、
髪を巻いている女子大生の横で、
この空港のベンチで、
記録であり記憶であったはずのたった一枚のフィルムを眺めている。

それは

婆ちゃんが大事にしていた桜の木に“似た”木と、
青い目の青年を捉えたはずのフィルム。
もう、何も写っていない真っ黒なフィルム。

今から39日前の“あの日”。
俺の隣に、彼はいたのだろうか。
彼は存在していたのだろうか。

あの日
木が聳え立つ公園でじっとフィルムが彼を見せるのを待ったが、
フィルムの中で彼が笑うことはなかった。
「写真に嫌われてるんだろうね」
なんて冗談を言う彼の横で、笑えなかった。

白夜の中で出会った青年が
本当にただの青年だったという確証を持てずにいた。

日本語が飛び交うことが珍しい国の
日本では体験することのない夜が来ない日々の中で
流暢な日本語を使う彼。

写真は彼を写さなかった。
彼は俺に婆ちゃんの声を聞かせた。
彼は俺の中の苦い記憶を呼び起こした。

誰かの大切にしているものを奪ったとき
どうしようもなく心が痛んで
どうにかしてなかったことにならないかと願う。

子供にとって
自分よりもずっと大きい木の、
婆ちゃんが大事にしている木の、
その未来を垣間見せる枝を折ってしまうことは
心を痛めるには充分だった。

婆ちゃんは言った。
「ちゃんと謝るんだよ。ちゃんと伝わるんだから」と。
そうだろうか?
疑った幼い頃の俺は
木に手を伸ばしてみたけれど、謝ろうとはしなかった。

「おはよう」
「こんにちは」
「寒くないかい?」
「暖かくなってきたね」
「また今年も花をありがとう」
そうやって木に手を添える婆ちゃんを見て
バカみたいだと思ってしまったことを
青い目の彼が思い出させた。
彼の横で、とても久しぶりに婆ちゃんの声が脳裏に響いた。
偶然なのだろうか。本当に、ただの偶然だったのだろうか?

30歳を迎えた俺がそれなりにしか生きられなくなったのは
枝を折ってしまったあの時、謝ることができなかったからかもしれない。
“婆ちゃんに”じゃない。“木”に謝ることができなかったから。

謝るくらいなら、何も、誰も傷つけなければいい。
それなりの距離感で生きていけばいい。

そういう省エネ思考になってしまったから
こんな大人になってしまったのかもしれない。
こんな大人にならない未来が
きっとあの青い目にはあるんだろうなと羨ましく思う。
それくらいに彼の目は透き通っていて
俺の黒い目は吸い込まれそうにいなったんだ。

あの公園から帰る時、
連絡先も名前も年も生まれも
彼にとっての「何か」を何一つ聞くことができなかった。
聞いてしまえば、存在しないことの証明になってしまうかもしれない。
それが怖くて仕方なかった。

1ヶ月、彼を待っていた。
あの公園や、彼が“声をかけて欲しそうに”微笑みかけてきた街のベンチ。
人で賑わうモールなんかも行ってみた。
叶うのならば、彼をこのポラロイドフィルムに写して帰りたかった。
彼が存在したと言う証拠が欲しかった。

だって、俺にとって彼は
それなりに考えるということを止めさせた重要な人間だったから。

どこにいるだろう
何を思っているだろう
どうして俺の前に現れたんだろう
なぜ俺は彼についていったんだろう

そんな疑問が身体中を駆け回る。
答えは出ていない。でも、変化は嫌でも感じる。

この1ヶ月、俺が包み込まれていたのは、分からないことへの苛立ちだった。
分からないことへの苛立ち…それは「それなり」の人生の中で初対面のものだった。

これが、「それなり」との別れとなるのだろうか。
なればいい、そう思った。

あの青い目の青年が残していった残像から
それなりの人生を脱却する術を見つけたような気がした。
ありがたいことだった。


39日も前のことを、空港のベンチに座って考えている。
39日経っても、何も答えは見えない。

おじさんは相変わらず本を読んでいる。
女子大生は湿気で取れるであろう髪にまだ手巻きカーラーをつけている。

……バカみたいだ。
彼についてのいろんな思考は、もうここに置いていこう。

でも、ひとつだけ。

存在しないことの証明をしまいと沈黙を守るこの真っ黒なポラロイドフィルムを眺めて願おうと思う。

「それなりの大人になんて、なってくれるなよ」と。

…やっぱり、バカみたいだ。
これじゃぁまるで、婆ちゃんがあの木に手を添えて話しかけていたことと何ら変わらない。

ただ

婆ちゃんにとっての木が
俺にとってのあの青年なのであれば
それは少し…いやかなり、この人生においての財産となるような気がした。

夜が来ない街のあの出会いが本当にあったことなのか分からない。
真実はもっと退屈でつまらないかもしれない。
(ふかふかなベッドの中の夢かもしれない)
(彼はただの幻想かもしれない)
(僕にとっての理想が幻想となって現れただけかもしれない)
そう… …真実はもっと退屈でつまらないかもしれない。

それでもいい。

たったひとつ、
彼との出会いが俺のこれからを少し変えたことは真実だから。

今日は、婆ちゃんの木に挨拶をしにいこうと思う。
それから、あの時はごめんって謝っておこうと思う。

そう言う生き方をして、また彼に会える日を楽しみに待とうと思う。

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