ユリイカ「クイズの世界」の感想



はじめに:なぜ「クイズ特集」の感想を?


https://live2.nicovideo.jp/watch/lv329643973


今日こちらの再放送があるらしいので、拝読・拝聴直後に書けなかった感想をまとめていきたいと思います。


こちらの記事でも、ユリイカのクイズ特集については触れています。
「本当に公平な大会や審査会がこの世にあるか?」という懐疑について述べるのに、喩えとしてわかりやすいと思ったので、少々乱暴な形ではありますが引用しました。

いや本当に乱暴なんですよね……それが悔やまれるので、やはり単体として感想をまとめておこうと思いました。

https://www.amazon.co.jp/dp/4791703871

初めに申し開きしておきますと、私は大学入学直後に友達になった子に、「高校でクイズやってた。本当はクイズのサークルがある大学に行きたかったけど、留学もしたかったのでこっちを選んだ」という子がいて、そのとき初めてクイズが競技として成立していることを知りました。
その子が、何かの大会に参加したのでしょうか? 「もっと押したい~!」とツイートしているのを見て、そんな感覚あるんだ……と思ったりしました。

今はクイズプレイヤーのプレイ感覚に関する文章をいくつか読んだ影響で、実際にやってみたい! となって、大学時代の先輩後輩がウダウダしているLINEグループの名前を「〇〇大学クイズ部」と書き換えて週に1回、集まったり集まれなかったりしてオンラインで遊んでいます。

あとは会社でTOEICのテストが必要になるらしい姉に、年末実家の店番をしているときに「これ、英語で何て言うと思う?」というクイズを出してあげてるくらいでしょうか。
姉は素直な性格なので、間違えても私の長たらしい解説を喜んで聞いてくれます。

注釈しておくと私は、「ヨーロッパの白地図見てもイギリスとイタリアしかわからん」と言っている友達に頼まれてもないのに「歴史的・文化的背景から遡上していけばイギリスとイタリアだけしか位置覚えてなくても後は埋めれる!」と勝手に解説を始めるような人間です。
(家族、友達、昨年はお付き合いありがとう。今年もよろしく)

こういうのは「知識マウント」と呼ばれて最近は嫌がられてしまうことも多いそうで……実際、会社員時代には特に「お前と話していると見下されている感じがする」と言われて、「そんなつもりないのに……」と悲しくなったり、「いやてめーの人間の小ささをこっちのせいにすんなカス」とキレていたりしました(素直)(いやひねくれてるよ)。

そういうわけで批評としては少しピントのズレた内容にはなってしまうかもしれませんが、こういう悲しい感覚って何なのかな、ということを解きほぐしていく助けにもなったので、そういう視点で感想をまとめていきたいと思います。

また、せっかくなので私が今後もリアルに接地していくことになる「ポエトリー・スラム」の文化と対比して、どういった部分が今後のスラムの形式に有用かということにも繋げていきたいと考えています。


前置き:「文化にする」ということ~議論と歴史化の必要性と可能性~


目次を見て既にウゲッとなった人もいるかもしれないのですが、「クイズと学歴」という話題に触れるにあたっては、「学閥主義」や「平等教育」といった、幾分きな臭いワードを登場させずにはいられませんでした。

この特集・対談が世に出た直後に、「純粋にクイズを楽しんでいただけなのに、いきなり難しいことを言い出して水をささないでほしい」という旨の批判をちらほらと目にしてしまったもので、そういうところは敏感になります。

これはもしかしてポエトリーリーディングの界隈からこの記事を覗いて頂いている方も、先日のKSJの地方大会終了後、「そもそもポエトリーとは」「詩朗読とは」という議論がTL上で巻き起こっていたときに、感じられていたことではないでしょうか。

まず前提として、議論が起こるということは、文化が形成されていく段階で非常に重要であると私は考えます。

議論は論争という言葉のイメージから、暴力的なものだと誤解されがちですが、本来、平和な状態でしか行うことができないものです。
逆に議論が全く発生しない場というのは、沈黙の内に一方が他方に抑圧されているという疑いを持って見つめてみた方がいいと思っています。

