ゲシュタルト夢幻

ああ、また今日という素晴らしい日を、こんな味気のない、コンクリート建ての量産型箱物の片隅で、大した生産的働きもしないで、週五日働いた体で俺の三倍の社会的評価を得て、貴重な二日の休日をわざわざ、こんな消費社会礼賛の悪魔の権化の様な場所で二時間も三時間も過ごそうなぞという、愚民を笑顔で丁重にもてなすなんて、俺は何て糞なんだ! いや、少なくとも、こんな愚民より俺は真っ当なはずだ。そうだ、こんな愚民どもが作り上げた、システムが糞なのだ。だから、真っ当な俺がこんな塵のように扱われる、この社会が糞なんだ!

「いらっしゃいませ!」

愚民の鑑の様な、安っぽいフェイクジーンズのジャケットに、ダボついたチノパンで、足元はティンバランドのぱち物のワークブーツという、吐き気を催すコーディネートで現れた、小太りの二十代と見られる男に、俺は消費社会の奴隷的慣例である、挨拶を済ませ、いつまでも上手くできないでいる、引きつった笑顔を向ける。男は赤っぽい茶髪のミディアムヘアで、目にかかった前髪は、電気アイロンで不自然にペタンコに引き伸ばされていた。頬はやや赤く、肌がニキビで覆われていた。前髪の前にスキンケアに金をかけろ! 俺は心の中でそう叫んだ。男が俺の前に差し出したカゴの中の物を、一つずつスキャナーでスキャンする。それは男のぱち物のティンバランドの爪先を舐めさせられている様な屈辱だ。ヘアピン? 此の期に及んで、まだ前髪を気にするのか? せめて、このカゴにメンズコスメでも入っていたら、少しは俺の怒りも収まったかもしれない。いや、その時はその時で、男が肌荒れなんか気にしてんじゃねえよ! と怒りを上塗りするだろう。そうだ、俺はそういう男なのだ。開き直っているわけではない。俺は社会ではなく、俺自身が嫌いなのだ。この男より格下扱いを甘んじている、この俺が情けなくてしょうがないのだ。

「千二百三円になります」

レジスターの画面に表示された合計金額を読み上げる。男はおもむろにその大学生のような容姿とは不釣り合いの、ハイブランドの茶色い二つ折り財布から、二枚の夏目漱石の印刷された紙幣を、ゴツいクロムハーツ的な銀の指輪をはめた、右手の親指と、人指し指で挟み、抜き取る。キャッシュトレイを男の前に差し出したにも関わらず、男はキャッシュトレイを避けるように、横に紙幣を置いた。

おお、夏目先生、貴方がまさかこの国の紙幣に印刷され、全国各地、津々浦々、老若男女の手垢に塗れ、こんな屑の私でさえ、せめてもの敬意を払い、差し出した御膳を無視し、先生を辱めるような男がこの国に溢れている未来など想像できたでしょうか? 先生は英国で神経を擦り減らされたかもしれませんが、今なら、この国に居ても、それ以上にお病みになられるかもしれません。芥川が「ぼんやりとした不安」を抱いたまま自ら命を絶ち、三島が若くしてこの国を憂い、市ヶ谷駐屯地で割腹した、更にその四十五年先のこの国では、大学の人文学部不要が叫ばれ、本など誰も読みません。太宰が嘆願する手紙を書いてまで欲した、芥川の盟友、菊池寛が彼の死を悼み、創設した現代純文学の最高峰である芥川賞を、読書芸人なる者が獲り、その様な書籍が百万部を超える程の売上を上げる、そんな時代です。しかし、考えれば、井上ひさしが作家を務めたのも、お笑いコンビ、ツービートを輩出したのも同じフランス座であり、そのツービートの北野武が映画監督として金獅子賞を獲り、セカイノキタノになり早二十年近く、時代はかくの如く流れたのも仕様がない。セカイノオワリがセカオワなんて略される時代です。私が憤っているのは、渦中の文士なる者たちが大学という権威の囲いの中で安寧し、その頼りの権威も先に弁じた如く、今や風前の灯火。読書芸人と共に芥川賞を受賞した文士も今やテレビ、あ、箱物の、新聞が動画となった機械と言いましょうか? 言葉で説明するのは難しいですが、百聞は一見にしかずとはよく言ったものです。しかしこの世界の技術革新には、眼を見張るものがあります。これだけは先生に見て頂きたい。

