江戸海浜公園大茶湯

 にじり口から素っ裸の男が前転しながら畳の間に入ってきた。囲炉裏の上で沸騰した蒸気が音を立てる鉄瓶の隣、被せられた黒い布を男がサッと取り払いながら股間部を上手に隠すと同時に、漆塗りの丸いおぼんに載った唐焼きの茶碗、紫色の布包みで覆われた茶筒、竹でできた茶匙、茶筅【ちゃせん】が姿を現した。男は一礼して、柄杓で鉄瓶から湯を汲みとって茶碗に注いだ。それから茶筅をその上で検めてから湯を捨てた。次に、右手の薬指と小指の二本で器用に茶匙を携えながら茶筒の丸蓋を開けて、茶匙を持ち替え、中の抹茶を左手に取った茶碗に掬い入れた。茶筅で撫でながら薄くのばして、柄杓で掬ったお湯を再び入れた。男の股間部に被さった布が盛り上がり、笑いそうになるのを必死で堪えた。男はゆっくりと立ち上がり、茶碗を目の前に差し出した。泡立つ茶の表面に濃い池のような、への字になった部分にわたしの表情が映る。虚無の顔だった。何を見せられているんだ? 誰もがそう思うだろう。エクストリーム茶道。いかに奇抜に茶を点てられるかを競う世界茶道連盟(WTU)公認の世界大会が東京で開催されていた。裏千家、表千家をはじめとする茶道の家元は、もちろんこのエクストリーム茶道の存在を認めてはいない。だが、茶道の歴史などほとんどの人にとってどうでもよく、海外セレブが日本の茶に注目し、エンターテインメント番組で、あるお笑い芸人がネタとしてこのエクストリーム茶道の雛形となった芸を披露すると、瞬く間に茶道は世界中で流行し、いつの間にかスポーツとして流行り、世界大会が行われるまでの人気を博すようになった。わたしは、手元にあるメモ用紙に点数を書き込んでいく。茶の味、パフォーマンスの出来、ステージ(茶室)の使い方、エトセトラ……一〇点満点、五人の審査員による総合得点で競う。この男は五点。ピーっと笛の音が次のパフォーマンスの開始を知らせる。僧衣を着た尼僧が入ってきた。年のころは、五〇くらいだろうか。にっこりと笑顔を見せた顔に刻まれた皺の具合からそのように思った。尼僧は一礼すると、鉄瓶に素手で触れた。あぶない、そう口にする間もなく、取っ手を握りしめて鉄瓶を持ち上げて注ぎ口から熱湯を口に入れた。狂っている。アウチ……アメリカの審査員が声を漏らした。尼僧はにっこりとしたまま、皆が狼狽えた空気を意に介さず、口から湯を鉄砲のように吹きだして茶を点てはじめた。汚っ! 口からそのまま漏れ出た、わたしの言葉も気にした様子はない。差し出された茶を皆が辞退する中、一人だけ、インドの審査員が飲み干したことに一番の驚きを覚えた。三点。ここで小休止。審査員は競技場となる茶室を出て、日本庭園を模した埋立地「江戸海浜公園」内に設けられた控室や喫煙所に向かった。審査員はアメリカ、インドのほか、中国、イギリスそしてわたしが代表する日本の五ヶ国だが一様に皆スーツ姿だった。外は日がちょうど真上にあって、じりじりと地面を焼くような猛暑で五人とも上着を脱いでネクタイを緩めた。
「あいつ、見たか? あれを飲むなんて正気じゃねーよな」
 前回大会で顔見知りとなっていたアメリカの審査員ジョージが、先行していたインドの審査員の後ろ姿を眺めながらわたしに耳打ちした。
「ああ。わたしもびっくりしたよ」とわたしは頷いた。
「クレイジーな奴らだよね。選手だけじゃなく、審査員まで」すぐ前を歩いていたイギリスの審査員レイラが振り向いて会話に入ってきた。
「まあ、でもクレイジーさを競ってるわけだからな」ジョージは豪快に肩を震わせて笑い、釣られるようにレイラとわたしも笑った。中国の審査員リュウは怪訝な表情で振り向き、すぐ向き直った。当の本人であるムルイは我が道を行くように口笛を吹きながらご機嫌な様子でずんずんと前を歩いていた。
 控室の手前にある喫煙所はパーテーションで区切られた簡易的なスペースで、そこに二つ置かれてある腰の高さほどの立方体の吸い殻入れの前に並んで立ちながら、ジョージとわたしは煙草を吸った。
「それにしたって、こんな暑いときにやるような競技じゃねーよな、熱い茶を飲むなんてよ」ジョージは口に煙草を咥え、シャツを腕まくりした。
「よく言うよ。この時期になったのはアメリカのテレビ局の放映関係のせいだろう」わたしは煙を吐き出してから、煙草の先の灰を丸い穴の開いた金属板の上で叩きながら落とした。
「ハハハっ、そうだったな」ジョージは悪びれもせず煙草を吸った。ひとつ、とっておきの話をしよう。咳払いをして、ジョージは煙草の灰を落とした。きみたちの国で千利休が時の権力者、豊臣秀吉に切腹を申しつけられた話は有名だろう。だが、その理由はとても曖昧で様々な憶測が飛び交っているね。秀吉がその影響力を危惧していたとか、石田三成の陰謀だとか、なんとかかんとか……。アメリカ政府は世界中の権力者や著名人のAI開発を秘密裏に行っている。秀吉も千利休もその例外じゃない。
