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日記について

近ごろ、他人の日記を勝手に覗いて、勝手に感動するなどしている。

もちろん誰かの家に忍び込み、盗み読みをしているわけではない。インターネット上に公開されているブログの類だ。電脳空間に林立する「ご自由にお入りください」と軒先に吊るされたお宅にふらっとお邪魔して、少し上がって読ませてもらう。

どこの誰かも分からない人たちの生活は面白い。
書き手のプロフィールには特に興味はない。一生関わることもないであろう人が、今日、何と出会い、何を考えたのか。そんな日々の営みの記録を、無責任な赤の他人として適当に読む。

日記を書くという行為は、それなりに手間がかかっている。今日一日の出来事を頭の中で整理して、取捨選択し、文字に起こす。何がどうなるわけでもない作業。そうした過程を経て、自己満足のためだけに生み出された文章は、ある種の尊さを感じる。

子供の頃、興味がなかったドキュメンタリー番組を面白く感じるようになったのは一体いつだったか。多種多様な人間生活そのものへの興味。その頃から、本もノンフィクションやエッセイばかりを読むようになった。恐らく他人の日記を読む行為も、その嗜好と地続きにある。

品田遊著『キリンに雷が落ちてどうする』という本を読んだ。著者がnoteに綴った4年間の日記を再編集してまとめた内容だ。面白かった。ささいなこと、たっぷりしたこと。日常の出来事、思考が自分の言葉で丁寧に書かれている。

著者がプロのライターで、読者がいる前提での日記であるから、見せ方が上手いのは当然なのかもしれない。ただ、作為だけでは表現できない、日記ならではの人間の体温を感じられたような気がする。

私も高校時代、2年ほど日記を付けていた時期がある。携帯電話のメモ機能を使って、毎日4〜5行何かを綴っていた。日記を書き始めた理由も、辞めた理由も今では覚えていない。

当時の私は、書くことで何らかの気持ちよさを得ていたのだと思う。そしてその便益を必要としなくなった時、辞めたのだろう。今の私はその2年間だけ、高い解像度をもって振り返ることが出来る。

よい日記とは何か。一つ確かに言えることは、日記は客観的に評価出来るものではないということだ。それはただ主観的であればよく、論理が破綻していても、文法的におかしくあっても、日記としては"間違い"ではない。

自分がその行為によって、何らかの刺激を得られれば、それで目的が果たされるのが日記であり、内容か、継続か、評価か、反省か、何に重きを置くかも自分が決める。他人はあくまで脇役だ。感想は言えても、評論することは出来ない。

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