「七百九十七円のお返しになります」

俺はキャッシャーの小銭噴出口から吐き出された小銭を、男のムックリとした手の平の上に投げつけたい気持ちを抑えながら、しかし乱暴に置いた。え? 夏目漱石? 千円札? あ、しまった! 旧札だ......二〇〇四年一一月一日に千円札は野口英世になったんだった。偽札? いや、こんな分かりやすいものを、わざわざ作らないだろう。となると、今は銀行でしか扱えないやつか? 面倒なことになるなあ、始末書、書かされる。クソ! これ旧札ですけど、使えますか? とか、普通聞くだろ! しれっと差し出しやがって! 夏目先生への想いを馳せた俺が悪いのくらい、分かってんだよ! 行き場のない怒りゲージがまた溜まり、ゲージがMAXになった。超スーパーコンボを繰り出せば、相手のエネルギーを半分は削れる。その対峙する相手がいて、俺が然るべきタイミングで相手のガードを擦り抜けて、超スーパーコンボを全ボタン押しで繰り出せればの話だが。瞬獄殺ならガード関係ないけどな。

「いらっしゃいませ、お待たせ致しました」

俺は超スーパーコンボを繰り出すべき相手を横目に、次に買い物カゴに一杯の日用雑貨を詰め込んだパンチパーマのおばさんを引きつった笑顔で迎えた。

「七千八百二十四円になります」

おばさんのその顔に似合わない、綺麗な右手の人指し指と親指に、新渡戸稲造の印刷された紙幣と、またしても、夏目先生が三枚抜き取られた! え? また? どうなってるんだよ! 厄日なのか? 俺は動揺を抑えるように溜め息をつき、おばさんの弛んだ顎あたりに目をやり言った。

「あの......申し訳ありませんが、こちらの紙幣の方は銀行でお取り替え願えますか?」
「は? 何で?」
「いえ、あの、旧札ですので......」
「何? 旧札? それ聖徳太子でしょ。よく見なさいよ。何言ってんの?」
「え? いや、でも二〇〇四年に日本円札は一新されまして、あの、夏目先生、いや漱石は野口英世に、新渡戸稲造は、樋口一葉に、福沢諭吉は据え置かれましたが......」
「ちょ、ちょ、ちょ、待って。あなた、頭おかしいの? 二〇〇四年? 今は二〇〇〇年よ! 何? 嫌がらせ? 店長呼んで! この人おかしいわ。あなたお名前は? 飯屋さんね、分かったわ」
「え? あ、申し訳ありません」
二〇〇〇年だって? 嘘だろ! 新手の詐欺か? 俺は激しく動揺し、小銭噴出口から吐き出された小銭を、なかなか掴めなかった。

「申し訳ありません、百七十六円のお返しになります」
「つくなら、もっとましな嘘つきなさいよ!」
「申し訳ありません。今店長を呼びますので」

あまりの強気な態度に俺は思わず気圧されてしまったが、ゲージMAX、超スーパーコンボを繰り出すには今しかない! と思い直し、レジの背後にある内線を取り、店長を呼び出し、この俺の正当性をこのパンチパーマババアに叩きつけ、滅殺することにした。
店長はすぐに裏の事務所から駆けつけた。あれ? 店長って、こんな人だったっけ? 俺はあまりに末端の店員すぎて、店長にはそんなに接する機会は無いが、それでも挨拶くらいは日頃から交わしている。何だか妙だ。今日はどうかしてるのだろうか?
「お待たせ致しました、申し訳ありません」
店長はパンチパーマババアをレジ奥にある、サービスカウンターの方に連れ出した。俺はパンチパーマババアの鼻が明かされるのを、一部始終見ておきたかったが、さっきの一悶着で行列ができてしまったレジを、裁く作業に戻った。あれ? 俺は、違和感をもはや感じないわけにはいかなかった。並んだ客が差し出すのは全て、夏目漱石、新渡戸稲造、そして小銭噴出口から出る、銀色の五百円硬貨......俺の手足は汗で湿り、しかし、背中には寒気が走った。どうなっているんだ? これは。

「飯屋くん、ちょっと」

俺はレジの行列がひと段落した後、見覚えのない店長に呼び出され、事務所に向かった。そうか、今日は何か、今新たに欧米で流行している、ハプニング何たらとかで、外資傘下になってしまったこの店も、欧米のそれに習って、店総出でこの俺を騙しちゃってYahooトピックに乗っかり宣伝カマしちゃいました! なんて言うんだろ? やっぱり欧米は大掛かりなんだよ、何でも。侘び寂びの精神を知れよ! 禅だよ、ZEN! 今更、流行んねーだよ、そんなハリウッド的仕掛けは。ったく。ビビって損したぜ、そんなステマに乗っかってやる程、時給貰ってねぇんだよ、そんなくだらんステマに経費かけるなら、時給上げろ! ストるぞ、コラ! 社畜舐めんなよ、消費社会の権化め! 吉牛炎上再現すんぞ! 俺は先程までの恐怖を払拭する為に、心の闇のチャクラを第五門まで全開にし、自分を奮い立たせた。店長について歩いた、レジから事務所までの道程では、何ら変わった景色は無いように思えた。

