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羽生結弦というスケーター~ジャンプ編~

はじめに

羽生結弦というスケーターについて、これまでに多くの人が言及し、さまざまな書籍が出版され、数え切れないほどの人が記事を書いている。そのことについては重々承知しているが、この度、あえてその中の一つに加わりたいと思う。私がこのような決断をしたのは、書かずにはいられない魅力的なスケーターのせいなのだということで、どうかご理解いただきたい。

フィギュアスケートには色々な要素(技)があるのだが、今回は『ジャンプ』を中心に綴っていく。羽生氏のことをよく知っている人なら、おそらく既に分かり切っていることばかりかと思うので、ここで引き返していただいて結構だろう。それでも読もうというあなたは、自分のツボと重なる部分で「それな!」と相槌を打ってほしい。そして、羽生結弦やスケートのことはあまり知らないが偶然ここへ辿り着いてしまったというあなたは、とてもラッキーだ。これから彼のジャンプの秘密を知ることができる上に、それらを知っている状態で過去の試合やアイスショーの動画をこの先堪能することができるのは、羨ましいことこの上ない。そして、この記事の終盤になり、あなたはあることに気付くだろう。羽生結弦の凄さは、ジャンプだけではないのだということに。

助走がない?

フィギュアスケートという競技では、専用の靴を使用する。アーチ状になったブレード(刃)の上に靴が乗っており、ブレードのインサイドエッジ(内側)とアウトサイドエッジ(外側)を巧みに切り替えることで、スピードが出せるようになっている。羽生氏はこのエッジの切り替えが、スケーターの中でも非常に上手い。体力が落ちる演技後半でさえ、ぐんぐん速度が上がっていくほどである。

私を含め、人生でスケートを経験したことがない方もいると思うので、陸上での走り幅跳びを想像してみてほしい。いい記録を出すためには、助走を長めに取り、スピードを十分に出した状態で踏み切ることが大切だ。フィギュアスケートにおいても、離氷前に勢いを付けれられれば、回転の助けになり、ジャンプの成功率も上がるのではないかと考えられる。そこで注目してもらいたいのが、羽生結弦のジャンプではなく、『ジャンプの直前』だ。まずはこの動画を観てほしい。

平昌五輪FS『SEIMEI』

ご覧の通り、全てのジャンプにおいて、ステップやターンから綺麗に繋いで跳んでいる。これ以外のプログラムでも、ジャンプのあとにもターンをしたり、イーグル(両脚を大きく開いた状態で滑る動作)を入れたりして、随所に細かな工夫が見られる。羽生結弦の場合、繋ぎが助走を兼ねている、ということになるのだろうか。選手によっては、たっぷり2、3秒ほどを助走のために使う人もいる。それは当然のことであり、普通はそうしないと跳べないのだそうだ。だが、今のスケート界には助走が短い選手が多い。宇野昌磨なども、私がこれまで見てきたスケーターの中では、かなり少ない部類に入る。

ジャンプはあくまでも演技の一部

羽生結弦や多くのスケーターは、おそらくジャンプだけに重きを置いているわけではないのだと思う。もちろん、ジャンプは演技の中で最大の得点要素となるので、失敗すれば命取りとなり、順位に多大な影響を与える。フィギュアスケートの原点は、氷上に美しい図形(フィギュア)を描くことだ。それを音に合わせて、プログラムにぴったりの衣装で披露することが求められている。『跳ぶぞ……跳ぶぞ!』という気合いの入った助走中、その時間は音楽の表現を捨てていると言っても過言ではない。秒数としてはほんのわずかかもしれないが、ジャッジと観客はジャンプの度に身構え、曲と演技が刹那的に乖離してしまうのである。

映画やオペラを喩えに挙げると、分かりやすくなるだろうか。世界観が非常に大事であるため、途中で引っかかりを覚えるようなものがあれば、作品に集中できなくなってしまうかもしれない。あなたが海外作品を字幕付きで観ていたとしよう。
『あれ?この訳、何か変じゃない?』
『○○ってそんなこと言うかな……』
『キャラと口調が合ってないような気がする』
そういう疑問が出てきた時、瞬間的に作品の世界から追い出される。私は、これがフィギュアスケートにおいての長めの助走に当たるのではないかと考えている。

繰り返すことになるが、助走をするのは悪いことではなく、むしろ自然なことだ。敬意を示すための手段としてこの言葉を使うが、羽生結弦が『ちょっとどうかしている』のである。私の大好きな本の著者も、怪物・羽生のことをこのように述べている。

褒め言葉として使いますが、異常なレベルです。

高山真 著『羽生結弦は助走をしない
誰も書かなかったフィギュアの世界』

羽生氏をはじめとするスケーターは、現実的に考えて、ありえないほど高いレベルのスケートをやっている。ジャンプがプログラム全体に溶け込んで、シームレスな境目(継ぎ目)のない演技を生み出す。それがどれほど大変なことなのかを語れるほどの知識は私にはないが、陸上で1回転するのも大変なことなのに、それを氷の上で滑りながら・踊りながらやっているという事実に、全てのスケーターは超人的だなという畏怖の念を抱かずにはいられない。

羽生結弦の3Aを見てくれ

ここまで散々ジャンプの前後を見てくれと言ってきたくせに恐縮であるが、これだけは言わせてほしい。どうか、羽生結弦の3A(トリプルアクセル)を見てくれ。これさえ押さえていれば、『羽生結弦って凄いんだ!』ということが分かるはずなのだ。

