見出し画像

生きる”価値”がなければ、生きられない私たちへ

弟が亡くなって一ヶ月、生きるとはなんぞや、ということについて色々と考えました。

インターンや就活、その後の会社研修を通して、私は、

人生でこういうことをしたい
こういう風に生きたい

ということは、散々考えてきたつもりでした。
夢というか、目標というか。
そういう言葉は苦手だけれど、人生の指針のようなもの。
それは自分でも納得度を持って語れるものだったはずでした。

でも、弟が亡くなって、それらが飾りごとのように見えるようになりました。そして私はうまく、語れなくなりました。

私の弟は、本当にいい奴で、私なんかより真っ直ぐで人に優しくて、周りにいい影響を与える人でした。
驕らず、人を見下さず、最後まで人のことを気にしていました。人として、私がずっと尊敬していた弟です。
そんな弟は、ある日高校に行けなくなり、自分が生きる”価値”を見失い、次第にベットで寝てばかりになり、そして先日、生きることを辞めました。

弟の死は、私にとって大きな衝撃でした。
高校や大学に行ってなくても、ベットから出られなかったとしても、私にとっては弟は弟で、外に出て、生きる”価値”を追い求めて、いろんな肩書きをぶら下げて密かに安心していた私より、ずっと生きる”価値”のある人間だと思っていました。自分を下げる、とかではなく客観的に、です。
でも、弟は自ら命を絶ちました。

弟が亡くなったことに対する私の強烈な衝撃は、

私たちは自分が生きる”価値”無しに、生きれなくなっている。

ということに対しての違和感でした。

社会が豊かになって、多くの人がマズローの欲求階層説でいうなら下位にある生理的欲求や安全欲求が満たされている現在。私たちは自分が生きることに、より多くの要素を必要としているのでしょうか。

そう思って自分の生活を見返してみると、私は自分が生きている”価値”を追うことに必死で、生きている、そのこと自体への実感や満足がとても薄いということに気がつきました。

生きる”価値”を追う過程で、生きることの実感や満足を失っている。
なんだかそれは、今の私にはとても怖いことのように思えました。

毎日の満員電車に耐えるために、全ての感覚を塞ぐこと。
仕事のために毎日同じ冷暖房完備の建物の中で手だけを動かし、体に不調をきたすこと。
味も分からぬまま、一人でご飯をかき込むこと。

生きることの感覚をできる限り減らして、身体の感覚からくる違和感に気づかないようにして、そうやって生きていく。生きるということは、一体なんだったんだろうか。

仕事にも行けない自分は、生きている価値がない。
自分は人間として、何かが足りないから学校には行けないんだ。

ただ、生きること、暮らすこと、それだけでは自分自身が生きることを肯定できない。”社会的に、自分が生きている”こと、が証明されなくては、自分自身の首元に刃を向け続けることになる。生きるとは、一体なんのためにあったんだろうか。

もちろん私は、自分が生きるということの”価値”を見出す行為を、批判したい訳ではありません。
そのために行う努力や、他者への貢献は自分自身にも帰ってくるかけがえのないものなはずです。
それに、社会との関係なしに人が生きることができるとは思いません。生きる上での要素として、社会的に存在が認知されることや他者からの承認は、勿論必要になるでしょう。事実、私はどちらかというと”追い求める系”です。
自分が生きる”価値”を追い求めて、食事も疎かにしながら仕事をするし、スケジュールびっしりで暇もなく活動するタイプの人間です。

でも、弟が亡くなって、生きるということは、本来もっとシンプルに成り立つべきものなんではないか、ということを思い始めています。

自分が生きる”価値”を追い求める過程で、生きるというその行為そのものを疎かにしなくてもいいのではないか。たまには生きる”価値”なんて難しいことは考えないで、今日も生きている自分自身をきちんと眼差してあげてもいいのではないか、と。

ありのままの自分を。

なんて手垢にまみれた言葉は苦手だけれど、自分が生きる”価値”、に人生の主導権を握られずに、一生物として生きて、暮らす、その行為自体をもっと大切に、そのことに満足や充実を感じながら、生きていきたいと思うのです。


記事を読んでくださってありがとうございます☺️ 頂いたサポートは日々の生活の中で文章を書くのに必要な資金にさせていただきます!