ネイキッド・シンギュラリティ―

 それは、静まり返った図書館の中で念入りに翼を拡げている。列柱をなす書物、整然と並ぶ表題、数々の書棚は図書館をくまなく塞いでいながら、他方、不可能の世界へぽっかり口を開けている。〈省略〉夢見るためには、目を瞑るのではなく、読まなければならない。真のイマージュは、知識なのである――ミシェル・フーコー(『幻想の図書館』工藤 庸子訳)

 一

 黒いニット帽を目深に被り、紺色のピーコートを羽織って、ストーンウォッシュのジーンズを履いた男…最近、よくうちに来るようになった。でも、未だにこの男の声を聞いたことがない。吃音なのだろうか? まあ、別に特段、声を聞きたいというわけでもないんだけど。
 「いらっしゃいませ、御注文がお決まりになりましたらお知らせ下さい」
ワタシはそんな疑問をつゆとも感じさせない、営業スマイルで男のいつも座る、窓際のテーブルに透明なコップに入った氷水を差し出した。男は頷いたのか、俯いたのか、よく分からない仕草を見せ、開かれたランチメニューを見つめた。男が頼むメニューは、いつも決まっている。皮を被った東欧のソーセージの様な血色の悪い、男の人差し指で指された、ナポリタンだ。ちなみにうちのナポリタンに入っているのは、袈裟切りしたウインナーだ。
 「かしこまりました。ナポリタンですね、御注文は以上でよろしかったでしょうか?」
いつも通り、返ってこない返事を待つ一瞬の間を空け、ワタシはランチメニューを閉じ、一礼してキッチンに向かった。マスター兼シェフの土方さんは、すでにスパゲッティを茹でていた。
 「ナポリタン、一つ入ります」
 「あいよ」
土方さんはパスタ鍋で踊るスパゲッティから、ワタシの方に顔を向けニッコリと笑顔を見せた。
 「ミカちゃん、ランチの看板下げて来てくれる? そしたらあがっていいよ。これはボクが持って行くから」
 「いいんですか? まだ三〇分早いですけど……」
 「いいよ。勿論、その分の給料も出すし。それに、たまに十分くらい長引く日もあるでしょ。今日は祝日だし、もう誰も来ないと思うから」
 「本当ですか? ありがとうございます! じゃあ、お言葉に甘えてお先に失礼します」

彼の癒しのオーラを求め、訪れる常連さんも多い。否応なしにこの喫茶店にもファンタジーな世界観を感じてしまう。真っ黒な、得体の知れない生物のような妖精が、屋根裏からひょっこり現れる、なんて都市伝説もまことしやかに囁かれている。信じるか、信じないかは個人次第だけど。木製のフレームに収められた黒板の看板を抱えながら、ワタシはメルヘン症候群に陥る。裏口で微睡む真っ黒な猫が、あくび混じりに話しかける。
 「もう閉めるのか? 暇な飲食店ほど楽な仕事はねぇな。オレがお前の仕事の邪魔してるんじゃねぇぞ、お前がオレ様の昼寝の邪魔してんだ」
猫とは、なぜこうも高慢な性格で描かれるのだろうか? 先人たちのイメージのせいだろうか? いや、バロンはとても紳士的でインテリだったわ、人形…否、猫形だけど。
 「うるさいわね、どけなさいよ。あなたの家じゃないでしょ、シッ!」
ニャッ! とクロスケは跳びのき、こちらを恨めしそうに睨みながら、スタスタと長い尻尾を振りつつ、店の裏路を歩き去った。ワタシは〝あっかんべー〟でクロスケを見送った。
 着替えを済まして、店を出る。店脇に停めていてもオブジェと間違えられそうな、シックでオシャレな黄色いフランス製の自転車にまたがり、丘の上にある店から一気に眼下に広がる港街に降った。目の前に広がる雲ひとつない抜けるような空と、燦々と輝く太陽に照らされ煌めく海の青さが混じり合い、まるで空を飛んでるような気分になった。
 「ヤッホー!」
気分が高揚し、思わず叫んだ。さっきのクロスケが道脇から飛び出し、ワタシは右に急ハンドルを切りよろめいた。背後からクラクションが響き、軽トラックが反対車線に飛び出しながらワタシを躱した。クロスケは何食わぬ顔で道脇で座り込み、何食わぬ表情で毛繕いをしながらこちらを見ていた。
 ワタシは振り返りながら、右手の中指を立ててクロスケを睨んだ。
 「厄病神だな、あいつ……」
一人腹を立て、さっきまでの爽快な気分を取り戻すためにフリッパーズ・ギターの「Haircut 100 バスルームで髪を切る100の方法」を大声で歌った。

 街に辿り着くと、石畳のまだ残る道の上を自転車を押しながら歩いた。海から吹きつける風は、生暖かく湿っている。中世のオリエンタルとオクシデントが混ざり合ったこの街には、高い建物と言えば、岬の先にある白い灯台くらい。夏の昼間には容赦なく太陽の光が照りつけて、立ってるだけで溶けてなくなってしまいそうなくらい、じっとりと汗をかく。無論、そんな状況で街を歩いている人なんて一人もいない。でも、ワタシはこの、時が止められたようなしーんとした街並みを眺めながら、歩くのが好き。思わず顔がニヤついてしまう。
 「なに一人で笑ってんだよ? 気持ち悪いぜ」
至福の瞬間をぶち壊すこの声の主は、幼馴染みのタケオだ。
 「うるさい! ニヤついてなんかないわ、あんた暑苦しいんだから、昼間は外に出ないでよ!」
 「は? そういうの、人権侵害って言うんだぜ。〝パリコレ厨〟にタコ殴りにされちまうぜ」
 「それ言うなら、ポリコレでしょ。ポリティカリー・コレクト。あんたと喋ってると疲れるわ、あっち行きなさい、シッ!」
ワタシは、行く手を塞ぐタケオを左手で払いながら、再び歩き始めた。
 「そんな、人を猫みたいに扱うあたり、やっぱり人権侵害だな。〝パリコレ違反〟」
後ろからタケオが付いて来る。バカに限ってしつこい。しつこい奴は皆バカなのか?
 「ポリコレだって、言ってんでしょ!」
ワタシは自転車に跨り、タケオを振り切ろうとした。タケオはバカでかい巨体のくせに、やけに足が速い。まんまとワタシの愛車の後輪の上に飛び乗る。ワタシの倍以上の巨体のタケオが後ろに乗ったことで、自転車がバランスを崩し、ワタシはハンドルを取られ、ぐらついた。
 「ちょ…降りなさいよ! バカ!」
 「ちゃんと前見て運転しろよ、倒れちゃうだろ!」
ワタシは急激に重くなったペダルを、歯を食いしばりながら漕いだ。でも、一〇メートルも進まないうちに諦めて、自転車から降りた。
 「わかったわよ、あんたが漕ぎなさいよ!」
 「何だよ? もう諦めたのか、根性ねぇなあ」
バカの特性は、何でもすぐに精神論で片付けようとするところだ。ワタシはタケオに運転席を譲り、後輪の出っ張っているボルトに両足を乗せた。
 「で、どこに行くんだよ?」
 「図書館」
 「えー? 海行こうぜ。こんなに天気いいんだから」
 「うるせー! あんた一人で行きなさいよ。これはワタシの自転車なんだからね」
街にある唯一の図書館は、これまた唯一の美術館と併設していて、街の北西にある。こんな溶けそうに暑い季節には、ここで陽が傾くまで静かに本の世界に浸るのが一番。図書館と美術館は、この街出身で、今や世界的に名を馳せる、新進気鋭の現代建築家・龍口研新がデザイン、設計している。比較的新しい建物で、この中世時代を切り取ったような街並みの中では少し浮いてる感じがインテリっぽくて、ワタシのお気に入りスポット。図書館の入り口にある掲示板では今、美術館でワタシの大好きな、イギリスのポップアーティスト、デイヴィッド・ホックニーの企画展が開催されていることを知らせていた。プール脇から見える水しぶきとポップなカラーで彩られた景色が印象的な、あの代表作『A Bigger Splash』もイギリスから、海を渡ってやって来ている。
 「おーい! オレ、漏れそうだからトイレ行ってくる」
と図書館のロビーで叫ぶタケシを尻目に、今度、このバカがいない時にゆっくり観に来よう、とワタシは心の中で呟いた。

 図書館は西洋史上、最も古いと言われるイギリスのオックスフォード図書館をモデルにしたと、去年、読んだアート・デザイン・現代建築系の月刊誌のインタビューで、龍口研新が語っていたのを覚えている。入り口から奥まで、シンメトリーに美しく並ぶ木製の本棚の前、一つひとつに本を読む為のテーブルと椅子が設置されている。どれも色濃い木目の物で統一され、落ち着いた雰囲気を醸し出している。一番奥に位置する本棚は二倍の高さがあり、木製の梯子が立て掛けられている。図書館は吹き抜けの構造で、司書が待機するカウンターが施設のど真ん中に位置し、その円柱をくり抜いたようなカウンターに絡みつく大蛇の様な螺旋階段が二階に続いている。一階には漫画、雑誌、児童書、人文学、歴史、地学、などの書物、二階にはアート、写真集、科学、参考書などの本や、CD・DVDが収められている。ワタシはタケオと少しでも離れるために二階のアート誌の棚に向かった。
 ホックニーの画集を手に取る。イギリス人のホックニーは、ニューヨークで、アンディ・ウォーホルと出会い、その後ロサンゼルスに移住。ここで、アクリル素材でプールを描いた作品群を制作。『A Bigger Splash』もこの時、制作された…と、ここには書いてある。なるほど。ホックニーの画集を戻し、同じ棚で目に付いた画集を引き抜く。金色の背景の中で、黒い幾何学模様の黄金のマント纏った男と、暖色の円形模様が散りばめられた黄金の服を着た女性が口づけを交わす瞬間を描いた油絵に、ワタシは眼を奪われた。
 『接吻』/Gustav Klimt(グスタフ・クリムト)と画集には書いてある。なになに…帝政オーストリア時代の画家、劇場装飾家として名声を得たが、ウィーン大学講堂の天井画の依頼で依頼者の意図に反し、理性の優越性を否定した寓意画を制作。当時の文部大臣まで巻き込む大論争を引き起こした。保守的なクンストラーハウスから離れ、ウィーン分離派を設立し、初代会長に就任。モダンデザインの設立に貢献した。その後、上流階級婦人の肖像画を多く手掛けた。多い時には十五人もの女性がクリムトの家に寝泊まりし、妊娠した女性も。生涯結婚はしなかったが、非嫡出子が多数いた。『接吻』のモデルは、最愛の愛人と言われるエミーリエ…何よ、最低のゲス男じゃない! だけど、こんなのに限って才能あるのよね、世界は残酷だわ。
 「気持ち悪い画だなぁー」
いつの間にか背後に立っていたタケオが画集をのぞき込みながら呟く。これだからコイツとは、美術館には行きたくない。ワタシはパラパラとその画集を眺めて、本棚に戻した。
 「静かにしなさいよ」
ワタシはタケオに一瞥をくれ、一階に降りた。
 「こんにちは、あの……」
カウンターに腰掛けている、司書の田中さんにこの不快な気分を振り払おうと話しかけた。
 「おや、森さん。お久しぶりですね。お元気ですか?」
 「あ、はい、何とか。田中さんもお元気そうで」
ワタシはよくここに通っているし、田中さんは、ここの常勤でワタシたちは顔見知りになっていた。
 「今日はどんな本をお探しで?」
 「えっと…旅に出たくなる本、なんてありますか?」
 「本を読むということは、それ自体が旅のようなものです。ただ、遠く海や山を越えて、知らない土地の人々や町並みを瑞々しく書き記した本を読むと、その場所に想いを馳せてしまいすね。そうですね、村上龍の『イビサ』なんて如何でしょうか?」
 「村上龍? …春樹なら知ってます。すみません、無知で」
 「いえ、村上春樹はノーベル文学賞に最も近い日本人作家として、世界中で有名ですが、村上龍は、彼ほど世界で評価されてはいませんからね…少しクセがあるというか、好き嫌いが分かれやすい作家かもしれません。私は好きです」
田中さんはカウンターを出て、日本文学の棚へ向かった。ワタシとタケオもそれに従った。棚には作家の作品が、作者の名前であ行から順に、向かって左から右へと並んでいる。村上春樹の棚に並んだ本と変わらないくらい多くの本が、村上龍の棚にも並んでいた。その下には村山由佳が続いている。こちらは、彼らの五分の一といった感じかな。
 「あ、『昭和歌謡大全集』って村上龍の作品なんだ!」
突然タケオが前のめりに、村上龍の棚に食いついた。
 「何? 知ってるの?」
ワタシは少し怪訝な表情で彼に尋ねた。
 「映画で観てさ、松田龍平が主演だったんだけど、スゲエ面白いんだよ! おばさん軍団と若い奴らが殺し合うっていう」
あまりな悪趣味ぶりにワタシは顔をしかめた。しかし、タケオが映画とは言え、こんな文学作品に興味を示すとは。少し意外だった。田中さん、『イビサ』はそんな作品じゃないんですよね? お願いしますよ。ワタシは心の中で、田中さんの背中にそう語りかけた。
 「はは、じゃあ君には『半島を出よ』がお勧めかな? きっと気にいると思うよ。はい、森さん、こちらが『イビサ』です」
田中さんがこちらを振り返り、文庫本をワタシの前に差し出した。
 「大丈夫ですよ、これはスペインのリゾート地であるイビサ島の名前を冠したタイトル通り、ヨーロッパ、北アフリカのモロッコを舞台にした旅物語ですから」
心配そうな表情で本を見つめていたワタシを安心させるように田中さんは、にこやかにそう概要を話した。
 「これ、上下巻あるんですね~。読めるかなぁ……」
タケオが田中さんに勧められた、『半島を出よ』の上巻を捲りながら呟いた。
 「壮大な話ですからね、北朝鮮の特殊部隊に福岡が占領されて、彼らにニートたちが戦線を引くという」
 「面白そうですね!」
タケオが目を輝かせている。彼のこういうピュアなところが、どんな人間も彼に親しみを感じてしまう点なんだろうな、と思った。
 タケオは田中さんに本を借りる手続きをしてもらって、そのまま帰った。ワタシはもう少し残って、他にも借りる本を探すことにした。この前、読んだ伊坂幸太郎の『重力ピエロ』に争いを避ける為に擬似性行為おこなったり、メス同士が性器をこすり合せる〝ホカホカ〟と呼ばれる行動をする「ボノボ」というチンパンジーに似た霊長類の話が出てきて、とても気になっていた。田中さんに『イビサ』を預けて、ワタシは再び二階へ上がった。オランダの生物学者フランス・ドゥ・ヴァールの『ヒトに最も近い類人猿ボノボ』を借りることにした。オランダ人でフランスなんて名前、ややこしいな、と一人ツッコミを誰もがせずにはいられないだろうな。ワタシは、その本を片手に二階をもう少しぶらついた。天文学の棚でリサ・ランドールの『ダークマターと恐竜絶滅』という本を見つけ、パラパラと捲った。
 ダークマターの一部は寄り集まって円盤化し、天の川銀河の円盤内に収まり(二重円盤モデル)、周囲に強い影響を及ぼす。その新種のダークマターが彗星を地球に飛来させ、六六〇〇万年前の恐竜絶滅を引き起こしたのかもしれない…何も頭に入ってこなかった。巷ではリケジョが持て囃されているけど、ワタシには縁がなさそう。帯に載っている写真を見ると、著者のリサ・ランドールはとても美人で、この世界自体がワタシの宇宙とダークマターを隔てて、遠く何光年も離れた別次元のように思えてならない。ワタシは本を棚に戻した。

 あれ? 頭がクラクラする…ちょっと難しいこと考え過ぎたのかな?