とはいえ、議論には作法があり、それを逸脱した言い争いや、「外野からのナンセンスな誤解」というのは確かに人を不快にする、許されるべきではない醜悪さがあることも確かです。

安直な批判も、安直な沈黙も避けるべきです。

「わからずに言ってしまっている可能性もありますが、恐れず言わせてもらいますよ」
「それは本当にわからずに言ってますね。説明してあげます/こっちを読めばわかりますよ」
くらいの温度感で始めるのが、私はいいんじゃないかと思っています。

ただこの「こっちを読めばわかりますよ」という部分が、いわゆる「アングラ」(対談の中でも出ていた言い回しだったと思います)に端を発する文化においては、過去を歴史として振り返り議論するという観点において、一次資料の不足が難点になります。

この感想を書くために、こちらの対談の中で紹介されていたこちらのテクストを参考にさせて頂きましたが、このような形で成文化されるということがまず少ない文化(むしろ、文化として認識されていないから先行研究がない)というのは、率直に言って議論が「やりにくい」という単純な点でも、発展を遮られる危険があります。

https://genron-alpha.com/sb003_18/

対談の中で、一次資料と呼べるものが「みんなに読ませるつもりではない文章」「mixiの痛い参戦記」くらいしかないという話が出ていましたが、これは私がポエトリー・スラムの歴史を振り返ろうとしたときにも同じ現象に出会いました。

各地の詩朗読会に出向くと、「詩のボクシング」「スポークン・ワーズ・スラム」というワードが登壇者の口から当然のように飛び出すのですが、それについて文献を探そうとしても、それこそ鍵付きのmixi日記くらいしかなく、当時その日記を書いていた人はTwitterやnoteに移行してしまったりして、掘り起こす手段は皆無に等しかったのです。

実はこういう経緯もあって、KSJ名古屋大会に関しては、ほとんど意地のような気持ちで自分なりに「痛い参戦記」を書いて残したのでした(笑)

PSJから生まれ変わったKSJではコロナ禍の時代において、オンラインでの配信という選択を迫られました。
結果として、偶発的に、地方大会の配信から傾向を読んで勝つための「対策」ができるという事態が起こったことについては、他の方も触れられていたと思いますが、これは今後のスラムの在り方を大きく変えていくと個人的には考えています。

初回から全大会の映像記録が残るオールジャンルの「コトバのスラム」は、「表現の大会(展覧会・品評会・審査会)」の形を保つことができるのでしょうか?

この問いかけを言いかえると、こうです。

こういった形になった以上、「ポエトリー・リーディング」「詩朗読」「スポークン・ワード」は競技として成立する可能性があるのでしょうか?


「コトバ」は競技になるか?~クイズの持つ「非競技性」への指摘から考える~


さて、ユリイカ『クイズ特集』の徳久氏の論考「競技クイズとは何か?」において、「『競技クイズ』なるものは存在しない。せいぜい、競技のふりをしたクイズがあるだけだ」という指摘を受けるまで、私はクイズというものの公平性を無邪気に信頼していましたし、何なら「私はコトバという誰もわけのわからんジャンルでわけのわからん表現をして同じくわけのわかっていない聴衆や審査員から評価を得ないといけないなんてもうなーにがなんだかわけがわからなくてしんどいなあ」くらいに思っていました。

「クイズくらいに正解したら勝ち、間違えたら負け、という誰もがわかるはっきりとしたルールなら努力のしがいもあるだろうに(その分、極めたところでは能力さが露骨に出て心が折れちゃいそうだけど)」なんてことを考えていました。

同論考における、「その性質上、クイズは、公平・公正な協議からかけ離れた営みにしかなりえない」という指摘の「何故」は、上で紹介した「国民クイズ2.0」における同氏の説明に回帰してくるところなのではないかと見ています。