「なんだって?」わたしは煙を吸い込んで咽てしまった。そんなことが可能なのか? もうとうの昔に死んだ二人だし、DNA採取なんて不可能だろう。
「落ち着け。話はここからだ」ジョージは頷きながら煙草を吸って煙を吐き出した。別にクローンを造ろうってわけじゃないんだ。本人の細胞は必要ないさ。必要なのは思考回路につながる材料だ。織田信長の草履を懐で温めていたエピソード、墨俣一夜城の噂、刀狩り、草庵のアイデア、禅の思想、商人としての才覚、そういった情報から人物像を創る。
「それで?」
AI秀吉とAI利休による対話を構築させると、AI秀吉はAI利休に攻撃的な言葉を投げかけ、最終的にAI利休の存在そのものを抹消しようとしたんだ。
「えー、じゃあ歴史は繰り返されるってことか」わたしは煙草の火を消して、吸い殻を捨てた。赤い日傘を差した老人が喫煙所に現れ、すっとペットボトルをわたしとジョージに向かって差し出した。
「利休は少し欲に溺れたのかもしれません」傘を折り畳み、白いTシャツに茶色のリネンパンツというシンプルな出で立ちの老人は、まるでわたし達の話を聞いていたかのように笑顔で呟いた。
「……? ありがとうございます」わたしは聞き間違えかと首を傾げながらひとまずお礼を言って、ペットボトルの中身を飲んだ。ほのかにライムの匂いが鼻孔の奥に広がり、さわやかな飲み心地だった。
「おいしいです」ジョージは日本語がわからず、聞き逃したようだった。不思議な老人はリネンパンツのポケットからおもむろに巻き煙草の袋を取り出して、慣れた手つきで煙草を一本巻いて火を点けてうまそうに吸っていた。控室に入ると、レイラが手に持った水ようかんをわたしたちに差し出した。
「お、気が利くねえ、ありがとう」ジョージは笑顔で受け取った。わたしも礼を言うと、レイラはいや、変な老人にもらったんだけど、あなた達も会わなかった? と困ったように笑った。ああ、彼か、この水もらったんだ、とわたしが答え、うんうん、そう、私ももらった。とレイラも長机の上に置いたペットボトルを指差した。何者なんだ? 控室の隅で壁と向き合い、座禅を組み瞑想していたリュウの足元にも空になった水ようかんの容器と半分ほど残ったペットボトルが置いてあり、床の上に大の字になって顔にタオルを被せていびきをかいているムルイの傍にも、空になった容器とペットボトルが置いてあった。大会関係者だろうか。謎は解けぬまま、わたし達は茶室に戻った。そこにはあの老人が座って待っていた。
「お待ちしておりました」老人は深々と頭を下げた。このような所ではとても寛げますまい、老人はにっこり笑った。外に出ましょう、場所を用意してあります。わたし達はお互いに顔を見合わせた。それはルールに反するのでは? そういった疑問を一瞬皆が持ったが、先ほどの水ようかんとライム水の手前、無下にもできず、皆そろって外に出た。大きなビーチパラソルがつくる日陰の下にゴザが敷かれ、その上に茶道具一式が揃えられていた。使いこまれたであろう茶筅の先を確かめ、茶筒から掬い取った抹茶を黒い茶碗にさっと入れる。魔法瓶に入ったお湯を少量入れ、茶筅で素早くかき混ぜる。滑らかながらスナップの利いた手つきだった。一瞬、手首が三六〇度回転したように見えて二度見した。そこにアイスボックスから取り出した氷を豪快に入れた。すべてがあまりにも大胆でありながら自然。わたし達はごく普通に差し出された茶をごくごくと飲み干してしまった。ひんやりとしたのどごし、深みのある茶の苦みもさわやかに、まるでビールを飲んでいるような爽快感。すべてに満足したわたし達はしばし競技のことも忘れて完全にリラックスしていた。わたし達のチルい空気を大きな爆発音が切り裂いた。振り返った先で爆発したらしい茶室が煙を上げて燃えていた。
「お粗末さまでした」老人は膝を立てて一礼し、赤い日傘を差して悠然と公園を歩み去っていった。
 大会はすぐに中止されて、ノーカウント。当初テロの可能性も疑われたが、けが人もなく犯行声明も出ず、物的証拠も見つからず、囲炉裏の火が揮発したガスにでも引火した事故として片づけられ、幻の世界大会となった。それと同時に、わたし達によってWTU内外で謎の老人の噂が広まり、彼は「蘇った丿貫【へちかん】」と呼ばれる伝説となった。わたしは彼のおもてなしの心に感動し、茶道を競技化することに馬鹿らしさを覚えてWTUを辞めた。もちろん彼が爆破犯だと考えている。あれはエクストリーム茶道に対する反逆だったのだ。丿貫初号機、彼は丿貫AI知能を搭載した人造人間だったのではないか。わたしが見たあの手首の回転は錯覚ではなかった。あの老人の行方はしれないが、今も赤い日傘を差した老人の目撃情報が絶えることはない。世界中に丿貫機体が溢れている。

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