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拝啓、「生きているのも悪くないよ」とあなた(私)を殺さずに言える方法を探しています。

非分節化すること、有機体であることをやめることは、いったいどういうことか。それをがどんなに単純で、毎日していることにすぎないかをどう言い表せばよいだろう。慎重さ、処方量のテクニックといったものが必要なのであり、オーバードーズは危ないのだ。ハンマーで滅多撃ちにするようなしかたではなくて、繊細にやすりをかける様な仕方で進まなくてはいけない。我々は、死の欲動とは全く異なった自己破壊を発明するのである。(p327-328)
ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ 著
『千のプラトー 資本主義と分裂病(上)』宇野 邦一 、豊崎 光一 訳 河出書房新社


拝啓、あなた。
いかがお過ごしでしょうか。ごめんね、冬の挨拶は、よく知りません。

「年越し」というどこの誰が決めたのか決めていないのかよく分からない、冗長な人生を生き抜くための戦略的境界線を意識する瞬間に、やはり私は超えてはいけないこととして、あなたの命を考えます。

私は相変わらずこちらで生きてしまっています。
のうのうと、そこそこ楽しく。数年前、淵の底の私に向かって掛けられたさまざまな生に向かった言葉も今では「わかる」様になってきているし、気を抜けば口をついて出ることがあったりもします。

「息抜きも、大切だよ。カフェ、行ったりさ。」

生きていることは悪くないです。時々、そう思います。
研究室の帰り、真っ暗な夜に一人で誰もいない街を自転車でかける時とか
人生で大切にしたい人が、また一人増えたな、と思える帰り道とか
朝早く起きれた日の、部屋の壁に差し込む光を見た時とか。

「あ、生きるのは悪くない」

と思って、そう思ったことが簡単に風に吹かれていかない様に「そう、生きるのは悪くないな」ってもう一度思うことにしています。

そしてそれから、生きるのはやっぱり悪いな、と思うことにしています。
「生きるのは悪くないな」と言った時に無かったことにしてしまう、いつかの固まりきった心のことを想うからです。

人の行き交う道路にただ立つことや、朝起きて世界が始まること、仕舞いには時間さえも怖くて、生きるために必要なすべてのことが怖くて、カフェのメニューの前で立ちすくんでいた日々の心のことです。
そして、ついに生きることに希望を見出せなくなってしまったあなたの心のことです。

生きるために捨ててしまわなくてはいけないことは、なんでしょうか。
それは、死んだら手に入れられるものと同じでしょうか。

私には、まだ分かりません。
分からなくて、しかたなく、まだここにいます。

友達が「自分の死を、誰かに語られたくないから、自分の死ぐらい自分の手の中に持ちたい。死んでも誰にも見つからない自分のための死に場所を探すプロジェクトをやzりたいとおもってる。」と言いました。私はそれは“面白そうな“プロジェクトだと思ったけど、“面白い“ためのプロジェクトの薄ら寒さを感じたし、それが可能な方法が未だ思いつかなくて、黙っていました。

なぜか腹が立っていました、少し。

あなたの死をいろんな様に語る人がいました。
それを防ぐことは、少なくとも私にとって、あなたが生きていることをもってのみ可能なことな気がしました。
あなたの死を語れない私は、ただ私自身が生きていくことをもって、あなたの死と私の死を、考えています。

冒頭の言葉を残したドゥルーズは、生にこだわり続け、そして自ら窓から身を投げたと言います。生きること、をきちんと考えればそれは生きるに耐え得ないほどの苦しみと共にあるのでしょうか。

私はまだ、死の欲動とは全く異なった自己破壊を探しています。

勇気がなくて、そして単純で、無駄な繊細さと、どうしようもない傲慢さを持ち得てしまっているので、私は妥協をして何かを失いながら、そして時に世界から自らを切り離して身を守ったりしながら生きながらえています。

世界にfuck you!!!!と言いながら、全力でそこを走り抜けてみたり、泥になってベットの上で溶けていたり、しています。

でも結局わかることは、そんなに多くなくて、生きることは大変ですね。
あなたのように嘘もたくさんついて生きています。

そちらのことは、分かりませんが、私はまだなんとかこちらでもやれることがあるんじゃないか、と思っています。

あなたは「生きているのも悪くなかったよ」とあなた(私)を殺さずにいうことができると思える時が来たら、そちらで会いましょう。

それまでは、どうかお元気で。

敬具


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