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約束の苺 2 ~シスター・ストロベリーで語られること~

橋本みつる作・多理とあかるの物語「さらば友よ」「シスター・ストロベリー」。

この二編は対になっていてそれぞれが あかる、多理の視点で語られる。

同じ女子寮の同室の友を好きになったあかるの動揺を描くのが「さらば友よ」。

「シスター・ストロベリー」は多理の視点から語られる。

あかるの物語では寮生として生活する二人が描かれているが、多理はそこから一歩抜けて出る。

祖母の葬儀のために寮を出て参列する日のことを描いたエピソードだ。

あかるは自ら自覚した気持ちを多理に隠していられなくなり、打ち明ける。

あかるは自らの「様子を見る」と言うが、大切な関係が壊れるのを恐れ、気持ちを隠せずに多理と部屋をわけてもらう。

けれど多理と新たに同室になった相手が羨ましくなり、友達でいいから元に戻りたいと手紙を渡す。

多理はそれを読んで、あかると「普通に話せる」ようになったことに安堵する。

あかるの気持ちは生々しく部屋を分けてもらうように願い出るまでの強さがある。

それはけして幻想ではなく、どこか性感を伴っている。

一方の多理は、大物というか、泰然としている。

見ようによっては鈍いのだが、あかるとの距離感を取り戻せたことに安堵していることからも、そこに確固たる恋情が築かれているわけではない。

実は多理は変わった体質の主で、幽霊が見える。

しかも何か頑張らなければならない、何かが起きる前には必ず同じ霊を見る。

そのことはあかるも承知しているが、自分と深刻な話をしているときに多理がそれを見ていたであろうことに気付いてしまう。

あかるの気持ちに対して、多理は逃げずに向き合った。

あかるちゃんの言う好きはわからないけれど、こんなに話した相手はいない。

あかるが一番好きだよ、と。

明らかにあかるとは別の感情での「好き」を告げる。

それは多理にとっては真摯な告白であるのだが、あかるにとっては残酷であったろう。

部屋をわかれるとき、彼女らは口付けをかわして別れる。

それは通じ合っての口付けではない。二人の心持はまったく別物である。

しばらくして、祖母の訃報を受けた多理は、葬儀のために授業を休み家へ戻る。

葬儀とは当然親戚との集いであり、かつて多理と付き合っていたいとこの少年が登場する。

多理には男性と付き合いがあったことが明かされる。

自然消滅しているという設定である。

葬儀では久方ぶりに会った彼に、彼女ができたことを告げられて、理解はしたものの感情が追いつかずに涙を見せてしまう。その隙に彼が多理を抱きしめる。すぐに多理は彼を蹴倒すのだが。

この抱擁を受けて、多理は初めてあかるの肉感を想起する。

元々知っている異性に比して、同性であっても驚くくらいにあかるの体は柔らかかったと。

葬儀のあと、多理は、かつて多理やあかると同じ女子高の生徒だった親戚の従姉と会話する。

彼女は多理が住んでいた家を借家として借りており、恋人と暮らしている。

多理は様子を見にその家に戻るのだが、家の様子はすっかり垢抜けていた。

ここで表題にも含まれる「苺」が登場する。

それは従姉の海花が家でつくった苺だ。

皿に盛られた苺を食べながら話しているうちに、多理はある重要な事実を知らされる。

ずっと自分の家だと思っていたその場所に、実はもう自分たち家族は戻ることがないと聞かされる。新しい家を買ってそこに住むはずであり、元の家はそのまま海花たちのものになると聞かされる。

多理だけが知らなかった事実。

それは単に多理が高校生とはいえ、子供だからであり、大人たちの事情と離れた世界に住んでいるからである。

大人の海花であれば聞かされることも、親がすでに把握していることも、学生の多理は知らずにいた。

かつて自分がここにあるものと信じ込んでいた家が、親戚の家であり賃貸として暮らしていただけだと認識する。途端にかつてそこですごしていた小学校の頃の自分、中学校の頃の自分が遠ざかるのを感じる。