 目の前が少しずつ歪みながら、ムンクの『叫び』の背景のようにワタシが見る空間がベトベトに溶け出した。

 「何これ、貧血? ヤバ…い…」

 そしてその空間をキャンパスに、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングみたいな、出鱈目な飛び散る絵の具の様な光が差し込むのが目に映り、ワタシは気を失った。

 二

 セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフの『ピアノ協奏曲第2番』…ラフマニノフはロシア出身の若き天才ピアノ奏者で、かのチャイコフスキーに目をかけられた。一八九二年「モスクワ電気博覧会」で『前奏曲嬰ハ短調』を初演。この曲は人気を博し、作曲家としても認められた彼だが、一八九七年にアレクサンドル・グラズノフ指揮によるペテルブルクでの『交響曲第1番』の初演が記録的な大失敗に終わり、神経衰弱となり作曲をできなくなってしまった。ラフマニノフは、翌一八九八年にヤルタでアントン・チェーホフと出会い、親交を結んだ。チェーホフは失意のラフマニノフを励ましたという。翌一八九九年には、彼を心配した知人の仲介でレフ・トルストイの自宅を訪ね、『交響曲第1番』の初演以降に作曲した数少ない作品の一つである歌曲「運命」(後に作品21の1として出版された)を披露したが、ベートーヴェンの『交響曲第五番』に基づくこの作品、晩年ベートーヴェンには否定的だったトルストイはお気に召さなかったようで、彼はさらに深く傷つくことになった。

 僕がチェーホフが好きで、トルストイが嫌いな理由だ。

 一九〇〇年、ラフマニノフを心配した友人に紹介された、精神科医のニコライ・ダーリは、ラフマニノフに催眠療法と心理療法を用いて三カ月以上にわたる治療を開始した。ダーリの治療と家族の支えにより快復したラフマニノフは、後に『ピアノ協奏曲第2番』を作曲し、ダーリに献呈した。この作品によってラフマニノフはグリンカ賞を受賞し、作曲家としての名声を確立した。この曲の初演時、楽屋でダーリは「あなたのピアノ協奏曲は…」とラフマニノフに話しかけたところ、ラフマニノフは「いや、あなたのピアノ協奏曲です」と返したそうだ。

 〝持つべきものは友〟とはよく言ったものだ。現在では、ダーリの治療法については懐疑的な見方が広まっている。ダーリは数回の診療をおこなっただけで、難航していた「ピアノ協奏曲第2番第1楽章」が完成したのは、治療に通った時期から一年以上経過している、というのがその論拠だ。しかし、そんなことはどうでもいい。ラフマニノフがダーリに献呈してるのだから、作曲が再びできるようになったのは、間違いなくダーリのおかげだろう。重箱の隅を突く様な輩には、きっと素敵な友達がいないのだろう。それはとても悲しい人生だ。「このエピソードを知って『ピアノ協奏曲第2番』を聴くと、また違った趣きがある」なんて言う奴も駄目だ。問答無用でこの協奏曲は、悲哀から立ち直った輝かしい喜びと、安らぎに充ち満ちた音が詰まっている。そんなものは聴けば分かる。それが音楽だ。まあ、僕には分からない。なぜなら僕は音楽家じゃないからだ。
 実在のピアニストであるデイヴィッド・ヘルフゴットの半生を題材にした、『Shine』というオーストラリアの映画がある。メルボルン出身のヘルフゴットは、ロンドン王立音楽院に留学し、ピアノコンクールで難関であるラフマニノフの『ピアノ協奏曲第3番』に挑戦し、その後精神に異常をきたし始める。ヘルフゴットはメルボルンに戻って、精神病院に入ったが、後に療養所の女性に引き取られて退院した。そして、ある日バーでピアノを弾き始めた。それが新聞で話題に上り、再び彼は演奏家として立ち直る。この映画で僕はラフマニノフを知った。こうして見ると、ラフマニノフと精神病がまるでセットのように見えてしまう。音楽は純粋に音楽として聴けば良いのだ。僕はそう思う。「お前が一番うるさい」という声が聞こえてきそうだが、ここで述べていることは個人的見解なので批判は受け付けない…こんなことを考えているうちに、レコードに落とした針が上がり、レコードはジィージィーポスポスと辿る溝を見失った針が、それでも溝を探し求めるように声にならない叫びを上げながら、空回りを続ける。このくぐもったノイズを聴きながら眠りに落ちるのは、なかなか心地が良い。人間が無機質な機械に愛着を感じるのは、この全く意味のない実直さを機械が持っているからだ。ルンバのような、自動掃除機も段差で引っかかり身動きが取れない状態を見て、人はそれを拾い上げながら「カワイイ」と言うのだ。

 僕はヤコブセンのエッグチェアから腰を上げ、レコードプレーヤーの針を上げた。一九五八年に発売されたフリッツ・ライナー指揮、シカゴ交響楽団とアルベルト・ルーベンシュタインによるラフマニノフの『ピアノ協奏曲第2番』のレコードを取り上げ、レコード収納棚に戻した。…僕は何か違和感を覚えた。戻したレコード棚にデヴィッド・ボウイの『LOW』が並んでいたからだ。僕はレコードをジャンルとアーティスト別に並べて収めている。「クラシカル」の棚に「ロック」が収まっているなんて有り得ない。ボウイは「クラシック・ロック」かもしれないが、常に柔軟性と革新性に満ち溢れたアーティストだった。僕は『LOW』をロックの棚に並べ直した。…ん? 僕は混乱した。棚にはQUASIMOTOこと、マッドリブの「Hittin Hooks」が収まっていた。これは「ヒップホップ」だし、しかも7インチだ。無茶苦茶じゃないか! 空き巣か? 僕は辺りを見回した…整然とはしている。確かに、今や音楽はスマホでサブスクのストリーミングで聴くのが当たり前だし、レコードなんてただの趣向品みたいな物だ。その分、〝レア物〟は高値で取り引きされたりもする。僕はレコード棚を左隅から見直した。「テクノ」棚にはエイフィックス・ツインの『COME TO DADDY』から並んでいる…この辺は触らなかったのか。あれ? 改めて見ると全てが規則正しく元通りに並んでいた…錯覚か? 少しうたた寝をして、夢心地だったんだ、と僕は自分を納得させ、隣のベッドルームに入った。グレーのシーツに覆われた薄い掛け布団を捲り上げると、その下には見覚えのない女の子が静かな寝息を立てて横たわっていた。

 三

 目覚めると、全く見覚えのない部屋のベッドの上にワタシはいた。何処だろう? 病院? にしては、洒落てる部屋だな。というか、ワタシは大丈夫なんだろうか? 図書館で目眩がして、気付いたらここで…あれ? 手足が動かない。金縛り? まだ夢? 何なの? 
 「目が覚めたか?」
突然話しかけられて、ワタシはビクッとした。でもまだ手足は動かない。ヤバイ。幽霊的な何かだ…霊感なんて、今までまるで無かったのに。ワタシは、一度頭を枕に沈め、首が動くことを確認した。そして、恐るおそる顔を声のした方に向けた…
 「あ! 龍口研新!」
 「…そうだ。分かってて盗みに入ったんだろう? 堂々と現場で寝るなんて、図太い女だな」
 「え、え、え? ちょっと、待って。盗み? 何のこと?」
ワタシは手足がビニール紐で縛られていることに気付いた。全くシチュエーションが飲み込めないわ。夢か、そうね。龍口研新のことを考えたりしていたから、きっと夢に出てきちゃったんだ。
 「この状況でとぼけるなんて、やはり子どもだな。盗んだ物を返せば、警察には連絡しない。というか、僕が誘拐したみたいに思われたら、たまったもんじゃないからな。大方、先程調べさせてもらったが、何処かに隠したんだろ?」
嫌な夢だなぁ。ワタシ縛られたい願望あるのかな? しかも盗っ人扱いで尋問なんて、ドM感丸出しじゃない。冗談じゃないわ。
 「ギぃいやャアーーーーーーー!」
龍口研新は目を丸くして、丸椅子を倒しながら急いで立ち上がり、ワタシの口を両手で押さえた。
 「@#/&…!」
 「オイオイおい、何だよ! 気でも狂ったのか? ヤメろ。警察が来たら、僕が捕まるだろ」
ワタシは龍口研新の手を思いっきり噛んだ。
 「ヴあ痛っ!」
 「キャアぁーーーーーーー! 助けてー」
 「分かった! わかったから、やめてくれ」
 「紐を解いてよ」
 「その前に盗んだ物を…」
 「キゃ……」
 「わ、分かった」
龍口研新は左手でワタシを制しながら、右手でビニール紐に手をかけた。ワタシはベッドの上に正座して部屋の中を見回した。イサム・ノグチの間接照明、カリモクの革張りソファ…あ? 見覚えのある絵。クリムトの『接吻』だ!
 「クリムト…好きなんですか?」
 「…え? ああ、あれ。まあ、複製だけどね。クリムトは素晴らしいよ、現代美術のパイオニアだ」
 「でも、何人も愛人がいたんでしょ?」
 「芸術家なんて、そんなものだろう。しかし、死の直前に名前を呼んだとされる、エミーリエとは、最後までプラトニックな関係だったそうだよ。その反動だったんじゃないかな? 不器用な人だったんだよ、恋愛にはきっと」
 「ふーん。あの、ファンなんです。サイン下さい!」
 「は? 何なんだ? 僕はアイドルじゃないんだ。早く出て行ってくれよ」
 「出て行け、と言われても、ここが何処だかわからないし。気付いたらここにいたんです。というか、これは夢ですよね?」
 「ふんっ。笑えない冗談はよしてくれ。君は僕が誰だか知っているし、ほら、ここに歯形だってしっかりついてる。僕が夢だと信じたいが、物凄く痛かったんだ、夢じゃない。紐は解いたんだ、早く帰ってくれよ」
妙にリアルな夢だな、どうしようかな。
 「あの、龍口研新さんは、今東京に住んでいますよね? 故郷の湯芽町の実家じゃないですよね、ここは」
 「あのさ、ここは東京だし、僕は龍口研新だけど、僕は生まれも育ちも東京だよ。ファンを名乗るなら、それくらい知ってるだろ」
 「やっぱり夢か…ワタシは湯芽町のあなたが設計した図書館で気を失って、今ココ←なんです。ワタシの夢にもう少し付き合って下さい」
 「…想像以上にヤバい女みたいだね、君は。いいから、家を教えなさい。送ってあげるから。いや、病院か?」
 「だから、湯芽町だって言ってんじゃん!」
 「おまけに強情か。お嫁にいけないぞ」
 「セクハラですよ!」
 「やれやれ、辟易だよ、最近のポリコレだか、パリコレだか知らんが。気が進まなかったから、財布は見ていなかったが、仕方ない。学生証とか、保険証とかマイナンバーくらい入ってるだろう……」
龍口研新は、徐ろにベッドのサイドテーブルに広げていたワタシの所持品からシャネルの財布を取り上げて中を確認しだした。
 「ちょっと、プライバシーの侵害!」
 「家宅侵入者が言えることじゃないだろ。シャネルか、生意気だな…ん? これかな」そう呟きながら、龍口研新はカード入れからワタシの図書館のカードを抜き出した。
 「図書館ね、僕は図書館なんて設計したことはないよ。そんな話は昔あったけどね、断ったんだ。…森実可? 珍しい名前だな。何て読むんだ? ミカか。で、ゆ、湯芽町図書館…!」
 「だ・か・ら、さっきからずっと言ってんでしょ! わかった? あなたが夢の中にいるの。ワタシの夢の中に」