クイズは形式としてはグローバルに親しまれている遊びだが、設問、つまり内容のレベルでは、言語や文化によって強い制約を受けている。そのためいかに高度な争いがなされようと、共同体の外部にはそのレベルが伝わりにくい。クイズは、「参加者が知っていると期待される知識」が想定できない環境では成立しないのだ。一例を挙げれば、日本人にとって、江戸幕府の初代将軍は小学生でもわかる常識だが、ひとたび海を越えれば、世界史上の瑣末な事項となる。逆もまたしかりである。

これを受けてユリイカの論考における、「一般社団法人日本クイズ協会」が設立された際に「ランキングの認定」「クイズ検定」に、プレイヤーから危惧する声、反対意見が示されることになったという歴史(といっても2016年の話である)についての記述を読んでみますと、「クイズそのものが、世界に対する価値判断を含む営みだからではないか」という仮説も、なるほど大げさではないものかもしれないという実感を得ます。

さて、この指摘を受けて「コトバは競技になるか?」という自身の疑問に立ち返るとき、同論考内で、特に「スポーツにおける採点競技とは異なり、クイズにはプレイヤー側の主体性を発揮する余地が極めて乏しい」という点がクイズの「競技らしくなさ」を強調する根拠として挙げられていることにも触れておかなければならないでしょう。

ところが大会の「対策」というものが可能になってきたとき、このパフォーマーの主体性は疑わなければなりません。

ほとんど思い付きのような自分のパフォーマンスについて、いつまで自作改題をするんだとお叱りを受けてしまうかもしれませんが、現代詩人という自覚を持っていた詩人が「スラムで勝たせてもらう」ために「詩を捨てる」という決断をする、ということが今後十分に起こり得るという警鐘(あるいはもっと単純な指摘)の意味も含んだ「オープニング・アクト」であったわけです。

パフォーマーの主体性を担保するための「三分間」が、確実に多くの票を獲得する対策に終始するものに変わった結果、一人一人の投票者に散っているたった一票の「投票権」に取って変わられてしまうわけです。

「ポエトリー・リーディング」でも「スポークン・ワード」でもない、「現代詩の朗読」にも限らない、「漫才」や「演劇」の侵略すらをも許す、「言語表現パフォーマンス」という最も自由な出場要件は、もっとも窮屈な構造を作り出す可能性を秘めています。

それを受けて、
アマチュアクイズの大会が「基本問題の制定」によって、競技色を強めていったことに倣うのか、
各型式の技法の体系的な整理に努め、採点項目を細分化していき、それに沿った解説を付けていくのか、
あくまで投票者の審美に委ねる体制を貫くのか……

ちなみに最後の一つになった場合を見越して、私は自身の詩を問題文にして、受験国語のように問題を出し、解答と解説も自ら行うことによって、読者との間に感性の共同体を形成してしまおうという皮肉程度にしかならないけったいな試みを始めるというオチを付けています(「正解のある文学」の連載も2回目を更新しております)。


まあそんなおふざけはさておき、「言葉の表現」それ自体の「発展」を意識するのならば、こんなところにも一考の価値はあるのでしょうという所感でした。


「クイズは役に立つか?」という疑問から考える~教育に利用される遊戯と芸術~


ニコニコの放送でも、誌上の対談でも話題に上がっていたと思うのですが、「クイズをやっていて何か役に立つんですか?」という疑問がプレイヤーに投げかけられていることの意味についてそもそも考えるべきだという記述が特に興味を引きました。

徳久 「役に立つんですか」と聞かれるのは、そもそもクイズが舐められている。
伊沢 文化としての成熟度の低さを暗に指摘されているような気分になっていたんですよね。クイズが遊戯としてしっかり確立されていればそんなことは聞かれないわけで。
P62

この部分を読んで、私が個人的な経験から想起したのは、「社会派演劇」というものに遭遇し、一時にはその脚本を書く試みをしていたときに感じた違和感でした。

ダンスと殺陣を組み込んだエンタメ色の強い劇や、芸術性の高い劇に比べて、社会派演劇には単純な「娯楽」でも「芸術」でもない、啓蒙的側面があるように見え、若さゆえに精神がささくれだって尖りに尖り狂っていた自身にはこれがどうにも吞み込みがたい部分がありました。