それは単にその家に戻れなくなるために生じる寂寥、よりどころが失われた寂しさといったものではない。もっと無情に、かつて確固としてそこにあるものと信じていた拠点、小さな王国が、王国ではなかったと知ったような悲しさであろう。崩壊の悲しさだ。それは成長でもあるのだが、成長とはひとつの崩壊なのだ。震えるようなショックを受ける多理だが、話題をかえようと海花に学校を卒業したあとどう感じたかを尋ねる。

海花は答える。女子高に生きている間はずっとそこがよかったが、出てみれば視界が開けた。やっぱり男の子がいる方がいい、ときっぱり言い切る。

皿にはひとつの苺が残っている。


制服に着替えた多理は寮であかるに離れていてさみしかったことを告げる。

あかるがいいなら、また仲良くしようと。

あかるはひどく喜び、多理に抱きつきたいと告げる。

多理は想う。

あかるちゃん私気付いたの

ほんとに私 何もつかめてない

自分の気持ちもよくわかんないの

何かの揺れ 動きに流されて いちいちショック受けてる

杭を打ちたいんだ

好きな友達と笑いあたり 知らない子を理解したりして

何かをとどめたい

それからふたりは自販機でパックのいちご牛乳を買って飲む。

多理が「学校のいちご牛乳って」と言い、あかるが「果汁1%だね」と答える。

多理は取り返しがつかなくなったことを知り、どうしようもなく時間がすぎていくことを葬儀で実感する。

すぎてしまえばその時々の方が良くなるんだろう 

とも感じているのだ。そこから学校へ戻り制服を着たときには 

ただいま 今の私よ 

と自らに呼びかけている。この場面が非常に印象的だ。

未来の自分である海花をみた多理が、どこか甘い世界に戻ってきて、冷めた心持でいる表現だととらえられるような表現でもある。

しかし、この場面において、多理は目線を左に向け、それから右に向けている。もう持ち得ないものになった家を見つめ、それから学校の方角へ視線を向けているのである。

過去をみつめ、未来を見据えているようにも見えるその仕草。

それは、先述の 

杭を打ちたい 

というモノローグの場面にも表出されているのだ。

多理のあかるに対する感情はどこか茫漠としている。それはあかるには見えない「校外」で世の中を見ていることにも通じるかもしれない。

あかるほどには必死でない現実的な感情がそこにはある。

二人が飲む苺牛乳に果汁が少ないことは、何をあらわしているのか。結局二人の関係が校内だけのお遊びであることを示しているのだろうか? 

少女と少女の「好き」のすれ違いも、冠婚葬祭で思い知らされる時間の流れも、私には覚えのある感情だ。私にとって冠婚葬祭の場というのはいづらいものだ。いつでも異様にはしゃいでやりすごす、うわべだけの言葉だけでそこに存在してきた。自分を誇る術がないからだ。

そうした浮つきがない時点でも、多理はヘテロの素質があるのかもしれない。

多理は幽霊を見るという体質によって、未来との接点を得ている。多理がひとりの超常者であることはこの物語をフィクションたらしめているのだ。けれども、少女にとって生活基盤と感じていたものの大きな崩壊という心理的衝撃に対して、その超常感はけして現実離れしたものではない。

さて、「苺」の象徴するものは何か。苺と言えば肉感や恋情を象徴していそうなものである。気になったのは海花の家で最後にひとつだけ残されていた「苺」だ。

もちろん、世の中、校外にある多理や海花の家であらわれた「苺」と、校内の自販機で購入できるお手軽な「苺牛乳」の対比も重要だ。

苺を飲食するという行為は橋本みつる作品において、何を意味するのか。

それが肉欲とか色情といったものであるならば、多理はとうにあかるや従兄弟を通じて全うしているのである。単なる快楽の象徴であるのなら、皿の上にひとつ残るはずがない。

橋本みつる作品において、「苺」の登場する漫画は他にも存在する。

表題は「苺の夢」である。これは百合作品ではないのだが、手がかりを得るにはうってつけであろう。

読み比べてみることにした。

つづきます。

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