 四

 なんだ、悪い夢か。やけにリアルな夢だ。噛まれた右手はまだジンジンするし…夢で痛みを感じないなんて、迷信なんだな、ということを考える夢なのか? そもそも夢の中で思考するということは、可能なのか? しかし、ジークムント・フロイトの『夢判断』では、夢は記憶の素材から引き出される、無意識的な願望の統合された物語であり、無意識の自己表現と記されていたはずだ。僕はこんな少女に見覚えはないし、湯芽町なんて聞いたこともない。もしかしたら、街頭でこんな少女を無意識に視覚の隅に捉え、何かアニメで観た架空の町の名前を記憶していたのかもしれない。図書館の設計を依頼されたこともあった。あれは長崎県の三和町だったか? 長崎県立美術館は、確か隈研吾が設計していたはずだ。その後に建築された、長崎市立図書館が「第十三回公共建築賞優秀賞」を受賞してからは、不景気の煽りもあって、大都市以外の地方の公共施設の建設について、高名な建築家に公費を支払うようなことは地元民の反感を買うようになった。結局、僕が図書館を設計する話も有耶無耶になって流れてしまった……
 「ちょっと、聞いてます?」
は! いかん。とにかく、これが夢なら警察に捕まることもない。僕は、もう一度図書館カードを眺めた。湯芽町…ゆめまち? なんて安易なネーミングだ。まるで『トゥルーマンショー』のベニヤ板にベタ塗りされた空の下の世界で生きてるトゥルーマンみたいじゃないか。
 「で? 君が夢から醒めたら、僕は消えて無くなってしまうわけ? 君の夢が君のコントロール下にあると思うのは、大きな過ちだと思うよ。フロイトによれば、夢は無意識の下で……」
 「はい、はいはい。夢なんだから、そんな議論は無意味だと思います。ところで、喉乾いたので、アップルジュースもらえます?」
 「そんな甘ったるい飲料は、うちには無い。何でアップル限定なんだ? まあ、いい。僕も少し頭を整理したい。コーヒーを持ってこよう」
 「ぷっ…あははは」
 「何が可笑しい?」
 「だって、目を覚ますカフェインたっぷりのコーヒーを夢の中で飲もうなんて。何か可笑しくて」
 「だからだよ! 早くこんな悪夢からは醒めたいんだ。君の夢だろ? 早く目覚めろよ」
 「うるさいわね。龍口研新はクールなイメージだったのに…こんな幼気な女の子にムキになって。幻滅だわ、夢だとしても」
僕はベッドルームを出て、下にあるキッチンに向かった。
 「誰だって同じ態度を取るに決まってるだろ」
僕は、電気コンロの上のケトルに入れた水が沸くのを待ちながら呟いた。ドリッパーの上に紙フィルターを乗せ、ミルで挽いた豆をコーヒースプーンで掬い入れる。電気コンロで沸き立った湯が、蒸気でケトルの蓋をカタカタと鳴らす。僕は電気コンロのスイッチを切り、換気扇の下でセブンスターを一本抜き出し、ジッポで火を付けた。僕はセブンスターを咥えた口から思い切り息を吸い込む。タバコの葉っぱを燃やして出た煙が、フィルターを通して僕の肺に侵入する。僕は咥えたセブンスターを、右手の人差し指と中指で掴んだまま口から引き離し、肺に侵入して来た煙を思い切り吐き出して、現れた白煙を眺める。白煙は換気扇に吸い込まれ、夜の街に彷徨い出る。少し冷めたケトルのお湯をゆっくりと三回に分け、豆の上から時計回りにかける。コーヒー豆のエキスがドリッパーの下に開いた小さな穴から、プラスチックのドリッパーの中に落ちてゆく。
 僕はそのコーヒーの雫が落ちる様子を見ながら、再びセブンスターを咥える。

 …ドクン!

 急に動悸が僕の全身を貫く。激しい頭痛とともに僕はキッチンの床に倒れこんだ。 

 目の前の景色が歪み始め、真夏の夜に隅田川の水面に映る何万の打ち上げられた花火のような画面が僕の角膜を覆い尽くした。

 五

 …ピピピピッピピピピッピピピピッ…

スマホにセットした目覚ましアプリが鳴り続けている。ワタシはスマホのホームボタンを押し、画面に現れたスヌーズの文字を選択して、掛け布団を頭から被った。
 「やっぱり夢か……」
黄緑色のカバーを被せた枕元に置いたスマホを布団の中から手探りで掴み取り、〝あと3分33秒〟と表示されたスヌーズを取り消してワタシは上半身を起こした。
 ベッドの隣にある勉強机、白い本棚に収められた漫画の単行本と雑誌、窓の桟に置かれたクマのぬいぐるみ…夢で見たシックでお洒落な部屋とかけ離れた現実に、ワタシは少しガッカリする。
 どこからが夢だったんだろう? 図書館に行ったのも、タケオに会ったのも、丘の上で黒猫と話したのも全部夢だったのかな……
 「それにしてもリアルな夢だったな」
ワタシはベッドから出て、勉強机の上に置かれた村上龍の『イビサ』を見た。夢じゃない。図書館からどう帰ったかは覚えてないけど、あの龍口研新の部屋が夢だったんだ。良かった、夢で。あんなの龍口研新なんかじゃないわ。少女の手足を縛るなんて、サイコ野郎の行動だもの。
 ワタシはパジャマを脱いで、手足に痕が残ってないかさすりながら確かめた。大丈夫、十代の張りと艶豊かなお肌に変わりはないわ。クローゼットからセーラー服を取り出して着替え、教材の詰まった学生鞄に『イビサ』を突っ込んだ。
 一階のリビングに降りると、キッチンでお母さんが朝食を作っていた。
 「おはよう」
 「あら…おはよう、今日は早いのね」
お母さんは、まな板の上のキャベツを刻む音を響かせながらチラリと後ろを振り返った。 「手元見ないと危ないよ」
ワタシはリビングのテレビを付けて、朝の情報番組にチャンネルを合わせた。番組のお天気お姉さんが、全国の今日の天気予報を知らせている。高気圧が列島を覆い、全国的に今日も快晴、暑くなるみたい。それから、今日の運勢一位は「獅子座」。恋愛運は最高で複数の異性から告白されるかも、と。…別に好きでもない人に告られても困るだけだし、複数と付き合うビッチでもないし、今のご時世、同性愛だって普通だし、何なの? この歪んだ価値観は。とても古い時代を生きてきた占い師なのね。そんな人が朝の地上波で堂々と占いできるなんて、やっぱり異常だわ。でも、まあ告られるなら、それなりにおめかしは必要ね。うちの学校は化粧禁止だけど、つけまくらいしていこうかな。ワタシもこの前、ナツキちゃんと一緒につけまエクステやっとくんだった。
 「ミカ、ご飯できたわよ」
 「あ、はーい」
ダイニングテーブルの上に並んだトーストと、スクランブルエッグ、ウィンナーソテーに付け合わせのキャベツ、コップに入ったオレンジジュースを前にワタシは「いただきます」と手を合わせた。

 湯芽町高校は、町の中心部にあって湯芽町中学校、湯芽町小学校と併設している。朝の通学路には色とりどりのランドセルと、マリンブルーを基調にした制服の生徒たちがひしめき、まるで熱帯魚が泳ぎ回る海中を歩いているような気分になる。ワタシはその合間を軽快に、縫うように自転車で走り抜ける。タケオとナツキちゃんが並んで歩いているのを見つけ、ワタシは自転車を降りた。
 「おはよー」
 「あ、ちょうど今お前の話をしてたんだ。噂をすれば、神だな」
 「影だろ。あんたワザと間違えてるでしょ」
 「ミカちゃん、おはよ。大丈夫? 昨日、図書館で倒れたって聞いたけど…」
 「…え? ウソ?」
 「何だよ? 覚えてないのかよ? 帰る間際に田中さんがオレを呼んでさ。お前が二階の床の上で寝てて、呼んでも、叩いてもビクともしないから田中さんとオレで家まで送ったんだぜ。おばさんから聞いてないのか?」
 「う…そんな話、一言も言ってなかった。お母さんらしいと言えば、らしいけど」
 「まあ、熟睡してただけだから病院には行かなかったけど。お菓子と紅茶を田中さんとご馳走になったんだ。お礼に」
 「ったく、お母さんったら! 一言いってくれたらいいのに。ワタシが恥ずかしいんだから」
 「寝る子は速達って言うし、いいじゃん」
 「育つ、な!」
 「ウフフ、あなたたちって夫婦漫才みたいね」
ナツキちゃんが冗談じゃない、冗談を言ったので、ワタシは振り返った。

 「どこが!」

タケオとハモるように返すと、ナツキちゃんは「ほらぁ(笑)」と大笑いした。

 授業中もワタシの頭からはずっとあの夢のことが離れなかった。縛られていた手足首は未だに疼くし、噛んだ龍口研新の掌の感触が、まだ歯茎の神経を刺激し続けている。目覚めて数時間経つというのに、こんな夢は初めてだわ……

 「…(ミカちゃん!)」

 ワタシは、隣から窓際にいるナツキちゃんが小声で呼びかけていることに気付いて、そちらに顔を向けた。ナツキちゃんは人探し指で教壇の方を指していた。
 あゝ、ヤバ。スクール物のアニメとかでよく見る展開だ。ぼーっとしてて、先生に指名されてるのに気付いてなくて、みんなに笑われて先生に怒られて廊下とかに立たされる例のヤツだわ。でも、今の時代、廊下に立たせるのも体罰に当たるはず。大したことないわ、きっと。

 ワタシは顔を真っ直ぐ教壇の方に向けた。理科を教える力久先生が、牛乳瓶の底のような黒縁眼鏡のレンズを通してワタシを見ていた。
 「森、アインシュタインは知っているか?」
 「え? あ、はい。ベロ出してる写真の人ですよね」
 「そう。彼は相対性理論を提唱した天才だ。しかし、その理論が実は間違いかもしれないという有力説が実証されつつある」

 オランダのアムステルダム大学のエリック・ヴァーリンデ教授が、アインシュタインの重力理解は完全に間違っている上、謎の暗黒物質ダークマターも存在しないとする「ヴァーリンデの重力仮説」を提唱した。オランダ・ライデン大学の研究チームが、同理論を実証実験でも裏付けたという。研究チームは、恒星や銀河などが発する光が、途中にある天体などの重力によって曲げられたり、その結果として複数の経路を通過する光が集まるために明るく見えたりする現象である「重力レンズ」を観察。そこで得られた三万個以上の銀河における重力の分布を、「アインシュタインの理論(ダークマターモデル)」と、「ヴァーリンデの重力仮説」から導き出した重力の分布予測と比較したところ、両者ともに観測結果と一致したそうだ。ダークマターモデルは、自由な変数を使っているのに対し、ヴァーリンデ仮説は使っていないという点を考慮すれば、ヴァーリンデ仮説の方が理論としては幾分か優秀だ。重力は宇宙の基礎的な力ではなく、〝創発的な現象〟であるという……
 「…でも、リサ・ランドールの『ダークマターと恐竜絶滅』は」
 「お? リサ・ランドール知ってるのか? 凄いな」
 「しかし、あれはダークマターの存在を前提とした理論だ。ヴァーリンデ仮説では、ダークマターは存在しない。まあ、こんな理論は大学でやることだな、すまん、すまん。俺が言いたいのは、真の天才は全ての事象を当たり前に受け入れない、ということだ。こんなことを教師の俺が言うのも何だが、教室を出たら、教わったことを疑う思考を働かして周りを見て欲しい。それは、テストの点数にはならないが、人生をより豊かにすることは間違いない」
 授業の終了を知らせるチャイムがなり、みんなが起立して礼をすると同時に教室は談笑の声に溢れた。ワタシは立ったまま、力久先生が話していたことを考え、昨日の夢を思い出していた。
 「力久先生、夢の中で意識が時空を超えることはありますか?」
 「ん? おう、早速俺の教えを実践しているのか、偉いな。そうだな…」
クリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』という映画がある。この作品では、宇宙の〝ワームホール〟を通じて何光年を移動する描写が出てくる、というかそういう話だ。この〝ワームホール〟はそもそもアインシュタインがその存在を主張したものなんだが。宇宙空間に莫大なエネルギーによって、一時的に現れたり、消えたりする、ある地点と、ほかの時空を超えた地点を結ぶトンネルができるというんだ。理論上、ここを通れば時間と空間を超えるタイムトラベルも可能という話だ。もちろん実証というか、〝ワームホール〟の存在自体、証明はされていない。それに今は、五次元環状ブラックホールのシュミレーションをスーパーコンピューターで実施したところ、相対性理論で「事象の地平面」に隠されるとされた〝裸の特異点〟がむき出しとなり四次元内に存在してしまうことになる、という結果が出た。つまり、相対性理論が破綻してしまう可能性が出てきたんだ。ただ、「量子重力理論」が完成すればその問題も解決されるとも言われている。

 しかし夢の話で言えば、カール・グスタフ・ユングは、人間の無意識の奧底には人類共通の素地である、「集合的無意識」が存在すると言っている。つまり、人類はみな無意識の奥底で繋がっているということだ。だから、同じ夢を地球の裏側で見ているなんていうことはあり得るし、予知夢なんてのも当然肯定されている。この「集合的無意識」については、ジークムント・フロイトと袂を別つ議論になったんだが……
 「まあ、こんな難しい話してもしょうがないな。どうだ? 質問の答えになったか? というか、まだこの辺はいくつも説があって統一された見解はないんだが」
 「フロイトって、龍口研新が言ってた!」
 「え?」
 「あ、いえ、何でもありません。ありがとうございました!」
ワタシは鞄に教材と『イビサ』を詰め込み、教室を駆け出した。

 六

 
 瞼を開けることができるのか、閉じた瞼をこじ開けるようと容赦なく降り注ぐ光のようなものを僕は瞼の下から感じながら、ゆっくりと瞼を開けた。あまりの眩しさに僕は反射的に右手を眉の上辺りに翳す。どうやらまだ生きているようだ。いや、ここは何処だ? 僕はキッチンで激しい動悸を感じて、倒れ込んで…死んだ? あの世だというのか? いやいや、でもあれは夢だったはず。あ、夢から醒めただけか。良かった。僕は翳していた右手を下げ、辺りを見回した。
 ジリジリと照りつける太陽は、南国を思わせる。その光を遮るものはない。明らかに屋外だ…目の前には、何やら図書館? と併設する美術館がある。全く見覚えのない景色だ。まだ夢の中にいるというのか? そして、何故か僕はスーツ姿で立っている。こんなに暑いのに。「クールビズ」という言葉が、もはや当たり前の時代に僕はどれだけアナーキーだというのだ。とにかく、暑い。建物の中に入ろう。
 僕は不思議と既視感を覚えた。何故だろう、見覚えがあるような気がしたのだ。
 「オックスフォード図書館……」
ロビーらしき場所を抜け、シンメトリーに並ぶ、いくつもの木製の本棚とその一つひとつに付属する机と椅子を目の当たりにして僕は呟いた。以前、図書館の設計を依頼された時に僕が最初に思いついたモデルは、オックスフォード図書館だった。