アクセルは、6種類あるジャンプの中で、唯一前向きに滑走するタイプだ。そのため、初心者でも見分けやすい。選手が進行方向を向いたら、『あっ、これからアクセル跳ぶんだな』と思っていいだろう。このジャンプは、スケーターの得意不得意にもよるが、六つの中で最も難易度が高いと言われている。ジャンプは全て後ろ向きに着氷するよう定められているため(前向き着氷だとブレードが引っかかって100%転倒するそうだ)、アクセルを跳ぶ場合は前向きで入っているから、他のジャンプより半回転多く回らなくてはならない。たかが半回転と思うかもしれないが、スケーターからするとかなりキツいそうだ。しかも、回転不足は点数にも響いてくるので厄介である。回り切る前に足を突いてしまったり、着地後にしっかり回転を止められなかったりすると、減点の対象となってしまう。

アクセルのことを、羽生氏は『王様のジャンプ』と呼んでいる。彼が何故そのように命名したのかを考えてみた。左足を軸として右足を振り上げるようにして跳ぶのだが、トゥジャンプのように反対の足でサポートができないため、自ずと難易度は高くなる。他の五つのジャンプとは異なり、鳥が羽ばたいているような印象も与えることから、氏はこのような表現を使っているのかもしれない。
アクセルには2種類の跳び方があり、スキッドまたはプレローテーション(プレロ、プレロテ)タイプ、クリーンエッジタイプと呼ばれている。前者のスキッドは、『ジャンプ直前に回転をサポートする動作(横滑り)が入る』タイプだ。ただでさえ跳びにくいので、ここで勢いを付けておくのは、賢い判断だとも言えるかもしれない。
もう一つのクリーンエッジは、『サポートなしでそのまま跳ぶ』タイプ。羽生結弦は言わずもがな後者のスケーターであり、こちらの方が跳びづらい。振り返ってからすぐに跳ぶ3Aは悲鳴を上げるほど素晴らしく(動画では3:43辺り※三連続)、イーグルからすらりと伸ばした手足を一切の無駄なく使ってごく自然にジャンプする姿は溜め息ものだ。

補足しておくと、北京五輪で見せた羽生氏の4Aはクリーンエッジタイプだ。そして、最近公式試合で4Aを成功させたイリア・マリニン選手はスキッドタイプである。
マリニン選手には『4回転の神』という異名があり、長すぎる脚から繰り出されるクワドジャンプは非常に綺麗で、実に軽々と跳んでいるように見える。もしも羽生氏が北京五輪でスキッドからの4Aに挑んでいたら、おそらく成功していたのではないかと私は思う。ただ、彼は絶対にそちらを選ばなかっただろうとも感じる。筆者は氏の友人でも何でもないのだが、羽生結弦のスケートに反していることはやらないと断言できる。

私自身はどちらが優れているかということを議論するつもりはなく、目指すスケーター像の違いによるものだと認識している。あえて言及するのであれば、前者は慎重派(技の完成度重視)、後者は挑戦派(より高い得点を目指す)という風に説明できると思う。このように考えると、選手の性格が窺えて、鑑賞の幅も広がるのではないだろうか。

スケートの化け物に敬礼

物騒な表現ではあるが、おそらく大部分のスケオタが頷いてくれる文面ではないかと思う。どの辺が化け物だと感じるのかという個人的なポイントを、箇条書きで挙げてみよう。

・昨シーズンより確実に技の精度を上げ、さまざまなチャレンジを取り入れてくる(同じプログラムでも構成を難しくして、ジャンプの入り方なども前年より工夫を凝らす)

・ジャンプに対する絶対的な自信(そうじゃないと、あんなに助走を短くできない)

・自分の長所と短所を分かっており、失敗を必ず成功に繋げられる(セルフコントロールがずば抜けて上手い)

・他の選手を素直に賞賛し、スケートについて勉強しようとする姿勢が、もはや研究の域に達している(確か論文も発表している)

ざっと並べただけでも、「何か凄い」とならないだろうか。選手たちは全員モチベーションが高く、今年は新ルールに伴って、ジャンプシークエンスを取り入れたプログラムが多く見られた。羽生結弦の場合、大小のルール改正があろうがなかろうが、自らで目標を設定して、『昨年と同じようなことはやらない』ようにしているような印象を受けた。変わり映えしない演技では、自分も観客もつまらないと考えていたのだろうと思う。プロへ転向後の発言からも、私にはそのように感じられた。

最後に、一つだけ動画を紹介させてほしい。羽生結弦の幼少期から近年までの3Aが見られる動画である。

ジャンプが年々レベルアップしているのがお分かりいただけただろうか。高さと飛距離の段階的な成長が見られ、成功率が上がったのはもちろんのこと、コンビネーションが付けられるようになったり、着氷後にターンを入れられるようになったりと、確実に進化している。動画を観ていると、『羽生くん、上手くなったねぇ……!』と涙が込み上げてくるほどだ。

小さい頃から3Aに挑めるガッツと技術には驚きを隠し切れないが、「真央ちゃんのアクセルを見て真似したら跳べた」と語ったらしい羽生少年は只者ではない。やはり、最大限の尊敬を込めて、こう言わせてほしい。天使や王者を通り越して、もはや化け物だよ、と。

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