「そこに掛けたまえ」
店長は事務所に並んだ事務机の横にある一つの椅子を見ながら、俺に座るよう促した。店長はその隣の席に腰掛け、回転式椅子を俺の方に向けた。俺は店長が腰掛けるのを見届け、椅子を引いて座った。
「失礼します」
店長は黙って、俺の目を見た。
「酔ってるわけではないようだな」
俺は、人の目を見て話すのは苦手なので、目を逸らし、事務机の上に置いてある、小さな月めくりカレンダーを見た。カレンダーには今月が三月であることと、今年は二〇〇〇年であることを知らせている。そろそろドッキリなら、知らせてもらわないと、リアクションがとれない。早くしてくれ!
「たまに迷惑な客はいる。しかし、我々の仕事は接客業であり、社の方針はお客様第一だ。飯屋くんと、あの客の間に何があったか知らんが、クレームは社のイメージを著しく落とす。ああいう客だからこそ、気持ち良く買い物して頂ければ、それは直接的に売り上げに繋がる。それが仕事だよ。分かるね?」
なんということだ! 俺は再び不安に押し潰されそうになり、胸が苦しくなった。本当に今は二〇〇〇年だというのか? 十六年も前に俺はいつの間に戻ったというのだ? やはり、夢か? 早く覚めろ。
「分かります、すいません。少し具合が悪いので今日は早退させて下さい」
俺は本当に気分が悪くなったので、そう店長に言った。
「そうだな、顔色も良くない。しっかり休んで、次からこのような事のないようにな」
店長はそう応えて、店長の事務机に移動し、バカでかいデスクトップのパソコンに向かった。
俺は椅子から立ち上がり、一礼すると事務所のドアを開け、再び店内に戻り従業員入口から階段を上り、二階にある更衣室に向かった。ロッカーを開け、扉の内側に付いた小さな鏡に映る自分の顔を見る。そろそろ剃らなければと思っていた、伸び始めた無精髭は相変わらずだ。一六歳若返ったわけではないらしい。ということは、この世界に一六歳若い、一八歳の俺が存在するのか? というか、俺は一八歳からこの場所で働いていることになっているのか? それだと、すでに違う歴史になっているのではないか? いやいやいや、これは夢だ! 早く帰って寝よう。寝て夢は見るものだが、夢が覚めるには起きるしかない。夢の中で寝ていれば、脳は起きたい欲求に駆られ、目覚めようとするシグナルが送られるはずだ。俺は勝手にそう考えた。着替えを済ませ、俺は階段を駆け下り、事務所の外でタイムカードをスキャンし外に出た。クソ! 何で夢でも時給なんだよ! 夢ぐらい年収五百万くらい稼いでる身分でいろよ! 俺が一六年後に暮らしている、アパートはそこから徒歩五分の場所に存在していたが、果たしてこの世界ではどうなのだろうか? 俺はズボンの前のベルトに掛けた、キーホールダーとアパートの鍵を確かめながら考えた。ふと、右の方を見ると、一六年後にはシャッターの降りたままの文房具店が開店していた。中には、ランドセルを背負った小学生が、わいわいポケモンのキャラ文房具を手に取り、騒いでいた。一六年後には、それはそのまま妖怪ウォッチとなるのだから、一六年という月日くらいでは、何もそんなに変わらないのかもしれない。しかし、この場所は一六年後には、確実に喪失されるのだ。は! いかん。変にセンチメンタルな気分になってしまった。早くこの夢から目覚めなければ......俺は先を急いだ。アパートの外観は一六年後に補修工事が終わったばかりのそれとはやはり違い、年季が入っている。俺は二階建ての、一階の一○二号の部屋の前に立ち、もし誰か一六年前の住人が居たらどうしようか? と、ふと考えたが、部屋の前であれこれ考えていては怪しまれると思い、キーホールダーごと鍵を外し、そろそろと鍵を扉の鍵穴に差し込んでみた。入った! 左に差し込んだ鍵を回し、ドアノブを右に回して、ゆっくりと手前に引く。すぐに狭い脱靴場があり、右手に白い四段の開閉式靴箱がある。中は何も変わってないようだ。どういう設定だ? 俺のプライヴェートだけが、そのまま一六年前にタイムスリップしたということか? まあ、いい。どうせ夢だ。何とでもなる。俺は白黒チェック柄のVANSのスリップオンを脱ぎ、部屋に上がった。俺は窓際に置かれた、セミダブルの無印のスプリングベッドの上に敷かれた、西川の羽毛布団セットに潜り込み、この夢から覚めることを願いながら、さっさと寝た。

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