 「おや、龍口先生? どうされました? セレモニー会場は美術館の方ですよ」

僕はいきなり自分の名前を呼ばれ、身体を硬直させた。ゆっくり、声の主の方を振り返ると、白髪のロイド眼鏡を掛けた、いかにも執事風の老人がにこやかに僕を見ていた。僕は咄嗟に笑顔を返し「あの…」と続ける言葉を探していると、「あ、これは失礼」と老人はおもむろにスーツの内ポケットから名刺を取り出し、僕に差し出した。僕は無意識に自分のスーツの内ポケットを探った。そこには皮製の名刺入れが入っていた。名刺も入っている…僕は名刺を取り出した。

 龍口研新 Kenshin Tatsukutchi
  一級建築士

とシンプルすぎる肩書きが記載されている。僕はKTA(龍口研新建設事務所)主宰だし、多摩美術大学美術学部環境デザイン学科准教授の肩書きがあるはずだが…僕はとりあえず名刺を先に渡し、彼の差し出す名刺を「頂戴いたします」と言って受け取った。

 湯芽町図書館 司書
  田中 辰雄

と名刺には記載されていた。…湯芽町図書館! 何ということだ。夢は続いていた。
 「…田中さん、あの…セレモニーって?」
 「え? あ、失礼。いや、先生の建てられた、この湯芽町図書館と湯芽町現代美術館が開館して早五年が経ちます。その五周年記念セレモニーが、美術館の方で行われます。先生もご出席されると、聞いておりましたので」
なるほど。夢の中でも僕は肩書きはないが、名の通った建築家であることに変わりはないようだ…
 「ちょっとからかっただけですよ(笑)。トイレどこでしたっけ?」
 「あ、ロビーに出て右手です」
 「ありがとうございます」
僕は男子トイレの個室に駆け込み、スーツの上着を脱ぎ、ポケットを探った。何やら封筒が入っている。中を確かめると、三つ折りにされた用紙がある。広げると横書きの文字が印刷され、文末に僕の名前があった。どうやら、今日はスピーチまでやらされるらしい。
 「勘弁してくれよ…」
心の声が思わす漏れた。そして、夢の中の僕は何故こんなにやる気満々なのか。これがフロイトの言う所の自我なのか…とにかく夢から覚めれば済む話だ。僕は個室を出て、手洗い場の水で顔を勢い良く洗った。目の前の鏡に映る僕の顔を見る。…覚めない。夢というのは、幻想的で曖昧模糊としていて、歪んだ空間の隙間のような、ハッキリとしない、ゆらゆらとしたサイケデリックなものだと思っていた。だが、鏡に映る僕は確固たるその存在を象徴するように真っ直ぐ僕の目を見ている。僕は何だか、違う自分に支配されてしまうような気がして、鏡から目を逸らした。

 「ああ! 先生、探しましたよ。式典がもう始まってしまいます。さ、こちらへ」
トイレを出ると、スーツ姿の就活中の大学生のような男が現れて、有無を言わせず、僕を先導した。図書館とは打って変わり、美術館は近未来的なデザインだ。ローマにあるArt Museum Strongoliのような、『サンダーバード』の基地みたいな建物だ。現在はデイヴィッド・ホックニーの企画展を開催している…夢の中でもホックニーは人気なんだな。『A Bigger Splash』じゃないか! カルフォルニアの燦々としたプールサイドの飛び込み板の向こうに、誰かが飛び込んだ瞬間の白い水飛沫が上がっている。その奥にはモダンな邸宅と椰子の木を望む。すごいな、夢の中でもやはり素晴らしいな。
 「先生、こちらからお入り下さい」
パーテーションで仕切られた、会場の裏側にどうやら特設ステージが設けられているらしい。その隙間からパイプ椅子が見えた。ここまで来ると、もう逃げられないな。僕は諦めて、促がされるままにステージに向かった。
 会場では、すでに多くの人間がシャンパングラスを片手に談笑していた。僕は一番近くにあるパイプ椅子に腰掛けた。
 「先生、ご無沙汰しています」
隣りに腰掛けていた、ちょび髭に丸眼鏡でオールバックという、大正ロマンのドラマにでも出てきそうな小柄な男が話しかけてきた。
 「あ、どうも…」
僕は会ったこともない男に軽く会釈をして、早く夢が覚めることを願った。
 「早いものですね、もう五年も経つとは。先生のご活躍、いつも眩しく拝見しております」
 「いえ、そんなに立派なものではないですよ」
僕は早く会話を終わらせる為に謙遜した。誰なんだ、こいつは? 美術館の関係者なんだろうか、湯芽町の役職か…とにかく早く夢から覚めないと。

 「ア、テス、テス。えー、お集まりの皆さま、大変長らくお待たせしました。本日は『湯芽町現代美術館、並びに湯芽町図書館開館五周年記念式典』にお越し頂き、誠にありがとうございます。早速ではございますが、湯芽町現代美術館館長の松永士郎よりご挨拶させて頂きます」

司会の声が会場に響き、僕はひと安心した。と同時に隣りの大正ロマン男が、立ち上がりマイクに向かって行った。…美術館館長だったのか。
 「えー、ご来場の皆さま、本日はお忙しい中、ご来場頂き、誠にありがとうございます。只今、ご紹介に預かりました、湯芽町現代美術館館長、松永士郎であります。この美術館と湯芽町図書館が開館し、こうして盛大に五周年記念式典を開催できますのも、ここに集まって頂いた皆様の御尽力の賜物であります。改めまして、厚く御礼申し上げます。当館ではこの五年間で、のべ八十万人を超える来場者数を記録致しております。現在、ポップアートの巨匠デイヴィッド・ホックニーの企画展を開催中です。彼の代表作であります、『A Bigger Splash』も展示しております。是非、皆さまもお時間ございましたら、一度御覧になってみてはいかがでしょうか。そして、本日は開館時以来、五年ぶりにこの美術館と湯芽町図書館をご設計頂きました、建築家であります、龍口研新さまにお越し頂いております」
松永士郎がそう述べ、僕の方を振り返り、彼の拍手とともに会場にいた人々からも拍手が……。僕は今、この瞬間夢が覚める一縷の望みを捨てきれぬまま、ゆっくり立ち上がり、内ポケットの紙切れを取り出した。促されるままにマイクスタンドの前に立つ。
 「えー、只今ご紹介に預かりました、龍口です。えー、本日はお日柄も良く、この様に沢山の方々にお越し頂き、誠に光栄でございます。この施設がオープンして無事、こうして五周年を迎えられましたのも、偏に皆様と、美術館館長の松永氏、図書館館長の本間計氏はじめ、関係者みなさまのおかげでございます。改めて深く御礼申し上げます。この施設の設計のお話を頂いたときは、まだ駆け出しだった私に、出身地である湯芽町の方々が白羽の矢を立てて下さったことに大変驚きました。同時に建築家として、これ以上ない形で錦を飾れると興奮したことを今でも覚えております…」
 
 僕は自分でも不思議なくらい、スラスラと書いてある文言を読み終え、気付くと盛大な拍手と歓声の中にいた。まるで、夢の中の僕と同化してしまったような奇妙な、しかし心地の良い感覚だった。僕は一礼し、元のパイプ椅子に腰掛けた。隣の松永はにこやかに頷きながら、拍手を続けていた。

 七

 教室を駆け出したら、ワタシは自転車のサドルを跨ぎ、真っ直ぐに美術館に向かった。今日は、開館五周年記念セレモニーで龍口研新が来館すると街中の至る所にポスターが貼られまくっていた。あの変な夢の龍口研新じゃなくて、本物のクールでインテリジェンス溢れる龍口研新を、生で見れるなんてあと五年先までないだろうな。ワタシは一人ニヤニヤしながら、ペダルを漕ぐ足に力を込めた。腰を浮かせて、立ち漕ぎに移行した瞬間、道路脇に駐車していた軽トラックの下から黒い影が飛び出してきて、ワタシは息を呑み、ハンドルのブレーキを思いっきり握った。
 「どこ見てんだよ、ニヤニヤしやがって。危ねえだろ」
また、クロスケか…ヤな感じ。クロスケはわざとらしく長い尻尾を左右に振りながら、ゆっくりと道路を横切り、隣り合う民家の狭い合間に姿を消した。
 「ほんとに生意気な猫だわ」
ワタシはクロスケの消えた壁の合間を睨みながら呟いた。はっ、先を急がなければ。気を取り直しすために全力でチャットモンチーの「シャングリラ」を歌いながら、ペダルを漕いだ。
 自転車置き場は一杯で、ワタシは自転車置き場の外に自転車を立てかけてトイレに直行した。汗でベタついたシャツの胸元を掴んではたきながら、風を通す。タオルで汗を拭って、鞄から8×4の柑橘系を取り出し、首元と脇の下に噴射する。超気持ちいいー! 鏡の前でおでこに引っ付いた前髪を両手で整える。NIVEAのハニーリップを唇に塗って上唇を下唇に被せながら、潤いを行き渡らせた。それから、トイレを出て会場に向かった。ガヤガヤ賑やかな音の中にすでに沢山の大人がいて、全然前が見えない。ワタシはシャンパングラス片手に談笑する大人たちを掻き分けながら、前に進んだ。今スタンドマイクの前で話しているのは、本間図書館館長だ。その後ろにパイプ椅子が並んでいて、偉そうなおじさんやおばさんが座っている。龍口研新は…いた! 松永美術館館長の隣で何だか遠くを見ているような。ワタシは真っ直ぐに龍口研新の顔を見つめ続けた。キョロキョロしだした龍口研新は、一瞬ワタシの目線とぶつかり、眼を見開いて驚いた顔をしたように見えた。
 「森さん、いらしてたんですか」
突然、背後から声をかけられ、ワタシは振り返った。
 「田中さん」
 「ここに居ても面白くないでしょう? こちらにいらっしゃい。お菓子がたくさんありますから」
田中さん、ワタシ、そんなにお子さまじゃないんですけど…
 「シャンメリーもありますよ」
シャンメリー、大好き! ワタシは田中さんの後に続いた。田中さんはひしめく人の間を縫うようにスイスイと進んだ。ワタシは必死で田中さんの背中を見失わないように続いた。会場の脇に寄せられている長テーブルの上には白い布が被せられ、楕円形の大皿がいくつも載せられていて、その上にはポップな色のマカロンや見るからに濃厚そうなガトーショコラ、触れると弾けそうな大きいシュークリームなどが所狭しと盛り付けられていた。何、天国じゃない? ワタシがテーブルの上のお菓子に釘付けになっていると「はい、どうぞ」と、シャンメリーが注がれたシャンパングラスを横から田中さんが差し出してくれた。「ありがとうございます」とワタシはグラスを受け取り、グラスの淵に口をつけて傾ける。弾ける泡が喉の奥を刺激してほのかな甘みが口の中に広がる。ワタシはレモンイエローが鮮やかに映えるマカロンを手に取り、口に運んだ。サクッと一瞬の歯応えを残し、マカロンはシトロンの香りを広げ、溶ろけた。おいしー! ノワール、ショコラ、フランボワーズ…ワタシは止まらなくなって、全種類のマカロンにパクついた。幸せ過ぎる! 
 「お気に召しましたか? 慌てなくても、いくらでもありますからね」
田中さんが、にこやかにマカロンを貪るワタシに向かって話しかける。ワタシはキャラメル・サレのマカロンに伸ばした手を引っ込め、照れ笑いで返した。そして、シャンメリーを飲み干した。
 「あ、この前はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。ワタシ、全然覚えてなくて……」
 「ああ。すっかり元気そうで何よりです。タケオ君に慌てて知らせて…びっくりしましたよ」
 「何だか、不思議な夢を見たんです。龍口研新が…あ、龍口さんが、いや、気付いたら、龍口さんの家にいて…」
 「それは凄い夢ですね。ファンなんですか? 先程ご挨拶しましたよ。スピーチは今しがた終わってしまいましたが……」
 「えー! それを見に来たんです」
 「それは残念でしたね…良ければ、龍口さんをご紹介致しましょう」
 「本当ですか?」
 「ええ」
田中さんは、もう一杯シャンメリーのグラスを差し出しながら微笑んだ。
 「そう言えば、『イビサ』はお読みになりましたか?」
 「あ、すいません。まだ…何かバタバタしちゃってて」
 「いえいえ、読書はゆっくりと時間があるときにするのが一番ですから。貸出の延長もできますので、その時はお申しつけ下さい」
 「はい。ありがとうございます」
田中さんは、ワタシがシャンメリーを飲み終わるのを見届けると「行きましょうか」と声をかけ、再びステージの方に向かった。田中さんが人混みをかき分けるというよりも、まるで人々が田中さんに道を開けるように彼はとてもスムーズに進んだ。ワタシはピッタリと彼にひっついて離れないように、ぶつからないように神経を彼の背中に集中させた。ステージの裏側に回り、パーテーションの間から、田中さんがパイプ椅子に座っている龍口研新に話しかけるのをワタシは少し離れて見ていた。龍口研新は、田中さんの話を聞きながら、ワタシの方に目をやり、隣に座っていた松永美術館館長に一言、声をかけてから立ち上がりこちらに向かって来た。
 「こんにちは。何処かでお会いしたかな? 森さん…だっけ?」
 「いえ、夢の中…あ、夢で見るくらいファンなんです!」
 「…そう。ありがとう。田中さん、少し二人で話してもいいかな?」
隣でにこやかに、少女が憧れの人に熱を上げている様子を見守っていた田中さんは「もちろん。喜んで」と言い残し、人混みに消えた。
 田中さんの姿が見えなくなったのを確認すると、龍口研新はネクタイを右手の親指と人差し指、中指を使って緩めた。龍口研新は、まるで人が変わったような表情を見せた。まるで『西遊記』の緊箍児で三蔵法師にコントロールされている孫悟空のように、ネクタイで人格が矯正されているみたいだ。
 「森…実可だったよな? 説明してくれ。どうなっているんだ、一体?」
何でワタシの名前知ってるの?
 「え…? 夢じゃなかったの? あれ」
ワタシが見た夢が夢じゃなかった? いやいや、そんなことあるはずないわ。これも夢なわけ?
 「龍口さん、ワタシとお会いしたことないですよね?」
 「何言ってるんだ? いや、これも夢なのか? 何がどうなっているんだ…僕の部屋で目覚めた記憶はないのか?」
ああ、最悪…夢じゃないわ。
 「ちょっと待って。あなた、図書館なんて設計したことないって言ってたじゃん」
 「やっぱり! お前、大人にカマかけるなんてクソ生意気だな」
 「嫁入り前の女の子を〝お前〟呼ばわりしないでよ!」
ステージ上の来賓が、こちらの声に振り返るのを目の端で捉えた龍口研新は、「ちょっと…」とワタシの肩に手を掛け、会場の外に連れ出した。
 「離してよ!」
ワタシが龍口研新を睨むと、龍口研新は両手を挙げて一歩下がった。
 「…なあ、こんなことは信じたくないが、架空であるはずの街に、今僕はいて、設計した記憶のない建物の記念セレモニーに出席している。並行世界なんて安っぽいSFか、ゲームの話でしかないと思ってたけど、こうなったら、もうこの設定に付き合わざるを得ない。思い出してくれ、どうやってウチのベッドで目を覚ますことになったのか? …図書館でどうこうしたって、言ってなかったか?」
 「ワタシだって、あんたなんか…全部夢だって思いたいわよ。あの時は…図書館の二階で急に眩暈がして、気付いたらあんたがワタシを縛り上げてた」
 「二階だな。行くぞ」
龍口研新は、乱暴にワタシの左手首を掴み、図書館に向かった。

 八

 「ちょっとぉ、離してよ! ワタシを縛ったことをまず、謝罪しなさいよ」
まだグダグダ言い続ける森実可の手を引き、僕はこの世界の僕が設計したという図書館の二階に向かった。
 正直、彼女の顔を先程見た瞬間は何故かホッとした。もちろん驚きはしたが、この訳の分からない状況で他人とは言え、知った顔がいるというのは大きいことなのだ。しかし、これが夢じゃないどころか、昨晩のことも夢ではないとなると…うちのキッチンと、ベッドルームにこの世界と繋がる〝ワームホール〟のような時空の歪みがあるということか? 『ドラえもん』の野比のび太の部屋にある、机の引き出しのような。そんな空想を膨らませているうちに図書館に辿り着いた。
 まるで、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『バベルの図書館』を想起させる、巨大な円柱を取り囲む螺旋階段を昇り二階へ上がる。奥の方の巨大な本棚には、梯子が掛かっている。僕はこんな立派な図書館を設計した、この世界の僕を誇らしく思うと同時に、嫉妬のようなものを感じた。しかし、こんな予算が青天井みたいな設計をよく実現できたものだ。やはり、ファンタジーとしか思えない。
 「で? どこで気を失ったんだ?」
僕は引いていた手を離し、森実可に尋ねた。彼女は頬を膨らませ、そっぽを向いている。
 「…分かった。これで無事に戻れたら、何でも好きなもの食わせてやる」
 「…予算上限なし?」
女性が食べ物に関して目が無いのは、万国共通だ。いや、全時空共通と言っていいのか。
 「なし」
 「寿司と焼肉と天ぷらだからね!」
海外観光客みたいなセレクトだな…
 「三食奢るとは言ってない」
 「一食分に決まってるでしょ! 女の子をディナーに誘うなら、そのくらい覚悟しときなさいよ」
女性の胃袋侮るべからず…か。
 「…ああ、分かった。で、何処なんだ?」
 「あそこ、天文学の棚あたり」
森実可が指をさした方に僕は視線を送り、そちらに向かってゆっくりと歩いた。二メートルほどある木製の棚の縁に打ち込まれた青銅のような金属棒に、天文学・Astronomyという文字が書かれた、横長の木製プレートが吊り下げられている。棚には、科学雑誌『Newton』やスティーヴン・W.ホーキングの著書、アニメキャラクターが天体や星座を解説する児童向け本まで宇宙に関する様々な本が並んでいる。向かいの棚には科学・Scienceのプレートが下げられ、柳田理科雄の『空想科学読本』や人工知能に関する本が並んでいる。
 「何か読んでいた本のタイトルとか、著者の名前とか覚えてないか? 内容でもいい」
僕は、恐らく時空を越えた体験を本能的に覚えているのだろう、決して棚に近寄らないように務めている森実可の方に顔を向けて尋ねた。
 「ダークマター。リサ…何だったかな。ランドールだ! 恐竜絶滅とダークマターの話。でも、今日理科の先生に、ヴァーリンデって人がダークマターの存在自体、否定してるって聞いた」
 「お前、高校生だよな? どんな授業受けたら、そんな話を先生がするんだ? 今はそういう時代なのか(それともやはり夢の世界なのか)? …まあ、いい。リサ・ランドールだな…」
 僕はリサ・ランドールの書籍を探した。プリンストン大学物理学部、マサチューセッツ工科大学およびハーバード大学で理論物理学者として終身在職権を持つ初の女性教授で、タイム誌の「もっとも影響力のある100人」にも選ばれた才女だ。理論はもちろん、その美しい容姿とロッククライミングやスキーが趣味という、爽やか過ぎる人柄で人気だ。彼女が脚本を手がけたオペラ『Hypermusic Prologue』がパリのポンピドゥーセンターで公演されるなど恐ろしい程のリア充ぶり…言わば、リケジョの星だ。鮮やかなチェリーピンクの装丁の『ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く』の隣に、エバーグリーンのカバーで覆われた『ダークマターと恐竜絶滅』が収められていた。
 「あった」
まだ棚に近づこうとしない、森実可を尻目に僕は棚から本を抜き出した。帯には豊かなブロンドの長髪を持った整った顔立ちのリサ・ランドールが知的な笑みを浮かべている。まるで欲しいものは全て持ち合わせているような、満ち足りた表情に見える。僕は再度、森実可の方に顔を向けた。
 「おい、開くぞ。どのページだったか、覚えているか?」
 「覚えてない。パラパラ捲っただけだから…『二重円盤モデル』がどうとか…だったかな?」
 「できるだけ、忠実に再現した方がいいな。何がワープの引き金だったのか、分からないから」
僕は、本をパラパラ捲った。うむ、これは何も頭に入ってこない…僕は真剣な表情で先ほど「ワープ」なんて言葉を発した自分を思い出し、急におかしくなって笑ってしまった。『ダークマターと恐竜絶滅』を元の場所に戻し、再び本棚を眺めた。アルベルト・アインシュタイン、アイザック・ニュートン、ガリレオ・ガリレイ、ヨハネス・ケプラー…太陽中心説を唱えたニコラウス・コペルニクスの名前からイマヌエル・カントが「コペルニクス的展開」と自説を呼称し、以後、何かこれまでの常識を覆すような事例にたいして「コペルニクス的展開」という言葉が用いられるようになった。今、僕が本気で「ワープ」なんて信じてることは本当に「コペルニクス的展開」だ。やはりただの夢なのか?
 「何が可笑しいの?」
森実可が何も起こらないと分かり、僕の背後から本棚を眺めながら尋ねた。「何が可笑しいの?」…僕が大嫌いな質問だ。いや、正確には「何で笑うの?」だ。そんなの可笑しいからに決まっている。笑いの意味を論拠立てて説明するなんて、この世界において一番無駄で意味のないことだと何故わからないのか。強いて言えば、「コペルニクス的展開」を迎えた、自分自身が笑えるという状況ということだ。そんなことを言葉で説明しなければならない相手とのカンバゼーションが一体何を生み出すというのか。
 「一つアドバイスしておこう。そんな質問は二度とするな、男にモテないぞ」
 「はぁ? 人生でモテるってことがそんなに大事なの? しかもLGBTが一般的に認知されるこの時代に異性にだけモテたってしょうがないでしょ。そんなの古い考えよ。大体、独身のあんたに言われたって何の説得力もないわ。セクハラだし」
 「そういう態度もいけないな。男には多少なりともプライドというものがあるんだ。実にくだらないものだが、そういうものなんだ。そういうことを思慮できる女性は愛されるんだよ。理想と現実は違うんだ。大人になればわかるが、そのときは手遅れだ」
 「時代は変わるの。早くその認識を変えないと、一人寂しく死んでいくわよ」
生意気な高校生だ。高校生なんていつの時代も生意気なものだろうが、ここまでとは。「最近の若者は」という台詞がいつの時代も絶えないのも頷ける。
 「うるさいな。余計なお世話だ」
 「そのままあんたに返すわ、その言葉」
ダメだ、高校生にムキになってはいけない。僕はとてもタバコを吸いたい気分になった。スーツのポケットを全て確かめてみたが、セッタは入ってない。僕は中村一義の「セブンスター」を頭の中のプレイリストで再生した。「糞にクソ塗るような、笑い飛ばせないことばっかな」という歌い出しが何度もリフレインする。 
 「あ、そう言えばワタシとあんたの夢の話なんだけど……」
 「…ん? ああ。何か他に思い当たることでもあるのか?」
 「思い当たるというか、先生に聞いた話なんだけど、ユングって人が言う『集合的無意識』ってやつで、夢は根底で繋がっているんじゃないかって説。あんた、前フロイトがどうって言ってたでしょ? ユングとフロイトは何か友達? 分かんないけど……」
 「ユングか。フロイトと親交はあったが、その『集合的無意識』の見解の不一致で決別したんだ。フロイトはそれを〝掃き溜め場〟のように捉えたが、ユングは〝神聖なもの〟として考えていた」
 「ふーん。ユングが言ってるみたいに、ワタシたちの夢もその『集合的無意識』で繋がってしまったんじゃないの?」
 「ふふふふ」
 「何が可笑しいの?」
 「ユングはお前の大嫌いな不倫をずっと続けていた人物だ。幼少期に父親から暴力を受け、精神異常を来した患者のザビーナ・シュピールラインという女性とSMのようなことまでしていた。そのほかにも愛人がいたようだしな。彼の理論をお前から聞くなんて、皮肉だと思ったんだ」
 「才能がある人物は大概ゲス野郎みたいね、やっぱり」
 「しかし、仮にそうだとしたらやはりこれは夢だということになる。まぁ、現実であるというよりマシだが……」
あれ? 視界が斜めに傾いたような気がした。地震か?
 「おい! これは……」

 …ドクン!

間違いない。あの時の感覚だ。目の前が霞みはじめ、僕は膝から崩れ落ちた。視界の隅で森実可も倒れこんでいるのが見えた。

 二人が突然倒れた。しかし、今の会話は何だ? ワープだの、夢がつながるだの…
 「おい、しっかりしなさい!」
私は二人の肩を交互に揺さぶり、息があるか確かめた…どうやら眠っているみたいだ。しかし、一向に目覚める気配がない。どうなってるんだ?

 ん? 急に目が霞んできた……

 九

 あ、またあの時と同じ感覚……

ワタシは何か話し続けている龍口研新に知らせようと、顔を上げた。すると、その背後に誰か立っているのが見えた。錯覚? 声を上げようとした瞬間、目の前が揺らめきワタシは立っていられなくなってしまった。

 歪んで、まどろんで伸びて縮んで膨らんで萎んで弾けて飛んで…体中の細胞がそんな変幻自在の物体に変化してしまったような感覚の中、ファレル・ウィリアムスの「HAPPY」が脳内再生される。ワタシは恍惚とした気持ちで目が覚めた。

 バッシャアーン!

 ワタシの顔に思いっきり水しぶきがひっかかった…な、何なの? 太陽の光を受けて白く輝く水しぶき、その手前で誰かの体重の反動で揺れ続ける踏み込み板、収まる水しぶきの向こうに広がる青い空とヤシの木…『A Bigger Splash』をそのまま切り取ったような光景が目の前に広がっていた。
 「また夢…なの?」
ワタシはおでこに引っ付いた前髪を左手で掻き分け、手のひらで顔にかかった水を払いのけた。改めて周りを見回す。オレンジがかったライトブラウンのウレタン樹脂系の床の上に、真っ白なプラスチックのプールサイドチェアが所々に並んでいる。その上には筋肉ムキムキの白人男性や、〝ボン・キュッ・ボン〟のラテン系女性が水着姿にサングラスをかけて寝そべっている。サイドテーブルには、トロピカルで色鮮やかなカクテルらしきものが置かれている。目の前に広がるプールから先程飛び込んだと思われる、華奢なマッチ棒のような体つきの白人男性が、反対側の白いプール槽の淵に立った瞬間、同じような体つきの白人男性たちに突き飛ばされて再びプールの中に水しぶきを立てた。はしゃぐ彼らの背後には白いマンションのような建物がそびえている。龍口研新の姿はどこにも見当たらない。ワタシは自分がレモンイエローのオフショルの水着姿であることに気づいた。
 「何これ? 超カワイイじゃん」
とは言ったものの、周りのグラマラスな女子たちの身体を見ているうちに全く成熟していないワタシの身体がとても恥ずかしく思えて居心地が悪くなった。
 〝Hey! Mika,what's up?〟
サラサラのブラウンの長髪をなびかせ、シャネルの白いサングラスをかけた女子がワタシの肩を両手で掴んで、何やら英語で話しかけている。え? 何? つーか、誰? 返事に窮していると、彼女は「ドシタ?」と日本語を話した。
 「日本語話せるの?」
 「チョットダケ…you know that lol」
彼女はシャネルのサングラスを額の上にあげ、そのプールに張られた水のように透き通る青い瞳でワタシに笑いかけた。…カ、カワイイ。天使!
 「Are you getting high? ミカ、ラリッテンジャナイカ、アハハ」
彼女はその天使のようなピュアな瞳とは対照的に、妖艶な分厚いアンジェリーナ・ジョリーのような唇から真っ白な歯を覗かせた。ヤヴァい、胸の奥がむず痒い、変な気持ちがする。
 「ノボセテルンダナ? Shall we back to our room?」
シャネルグラサンの天使は、ワタシの手を引いてプールサイドをつかつかと歩き始めた。その凛と、ハッキリとした足取りにワタシは為す術もなく、されるがままに彼女の後に付いて歩いた。すれ違うあらゆる男性も女性もワタシたち(というか、シャネルグラサンの天使)を振り返り見つめていた。プールに飛び込んでいた男たちが口笛を吹き、何やら英語で声を掛けても、彼女は振り返りもせず突き進んだ。まるで誰かのミュージックビデオや何かのCMみたいに。ワタシはとても恥ずかしいと思うと同時に、こんなに注目を浴びることを少し誇らしく感じた。
 
 ホテルだろうか、白い建物の中は赤レンガのような色合いのタイル調の床で、所々に白いプラスティックの鉢に植えられた観葉植物が置かれていた。ロビーらしき場所には籐の椅子に腰かけているサンタクロースのような立派な髭を蓄えた老人や、チェックインかチェックアウトしているのだろう、ピンクのトランクに腰かけたふくよかな女性がいて、その女性の後ろには、女性と同じような体系の白いキャップ帽を被った口髭を蓄えた男性がロビーのホテルマンらしき男性と話し込んでいる。シャネルグラサンの天使はロビーでも速度を落とさず、真っ直ぐ突き進んでエレベーターのボタンを押した。すぐにエレベーターのドアが開き、乗り込んで八階のボタンを押した。ドアが閉まってエレベーターが動き出すと、シャネルグラサンの天使は私の手を放し、振り返った。
 「ダイジョブカ? Are you alright?」
 「うん」
ワタシは頷いた。彼女はワタシの頭に右手を乗せ、ポンポンと軽く叩いた。八階に着き、エレベーターのドアが開くと彼女は再び私の手を取り、八〇八号室の前までワタシを導いた。彼女はドアノブに手をかけ扉を押し開けた。鍵かかってないの? ワタシは多少驚いたが、彼女に続いて部屋に入った。
 〝Hey,man! We're back.Give me some weet,roll it〟
彼女が突然誰かに話しかけたので、ワタシはびっくりした。そこにはベッドに寝転がる男がいた。
 〝Don't order me.I'm fucking sleeping! Roll it yourself〟
 〝Ah,ha.Fuck yourself〟
男は振り向きもせずに、寝たままの姿勢で右手の中指を立てこちら側に向けていた。ワタシは英語のやり取りに全くついていけず、立ち尽くしていたが、彼女が振り返り「スワッテ。Take your seat」と声を掛けてくれたので、ベッドの手前にある木製のテーブルセットの椅子に腰かけた。
 改めて部屋を見回す。二台のダブルベッドと、ワタシが腰かけているテーブルセット、その対極にバスルームらしき部屋の扉がある。さらに、テーブルセットの後ろには白い窓枠の大きな窓があり、ベランダもついている。そこには白いプラスチック製の丸テーブルと二脚の椅子が並んでいた。シャネルグラサンの天使がテーブルの上に直径五センチくらいの透明のプラスチック製の丸い容器と、小さなジッパー付きの袋に入った緑色の蕾のような植物、銀色の細長い厚紙のようなもの(その端は長方形に千切られている)、さらに黄色い百円ライター、そしてモスグリーン色の袋に入った煙草の葉っぱをテーブルの上に置いて、ワタシの前の椅子に座った。ワタシは何だろうと不思議に思い、彼女の顔を見ると彼女は〝シシシ〟とイタズラっぽく笑った。小悪魔! 天使で時に小悪魔だわ! この世界で一番モテるタイプの…男子受けこの上ない、女子力戦闘値五〇万超えのラスボス並みの最強女子だわ! ワタシはぎこちない笑みを返してドキドキする気持ちを抑えようと努力した。彼女は銀色の細長い厚紙を開き、中から透けた薄い紙をスッと取り出した。それをテーブルの上に広げ、その上にモスグリーン色の袋から摘まんで取り出した煙草の葉っぱを均等に乗せていく。ジッパーの袋から植物を千切って取り出し、丸い容器の蓋を開けて中に入れた。容器の中には大根おろしのようなギザギザの凹凸が付いている。蓋を閉めて、手のひらを揉むようにして蓋を左右に動かし、中の植物をすり潰すように細かく砕いている。
 「What's wrong? ナンカカオニツイテルカ?」
天使で時に小悪魔は手のひらを絶えず動かしながらワタシに尋ねた。
 「…いや何も。そう言えば、名前。ワ、ワットイズユアネイム?」
 「What?! Are you kidding me? Angelina.アンジー。カラカッテルノカ?」
少し怒気を含んだ返しがタマラナイ。ああ、ワタシやっぱりMなのね…アンジェリーナ・ジョリーと言われても驚かないわ。少し幼いとは言え、そのくらいの美貌を彼女は備えていた。
 「あ、そうだった。ゴメンなさい。アンジー」
 「イイッテコトヨ」
彼女は再び天使の微笑みを浮かべながら、細かく砕いた植物を煙草の葉っぱの上に均等にまぶしていった。そして銀色の厚紙を少し千切り、くるくると丸めて小さな筒を作った。それを薄紙の端に乗せて器用に丸めて長い丸棒にして半分以上余った薄紙を、長く綺麗なピンク色の舌を這わせて丁寧に舐めた。ワタシはその余りにも猥褻な想像を掻き立てる仕草に驚き、興奮して自分でも顔が紅潮するのが分かった。アンジーは動揺するワタシをよそにもう一度同じように逆側から丁寧に舐めて、学校の体育用具で見る紅白の旗のようなその棒状のものの余った薄紙に黄色いライターで火を付けた。パッと小さな炎が上がりチリチリと薄紙は燃えて細長い煙草のようなものが彼女の左手に残った。彼女はその先端を捩じり、食べ終わった後のボンボンアイスのようなその先端に再び火を付けた。どうやら煙草みたいだ。アンジーは銀の厚紙で作った筒の方を咥え、大きく息を吸った。先端の火が暗闇で目を光らせる悪魔のようにチカチカと光り、その妖艶な魅力を振りまく。彼女は悪魔に魅入られたように恍惚な表情を浮かべ、深く吸った煙をまだ完全に熟しないながらも見るものを引き付けて離さない、もぎたての果実のようにみずみずしく美しい曲線で形どられたその胸の中にため込み、再びゆっくりとあまい吐息として吐き出す。ワタシが知っている煙草の匂いとは全然違うその香りに、ワタシは思わず生唾を飲んだ。彼女はもう一服すると、その煙草のようなものをワタシに差し出した。ワタシは恐る恐る手を伸ばし、それを受け取った。見様見真似で彼女が口づけたその箇所をゆっくりと上唇から包み込むように咥えて、深く息を吸った。でも、苦しくなってすぐに煙を吐き出してしまった。
 「アハハ。Noway.Breathe in more deeply.フカクスッテ」
ワタシはもう一度それを咥え、目を閉じて深く息を吸った。頭の中にもやがかかったようにぼんやりとしてくる。ワタシはアンジーとは対照的に小ぶりで訳あり品として叩き売られてしまう小さな果実のような、胸の奥の肺にたっぷりとその煙を吸い込み、一度息を止めて、ゆっくりと吐き出した。ワタシの胸じゃ不満とでも言いたげな、歪な形をした灰色の煙が、アンジーの完璧な形をした胸に向かって漂ってその胸の中に飛び込むように消えていった。

 十

 目が覚めると、見覚えのある白い天井が見えた。僕はグレイの掛布団と黒いシーツに覆われた敷布団の間に横たわっていた。僕の家のベッドルームだろう…少なくとも図書館なんかではない。上半身を起こして、辺りを見回す。森実可はいない。やっぱり夢だったんだ。何だか少し寂しいと思っている自分が嫌になる。とにかく、やっと変な夢から解放されたんだ。喜ばしいことじゃないか。僕は両手を重ね、大きく伸びをしてベッドから起き上がった。僕はスーツではなく、普段から寝間着として使っているスウェット地の上下を着ていた。隣の部屋に移り、レコード収納棚の「クラシック・ロック」が収められている場所からThe Doorsの『Strange Days』のLPを取り出し、プレーヤーの上に置いて針を落とす。何故か邦題では『まぼろしの世界』が冠されている。「まぼろしの世界」は、このアルバムの七曲目に収められている「People are Strange」の邦題だ。まあ、彼らのデビュー作であるセルフタイトル『The Doors』も邦題では収録曲の「Light My Fire」、『ハートに火をつけて』になっているし、当時はそういうレコード会社の意向があったのかもしれない。何と言ってもこのアルバムのジャケットが「People are Strange」というタイトルを表すような曲芸師の一団が街中を練り歩く写真なので、そういうタイトルにしたのかもしれない。エッグチェアーに腰掛けながら、暫くそのジャケットを眺める。スキンヘッドの口髭を生やしたレスラーのような男が両手を掲げ、その前ではグレイのセットアップにハットを被った小人のような子供が笑顔で踊っている。その後ろではカオナシのような、『スクリーム』の映画に出てくるような面を被った全身黒ずくめの男が赤いボールでジャグリングをしている。さらに、その後ろには男がもう一人の男を両手で掲げていて、掲げられた男は両手を広げて空を飛んでいるような仕草を見せ、その後方でスーツ姿で帽子を被った男がトランペットを吹いている。何だか、とても異様だ。「異様」という言葉を具体的に表現したような写真だ。こういうものを恐らくアートと呼ぶのだろう。この集団は実在せず、ジャグリングしているのはカメラマンのアシスタントで、トランペットの男はタクシーの運転手を5ドルで雇ったそうだ。その実情からは、想像できないこの異様さは奇跡と言っていい。全てが異様だ。レイ・マンザレクの奏でる怪しげなオルガンの音色と、ジム・モリスンの脳内に直接響いてくるような、高音とか低音とかで形容できない〝ジム・モリソンたる歌声〟が僕にそんなことを止めどなく考えさせる。
 「ドアーズですか。懐かしいですね」
まどろみかけていた僕は、エッグチェアーから跳ね上がった。だ、誰だ? 振り返ると、湯気が立っているコーヒーカップを両手に持った田中さんがドア越しに立っていた。
 「た、田中…さん?」
何ということだ。「ストレンジ・デイズ」を聴いているうちにまどろんで、幻でも見ているのだろうか。まだ夢が続いているというのか。驚きを隠せない僕をよそに田中さんらしき男は、持っていたコーヒーカップの一つをエッグチェアーの前にあるコーヒーテーブルの上にそっと置いた。
 「すみません。あなたの家とは知らず、勝手にキッチンを使わせて頂きました。いい豆をお持ちで」
 「えっと…あの、その……」
 「あ、私もどう言っていいのか…図書館で森さんとあなたが話しているところを見かけて、突然お二人が倒れるように眠り込んで、急いで私がお二人を起こそうと試みていたら、私まで眠気に襲われまして…気づいたらこちらのキッチンで目覚めた次第です」
 「そうでしたか…僕も上手く状況を呑み込めないのですが、どうやら…」
 「実は、お二人がお話していたことも少し聞いてしまいまして。夢の世界とか、ワープとか」
 「ああ…そうだ。田中さん、僕がお渡しした名刺、持っていますか?」
 「え? ああ、はい。確か…ここに」
田中さんはスーツの内ポケットに右手を入れ、名刺を取り出した。
 「おや?」
 「どうしました?」
 「いえ…何か肩書の方が変わっているような……」

 龍口研新 Kenshin Tatsukutchi

 KTA主宰

 一級建築士

 多摩美術大学美術学部環境デザイン学科准教授

 田中さんから差し出された名刺はこの現実世界? で僕が使っている名刺だった。僕は部屋にあるクローゼットから夏物の黒いスーツを取り出し、ポケットを探ってみた。右ポケットに中に一枚の名刺のような手触りを感じ、僕はその名刺のようなものを取り出した。

 湯芽町図書館 司書
  田中 辰雄

夢ではない。いやこの世界がまだ夢と繋がっているのか? 全てがリアルな夢なのか? ということは、森実可はここではない何処かに飛ばされたというのか……
 
You're lost,little girl
You'lost

ドアーズのレコードは2曲目の「迷子の少女」を奏でていた。

 「ドアーズというバンド名が、まずいいですよね。確か彼らはウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』という詩の一節から取ったんですよね」

If the doors of perception were cleansed,
everything would appear to man as it truly is,
infinite.

もし知覚の扉が浄化されるならば、
万物は人間にとってありのままに現れ、
無限となる。

田中さんはそらで詩の一節を読み上げた。
 「へぇ。やはり司書さんは何でもお詳しいのですね」
 「いえいえ、ただ古い音楽が好きなだけです。大抵は何の役にも立たない事柄ばかりですよ…あ、コーヒーが冷めてしまうのでどうぞ。と言っても、あなたの家のものですが(笑)」
 「あ、いただきます」
僕はコーヒーテーブルからカップを持ち上げ、コーヒーを啜った。…美味い。同じ豆のはずなのに何だ、このコクは。
 「美味しいです。どうやって淹れたんですか? 何だか味が全然違う気がする。あ、どうぞ座って下さい」
僕はコーヒーテーブルの奥にある、カリモクの革製ソファーを田中さんに勧めた。
 「すみません。ありがとうございます。喫茶店のオーナーからコーヒーの淹れ方を教わったんですよ。お気に召されたなら光栄です」
 「そうでしたか…道理で。しかし、森実可はこの家にはいないみたいですね?」
 「そうだ。色々なことが急に起こり過ぎて、すっかり忘れていました。何だか、龍口先生と森さんは以前からお知り合いだったように見受けられたのですが…それはこの事と関係しているのでしょうか?」
 「そうですね……あの場に居たのならば、全て今まで起きたことをお話ししなければなりませんね」

僕は、これまで僕と森実可に起こった出来事を推察を交えながら語った。

 「…なるほど。と言っても、俄かには信じられないことですね。ということは、湯芽町は夢か仮想世界の場所だということですか? 私や森さん、あの町の人間は誰も存在しないアバターのようなものであると?」
 「はい。しかし、あなた方の知る僕がいるように、あなたたちの現実世界の人間がこちらの世界に存在している、と考えた方が自然です」
 「アバターたちのバーチャルリアリティーみたいなものが、独立した意識のようなものを持っている…という感じでしょうか?」
 「ただ、厄介なことは現実世界の意識がその仮想現実のような、夢のような世界にも入り込んでいるということです。僕は湯芽町図書館も美術館も設計した覚えはない。でも、スピーチの文言は紙に書き出していたし、森実可に会ったときに彼女の存在ははっきりと覚えていたし、彼女も僕とこの世界で会ったことを認識していた。そしてあなたと名刺交換もしている」
僕は田中さんの名刺をコーヒーテーブルの上に差し出した。田中さんはその名刺を手に取り、繁々と見つめた。
 「大体のことは分かりました。しかし、そうなると森さんの行方が気になりますね」
 「図書館で僕たちは、ワープするきっかけを検証した結果、ここに僕と田中さんが辿り着いたんです。もしかしたら、キッチンで僕が再びワープした直前の仕草を繰り返せば、あるいは……」
 「それは、どういう?」
 「ちょうど良かった。田中さん、美味しいコーヒーの淹れ方教えてください。あと煙草はお吸いになりますか?」

 十一

 「オイ! Hey,wake up! Let's night out.デカケルヨー」
おでこに柔らかな感触と、頬っぺたにひんやりとしたシルクような滑らかな何かが押し当てられた感覚を覚えて、ワタシはとてもいい気分で片目の瞼をゆっくりと少しだけ開いた。完璧なシンメトリーを見せた、二つの今にもこぼれ落ちそうな熟れた果実のように柔らかさを物語るアンジーの胸が視界に入ってきた。アンジーはワタシのおでこにキスをしながら、ほっぺたに両手を当てていた。心臓が飛び出しそうなくらい速い伸縮を繰り返す音が自分の耳にも入ってきた。
 「お、起きてるよ……」
ワタシが起き上がろうと左ひざを立てると、アンジーの全く贅肉のない完璧なくびれの部分に当たり、アンジーは〝Ouch!〟と少し大げさにリアクションしてワタシの身体の上に倒れこんだ。彼女の弾力のある乳房の上で隆起した乳首の感触がワタシの鎖骨辺りから感じられ、ワタシは「…アっ」と今まで発したこともないようなトーンの声を漏らした。アンジーはワタシの両手首をその華奢な身体つきからは想像できないような強い力で抑え、右膝をワタシの太ももの間に立てて、股を開かせた。アンジーは上半身を起こし、手首から手を外して垂れ下がった長いブラウンの前髪を左手で耳の後ろに掛けて、悪戯な笑みを浮かべた。そして、十本の細長い指を使ってワタシの脇腹をくすぐった。
 「あはははは! ちょ、ちょっと止めてよ」
ワタシはアンジーのくびれを掴み、彼女を横にどかそうと試みた。アンジーはベッドの上に立ち上がり、ワタシも彼女の前に立った。彼女は素早くワタシの後ろに回り込み、羽交い絞めにして首元にフレンチキスの嵐を浴びせた。
 〝Hey! What are you doing? It's time to go!〟
突然の男の怒号にワタシは身体をビクつかせた。アンジーはワタシから手を放し、〝I'm coming〟と言って再び私の頭頂部にキスをした。ワタシが振り返ると二人はすでに部屋を出ていた。ワタシも駆け足で彼らの後を追った。

 ホテルを出ると、眩しい太陽はどこかに姿を消し、外は染めたての藍物のような色をした空に金箔を塗したように輝く星が散らばり、太陽がいなくなるのを待っていたように煌々と大きな満月が我が物顔で鎮座していた。アンジーの前を歩く男は、手足が短くてずんぐりむっくりとした体形であるのにも関わらず、異様なほど速いスピードで前に突き進んでいた。ワタシはそのフンコロガシのような男に既視感を感じた。ワタシ、この男を何処かで見たことがある…記憶の淵を探っていると、「ミカ、ドシタ? マリワナキキスギタカ?」とアンジーがワタシに歩調を合わせて顔を覗く。マリファナ? 何? 煙草じゃなかったわけ? ワタシは男から視線を外し、アンジーの顔を見た。彼女はキラースマイルでワタシの疑念や不安を全て吹き飛ばした。好きだーーーーーー!

 フンコロガシの男はワタシたちの存在がまるでないかのように突き進んで、もはやフンコロガシではなく蟻のように小さく見える程に遠ざかっていた。ワタシの手を引いて小走りするアンジーの背中に向かって「どこに向かってるの?」と尋ねた。「パチャ」とアンジーは振り向かずに答えた。「…パチャ」ワタシはその言葉を口に出して繰り返した。フンコロガシの男は、すでにタクシーの助手席に乗り込んでワタシたちを待たせていた。ワタシは何とか男の顔を覗こうとしたが、男はクラッシャー型の帽子を被っていて、俯いたままスマホを弄っていたので、その顔を見ることはできなかった。アンジーがワタシの手を引っ張り、後部座席に乗り込むと、男が「パチャ」と言い、アフロ頭のタクシー運転手が「パチャ」と繰り返し、タクシーを発進させた。

 大きなヤシの木の間に大きく「PACHA」という文字が掲げられたゲートがあり、その手前にホテルのプールに居たような連中が長い列を成していた。フンコロガシの男が列を飛ばして、フンコロガシの男の三倍はある屈強な白人男性と何やら話し込んでる。ワタシとアンジーは少し離れた場所からその様子を見ていた。フンコロガシの男の話を聞きながら、屈強な白人男性はチラチラとこちらを見ている。屈強な白人男性が頷きながら、フンコロガシの男の肩を叩くと、フンコロガシの男は振り向き、ワタシたちに向かって手招きした。その指は、まるで皮を被った東欧のソーセージの様な血色の悪いものだった…ワタシはその指を見た瞬間、フンコロガシの男がワタシがバイトしていた土方さんの喫茶店に訪れるあの男だと分かった。黒いニット帽も紺色のピーコートも着用していないが、ストーンウォッシュのジーンズは履いていたし、何よりあの指の血色の悪さは見間違いようがない。あいつが口を開かなかったのは外人だったからかぁ。てか、何でこんなところに? 何者なわけ? ワタシの混乱をよそにアンジーはワタシの手を引き、東欧ソーセージの男の元に駆け寄った。

 「ごちゃごちゃ考えても仕様がないさ。迷わず行けよ、行けば分かるさ」

 突然、背後から声を掛けられてワタシは後ろを振り返った。赤いスカーフを巻いた、クロスケが右前足を舐めながらワタシたちを見送っている。アンタ…猪木の猫だったのね! アンジーとワタシは東欧ソーセージの男の後に続き、下腹部に響き渡るビートが鳴り響くその建物の中へと入った。

 低音と共に奇妙な電子音、そして時おりサックスの音が鳴り響く空間は、もうこれが夢だとかそういうこと以前に別世界だった。照明も暗くて、ひしめく人々がまるで本当にワタシが知らない世界の生き物のようにクネクネと動いている。何なんですか、これは? 戸惑うワタシの手をしっかりと握ったアンジーの手の感触だけが、ワタシにとって確かなものだった。彼女はこんなに暗くてうるさくて混沌とした世界でも、確かな意志を持った勇者のようにぐんぐんと人混みの中を進んで行く。でも、その先には東欧ソーセージの男がいる…ワタシは微かな不安を抱えながらアンジーの手をしっかり握り返してついて行った。ひしめく人々はよく見ると、その多くが今朝プールサイドで見たような人たちだった。耳元で大声を出しながら話したり、向かい合って踊ったり、こっちが恥ずかしくなるくらいに身体を絡めて口づけしていたり、こんなに暗い中で何故かサングラスをかけたまま一心不乱に踊り続けていたり……。
 大きなステージが前方に見えて、その上で真っ赤なランジェリー姿の女性たちが踊っていた。何て破廉恥な! でも、それよりもワタシの視線を釘付けにしたのは、そのステージ上に設けられた高台に鎮座している菩薩のような慈悲に満ち溢れた表情を浮かべたアジア系の女性だった。彼女には四肢が無かった。
 「ねぇ、あの人は……?」
 ワタシは前を行くアンジーに尋ねてみたが、大きな音でワタシの声はかき消されてしまったようで、彼女は気づかずにどんどん前に進んで行く。ワタシは彼女の耳元に顔を近づけて大きな声でもう一度尋ねた。アンジーは歩く速度を緩めず、「MACHIKO、マチコ!」
と叫び返した。
 マチコ…ワタシはその名前をどこかで聞いた覚えがあった。いつだろう? おぼろげな記憶を辿りながら、ワタシはマチコと呼ばれる彼女の顔を眺めた。ふと、彼女がこちらに目をやりワタシたちの目線がぶつかった。彼女はニッコリと笑った。そして、唇を動かしてワタシに何かを語りかけているように見えた。ワタシは必死にその言葉を読み取ろうとしたがアンジーがワタシの手を強く引き、彼女はワタシの視界から消えてしまった。

 十二

 湯芽町を一望できる丘に、小さなデッキハウスが建っている。レストラン、いや、喫茶店か? 
 「ここは…土方さんの喫茶店だな。と言っても、実存してないってことになるのかな? どうなんだろう?」
空間移動を実体験した、田中さんがそれとなく僕に尋ねる。何もかもが分からなくなる感覚だろう、僕だってそうだ。今、当たり前のようにこの二つの世界を行き来しているが、やはり未だに信じられない。やはり夢の続きじゃないのかと思ってしまう。
 「夢じゃねえよ。なに寝ぼけたこと言ってんだ」
 「え?」
店の前で僕の目を真っ直ぐ見て座っている黒猫が喋ったように聞こえたので、僕は思わず声を上げてしまった。
 「あれ? この猫、喋りませんでした?」
田中さんも聞こえたようだ…何ということだ。ジブリじゃないか。前言撤回。やはり夢に違いない。
 「気のせいですよ。移動したばかりで、少し幻聴などが聞こえるのかもしれません。脳震とう的な。少しこの店で休みましょう」
 「気のせいじゃねえよ。猫はたまに喋んだよ。人間が聞いてないだけで。もちろん都合の悪いことは猫語で話してるがな、ワハハ」
何という下品な話し方だ。しかも、人間を小ばかにしてる高慢な態度。夏目漱石の吾輩より質が悪い。
 「すごいな。まさか猫が喋るなんて…夏目漱石の『吾輩は猫である』も強ち、心を突いていたのかもしれませんね」
田中さんが感動している。思ったより素直な心の持ち主のようだ。
 「そうですね…でも、あれは猫が喋るから面白いのであって。実際に喋っていたら、元も子もないというか」
 「うるせえよ。そんなの猫の知ったこっちゃねえ。無駄口叩いてる暇ねえぞ。森実可って娘、探してるんだろ? 急いだ方がいいぞ」
 「な! 知っているのか、彼女の居所を?」
にゃあ~、と急に黒猫は猫語を使い、店の中に入って行った。何だ? 都合が悪いことでも起きているのか? 僕と田中さんは顔を見合わせて黒猫の後に続いた。
 白い塗装が剥げかけた、木製の柵で囲まれたウッドデッキ内には年季の入った丸いウッドテーブルと二脚のウッドチェアーが置かれている。ウッドデッキを通り抜け、赤い塗装が施されたアーチ形の木製の扉には、少しくすんだ真鍮の楕円のドアノブが付いている。扉は鍵が掛かっていないためか、少し開いていた。僕はドアノブに手をかけ、扉を用心深く手前に引いた。薄暗い店内に外の光が差し込み、中を照らした。フローリングの床も古く、僕と田中さんが歩くたびにギイギイと音を立てて軋んだ。
 「あれ? 土方さん居ないのかな?」
田中さんがキョロキョロと店内を見回しながら、呟いた。店内にはステンレス製の円形の傘を被ったランプシェードがいくつか天井から釣り下がっていたが、どれも電球の明かりは点いていなかった。その下には木製のテーブルとセットになった椅子、アイビーグリーンの布製ソファが二組ずつ並んでいた。その奥にカウンター席と黒い革製の丸椅子が何脚か並んでいる。黒猫はどこにもいない……。
 「土方さん? 誰ですか?」
 「ああ、龍口先生は会ったことはないのか。この喫茶店のマスターですよ。確か森さんもここでバイトしていたんじゃないかな」
 「定休日とかじゃないんですか?」
 「そうなのかな…でも、休みの日は土方さんは丘の下にあるご自宅にいるはずだから、キチンと戸締まりしてると思うんだけど…忘れてたのかな?」

 ガタガタガタガタ

 カウンターの隣にあるキッチンの方から大きな音が聞こえてきて、僕たちはそちらの方を見て顔を見合わせた。田中さんは頷き、僕たちはキッチンの中に入った。キッチンの中央にはステンレスの大きなキッチン台があり、大小のフライパンやソースパンなどがその上にぶら下がっていた。その手前にはガスコンロが3つ並んでいて、奥の方には大きな冷蔵庫が設置されていた。個人経営の喫茶店とは思えない、まるで普通のレストランのような本格的なシステムキッチンだ。
 「誰もいない…ですね」
 「さっきの黒猫かな?」

 ガタガタガタガタ

どうやら冷蔵庫の辺りから物音がしているみたいだ。僕たちは冷蔵庫の辺りを見回した。 「先生、ここじゃないですか?」
田中さんが、冷蔵庫の手前の床下倉庫の扉を指差していた。僕は扉に付いている埋め込み式の取っ手をつまみ、ゆっくりと扉を引き上げた。その見た目より重厚な扉の重みに少しよろめいたが、扉を開けて中の淵の上に置かれていたつっかえ棒を取り出し、扉を固定して中を覗き込んだ。じめっとした空気が顔に纏わりつくように広がり、僕は一瞬顔を横に逸らした。中には木製の階段があり、地下に降りれるようになっていた。どうやらとても広い空間が地下に広がっているみたいだ。僕は様子を見ていた田中さんの方を見た。
 「懐中電灯がどこかにありますかね? 降りてみましょう」
田中さんがキッチン裏の非常口から懐中電灯を持って来て、僕たちはゆっくりと階段を下った。上から覗いた感じよりも、実際はとても深くまで階段は続いていた。中は、じめじめとした湿気が漂っていたが、一番下の段から足をコンクリート地のフロアに下ろすと、ひんやりとした空気が満ちていた。
 「食糧庫かな?」
後ろから降りてきた田中さんが疑問を口に出した。
 「それにしては広すぎるし、深すぎませんか?」
僕は今レストランの設計を手掛けているので、正直この部屋にはとても違和感を覚えていた。
 「そう…ですね」
僕は田中さんがあまり納得していないことは気にせずに、懐中電灯を地下室の奥に向けて照らした。一~二メートル周囲くらいしか照らせない懐中電灯ではとてもこの地下室の全容は見渡せなかった。先へ進んでみるしかない。
 
 ガタガタガタガタ

再び暗闇の奥から聞こえてきたその音は、地下室の中で反響してより不気味に聞こえた。
 「間違いなくこの奥に何かいますね、さっきの黒猫にしては音が大きすぎる」
 「人間ということですか?」
 「…おそらく」
少し前に進むと、そこには金属製の棚がいくつも並んでいた。その棚にはガラスの瓶がぎっしり並べられて置かれていた。僕はそのガラス瓶を懐中電灯で照らしてみた。液体の中に何か浮かんでいる。生き物ではないが、歪な形の肉片のようなものだ。僕は左から順に僕の目の高さにある棚の瓶を照らして見た。

 「…こ、これは」
 
手だ。人間の手が瓶の中に浮かんでいた。手だけではない。足首から下の部分もあった。最初に見たものは古いものだろう、損壊が激しくて原型を留めていなかったようだ。底の部分に崩れ落ちた肉片が沈んでいた。そう考えて見ると、右にいくほど新しく採取されたもののようだ……
 「うわっ! ほ、本物ですか?」
田中さんが驚きながらも、繁々と見つめる。人間とはグロテスクなものに異様な関心を示すのが常だ。レプリカ? にしては趣味が悪すぎるし、数が尋常じゃない。ホラー映画の小道具と言われれないと納得できない。しかし、本物だとしたら、とんでもないサイコ野郎がこの部屋を行き来しているということになる。というか、レプリカだろうが、サイコ野郎に違いはない。しかし、シリアルキラーには出会いたくない。

 ガタガタガタガタ

嫌なタイミングで物音が棚のさらに奥の空間から鳴り響く…ヒッチコックも唸るシチュエーションだろう。しかし、ここで怖気づいて引き返すことはできない。森実可が命の危険に会っているという深刻さが僕たちにも実感できたのだ。もしかしたら…嫌な予感を振り払い、僕は懐中電灯の頼りない光が示唆するような、僅かな希望の光を信じて、前に進んだ。ホルマリン漬けの棚を抜けると、懐中電灯の光はコンクリートの壁に覆われた部屋の鉄製の扉を照らし出した。物音もどうやらこの部屋から聞こえてきているようだ。僕は扉に付いた重厚感のあるレバーハンドルに手をかけた。ひんやりとしたハンドルが緊張で汗ばんだ僕の掌から体温と希望を同時に奪い取っていくように感じ、僕は寒気に身体を震わせた。
 「大丈夫ですか?」
田中さんが僕の肩に手を置き、僕は生気を取り戻した。僕は振り向かずに一度頷いて、ハンドルに掛けた手を強く握り、ハンドルを下におろした。ガチャンという音が地下室に響くのを聞きながら、僕は鉄の扉をゆっくりと押し開けた。

 「…!? @#××……」

コンクリートに覆われた部屋には木製の椅子に縛り付けられ、口と両目を白い布で塞がれていた森実可の姿があった。人の気配を感じた彼女はガタガタと椅子を揺らしながらもがいていた。
 「森さん! 大丈夫ですか?」
田中さんが真っ先に彼女に駆け寄り、椅子に縛り付けていた布を解いた。
 「ああ”、ゴホッ、ゴホッ…」
 「何があったんだ? 一体だれが…」
田中さんが左手で森実可の背中をさすりながら、右手で僕が彼女に問うことを制した。
 「とにかく、早くここを出ましょう。こんな地下室があったということは、恐らく土方さんが何らかの事情を知っているはずです」
 土方という名前を聞いて、森実可は身体をぶるっと震わせた。

 「おやおや、鍵をかけるのを忘れていたようですね。これはお恥ずかしいものを見せてしまいました…このままお帰りになるつもりですか?」

 オールバックの豊富な白髪に白い髭を蓄えた黒縁眼鏡をかけた老人が、血痕がたっぷり付いた前掛けをし巨大な鋸とノミを両手に持って、僕たちの背後に立っていた。

 十三

 ボーコーダーのかかったボーカルのメロディーラインが近未来的な映像を想起させるようなダンスミュージックが鳴り響くフロアでは人々が熱気を纏いながら踊り狂う。アンジーは身体の芯に響く重低音に合わせて右手を掲げながら、ぐんぐんと人混みを掻き分けて進む。ふとその歩みが止まった。前を見ると、東欧ソーセージの男がアンジーの方を振り向き、アンジーは頷いた。
 「どうしたの?」
ワタシは手を離したアンジーの耳元に顔を寄せて尋ねた。
 「ミカ、モウダイジョウブダ」
 「え? 何が?」
 東欧ソーセージの男が人混みの中で老人を捕らえた様子が遠目に見えた。アンジーが人混みを掻き分け、デニム地のホットパンツの臀部から拳銃のようなものを引き抜いてもみ合っているように見えた二人のもとに向かった。音楽がまるで映画のサウンドトラックのようにドラマティックに響き、フロアの情景がスローモーションに見えた。ワタシは慌ててアンジーの後を追った。
 
 「…夢物語渡航法違反、時空維持法違反で現行犯逮捕する」
 
 何やら聞き覚えのない日本語を毅然と話していた、東欧ソーセージの男を見てワタシは「日本語話せるじゃん」と思いながら、男が羽交い締めにしていた老人を見た…土方さんだった。

 「え? 土方さんが何で……」

 土方さんは白髪を振り乱し、黒縁眼鏡が外れたその下の瞳は悪魔にでも憑かれたように血走っていてまるで別人だった。
 「ぐわぁーーーー!」
土方さんは獣のような彷徨を上げた。アンジーが銃口を土方さんに向け、遊底を引き、撃鉄を起こした。
 「無駄な抵抗は止めろ。もう逃げきれない。こっちはもう一つの世界でもお前の身柄を拘束している」
 「あ? フハハハハハ。じゃあ、その女はどうするんだ? あいつがやっていることも一緒のようなものだろう」
土方さんはワタシを見ながらそう言った。え? 何? どういうこと?
 「彼女はお前を捕まえるために使わせてもらったオトリだ。志願したんだ、今回の任務に…彼女の願いを一つ叶えるのを条件にして」
 「ちっ、そういうことか…相変わらず狡猾だな、時空警察ってやつも」
 「時空警察の管轄じゃないよ、この次元は。お前も次元を飛び回りすぎて、今どの次元にいるのか判別できなくなったんじゃないか? 我々は宇宙検閲官だ」
何なにナニ? 時空警察? 宇宙検閲官? オトリ? どうなってるの? 
 
                    *

 「…龍口研新?」
 「はい。ワタシと別れた夫との子です。あまり良い別れ方をしなかったので、最後に伝えておきたいことがあるんです」
 「しかし、我々は現世の人間と直接コンタクトはとれない。それは時空維持法で禁じられている。それに我々は任務上の守秘義務もあるし、前世の姿は使えないぞ」
 「分かっています。夢の中でコンタクトが取れれば、何とかします」
 「それは一般人を危険に巻き込むことになる、いくら肉親とは言え……」
 「お願いです! あの子には必要な試練になるはずです。今のままでは遅かれ早かれ、あの子は彼自身の人生を諦めてしまうと思うんです」
 「…分かった。しかし、この任務の記憶は全て抹消して君を送り込む。捜査員の監視も常に行う。こちらが危険だと判断した場合は強制的に捜査を打ち切る。いいか?」
 「構いません」

 パンッ!

 閃光とともに土方さんのこめかみに穴が開き、黒い血が滴り落ちた。瞳孔の広がった目は天井を向いたまま動かず、東欧ソーセージの男が腕を解くと肉魂と化した土方さんの身体がフロアの上にドサリという音を残して崩れ落ちた。

 「あんたは…」

僕が鋸の老人に話しかけようとする傍らを、素早い動きの影が抜けて、田中さんが鋸を持った方の腕に飛び掛かり、腕ひしぎ十字で固めた。
 「やっと本性を現したな」
温厚な田中さんが別人のような口調で、鋸の老人の腕をそのままへし折りそうな勢いで締め上げていた。老人はズレた黒縁眼鏡の奥の瞳を充血させ、泡を吹いて気絶した。

 「田中さん、あんた何者なんだ?」
警察車両に土方という老人が乗せられるのを見届け、救急車両で治療を受ける森実可を待つ間、僕は突然起こった映画のような出来事に混乱していた。
 「しがない司書ですよ」
田中さんはにこやかに答えた。救急救命士が救急車から降りて、僕と田中さんのもとへ駆け寄った。
 「ご親族の方ですか?」
 「いえ。僕たちはただ現場に居合わせただけです。どうですか?」
 「命に別状はありません。傷も軽症です。ただ、心理的ダメージがありますので、しばらく心療内科に通って頂くことになると思います。ご親族の連絡先はご存知ですか?」
 「はい。私が知っています」
田中さんがそう言って、救命士とその場を離れた。
 僕は救急車の方に向かった。白い救急車の後方のドアは空いていて、中のストレッチャーの上に茶色の毛布に包まれた森実可が寝そべっていた。僕は付き添っている女性の救命士に会釈をした。森実可が顔を持ち上げ、僕の方を見て微笑んだ。今まで見たことのないような大人びた表情で、菩薩のような柔和なオーラに僕はたじろいだ。森実可が救命士に何かを言い、救命士が僕を呼んだ。
 僕は救急車に乗り込み、森実可の隣に座った。
 「大丈夫か?」
 「うん」
 「少し、夢を見ていたの」
 「どんな?」
 「母親になる夢」
僕は先ほどの大人びた表情を思い出して微笑んだ。
 「嫁に行けないなんて言ったが、訂正しよう。君は立派な母親になるよ」
 「うん。ありがとう。ワタシも立派な息子を持てると思う」
 「娘かもしれない…」
 「ワタシ、あなたが建築した図書館も美術館もとても好きなの。あなたはこの世界が夢で、あなたは現実には実務的な業務に追われて、依頼されたものに忠実にただ何となく設計してると思っているかもしれないけど、違うの。あなたは子どもたちがたくさんのファンタジーとドラマと、理性から感情を解放する作品に触れ合う施設を造ることが出来るし、あなたもそれを望んでいるはずよ」
 「…何だよ? 急に大人みたいなこと言って。ビックリするだろ」
 「あなたはこれが夢だとしか思えないかもしれないけど、ずっと忘れないでください」 「おいおい、死ぬみたいなこと言うなよ(笑)。命に別状はないってよ。寿司と焼き肉と天ぷら食べに行くんだろ?」
 「そうだった(笑)。ねえ、〝ネイキッド・シンギュラリティ―〟って知ってる?」
 「ネイキッド・シンギュラリティ―? 裸の特異点か。物質密度が無限大になるっていう……」
 「そう。出会いは奇跡なの。起きている全ての事象は簡単に証明できないってこと、忘れないでね」
 「ああ。正直、今回の事件は僕の今までの人生を全て覆したよ」

 鳥のさえずりが聞こえるとともに懐かしい匂いがしたような気がして、僕は目を覚ました。口の中に少ししょっぱい味が広がった。なぜか涙が頬を伝って口の中に入っていた。僕はベッドから起き上がり、ブラインドを上げて日差しを部屋の中に入れた。隣の部屋のLP棚からくるりの『THE WORLD IS MINE』を取り出し、針を落とした。そして、下のキッチンに降りてお湯を沸かした。何故か事故死した母親がキッチンで弁当を作っている姿を思い出した。弁当は冷凍食品の詰め合わせで、僕はうんざりしていた。別れた父親の代わりに働きながら家事までこなすのはやはり大変だったんだろう。最後も将来の話で口喧嘩したまま、母親は通勤中の事故で帰らぬ人となった。今さら、なんでこんな事思い出すのか、よく分からなかった。コーヒーを淹れて、バターを塗ってトースターで焼いたバケットを皿に乗せてリビングで頬張る。コーヒーを啜ると、上の階のプレーヤーから「男の子と女の子」が流れてくるのが聞こえた。母親が僕のCDを借りて聞き込んでいたくらい、お気に入りの曲だった。

 小学生くらいの男の子、世界のどこまでも飛んで行けよ ロックンローラーになれよ
 欲望を止めるなよ、コンクリートなんかカチ割ってしまえよ カチ割ってしまえよ

 岸田繁の胸を切り裂いて引き出したような歌声が、なぜか僕の頭からいつまでも離れなかった。

                                      〈了〉
 

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