演劇部の部長をしていた時期もあったので、その際には多いに著書を参考にさせて頂きながらも、平田オリザ氏の、演劇を教育の現場で「役立てていく」というような活動にも疑問を覚えずにはいられませんでした。

同じ平田オリザ氏の本で、私は「ミュージカル以外の現代口語劇というものは、劇場の規模から逆算してそもそも採算を取れるようになっておらず、演劇人という職業は成立しえない」という現実を突きつけられ、衝撃を受けたのですが、経済的に価値を持ちえない演劇が、この国で文化的に生き残っていくためにはどうすればいいのか? という部分については、思考が浅かったとしか言えません。

当時、日本の劇のルーツはロシアにあるんだと教授に唆されて単身ロシアに乗り込んだり、イギリスに留学してその演劇文化に感化されていたこともあって、「外国はもっと、演劇に政府が金を出すのが当たり前になっている。政府が金を出さなきゃダメだ!」というような安直な批判に落ち着いてしまっていたのです。

平田氏の活動がそういう理念に基づいているかはわかりませんが、クイズのような「遊戯」性は持たず、「娯楽」として成り立ったとしても経済的価値を持たない演劇をどのように社会に組み込んでいくかということを考えるとき、「役にたつかどうか」という疑問が、未成熟な文化に対して投げられがちであることを、「どのように(生存戦略として)利用していくか」ということは一考の価値があると思います。

その観点でいうと、伊沢氏は論考の中で、自身の設立されたWEBメディア「QuizKnock」の立ち上げ動機の一つは「学生のクイズの作成バイトに払われる賃金が安すぎる」ということだったと説明されていましたが、別のインタビューでは同人文化であったクイズに「経済の論理を働かせる」という意図があったという言い回しがされているのも読みました。

http://www.inden.ne.jp/dekiroute/archives/6203

この部分について、最初はどうしてそれがクイズ文化そのものの発展に繋がるのかというところまでピンと来なかったのですが、先日テクスト論の入門書として「読者はどこにいるのか──書物の中の私たち(河出書房新社、2015年)」を読み返していたとき、以下のような言説を見つけたことが少し考えるヒントになりました(発信者の意図と一致しているかどうかは別にして)。

そのようにして、私たちは旧時代の教養主義の崩壊という代償を払って、大衆消費社会の読者となったのである。(中略)いま私たちはかつての教養主義時代の読者とは違って、分厚い層をなした消費者として、書き手に自分たちを意識させるだけの権力と政治力を持ったのだ。

インタビューの原文では「業界への問題意識を抱えていた」「具体的にいうと、外の社会に訴える力が少ないことや、経済の論理がそこに介在しない点が問題」「クイズの世界というのは狭いんです。だからこそギブアンドテイクが成り立つので良い意味でもあるのですが、そういう側面が悪い意味でもあるのは事実です」となっていますので、「クイズの作問」というものの労働価値が知られていないために起こってしまう不当搾取への抵抗という側面がまず第一には読み取るべき部分だと思いますが、一方で、一つの文化が未成熟であり、文化として認められないとき、社会に組み込む一つの手段として「経済の論理を働かせる」というのはなるほど有用に違いないだろうという気づきを得ました。

それが本質ではないでしょうが、「お金を稼いでいる」人に対して、「何の役に立つんですか?」と訊いてくる人はいません。
発展のためには議論が必要であり、議論のためには歴史の記録(掘り起こし)が必要であるという話をしましたが、それには時間と手間(つまりお金)もかかりますし、資料収集のためのリソースを得るためにも、一つの文化を発展のために経済に参画させるという方法論は有用であるように感じました。

その点、演劇は「経済化」の部分がどうにも難しいとなった結果、「教育」の役に立つということが一部で選択された部分があるのではないだろうかと思いました。

さて、教育の話をするならば、先述の理由で立ち上げられたQuizKnockはまさに「身の回りのモノ・コトをクイズで理解する」をコンセプトとした「教育事業」の会社です。
(ちょっと今手元に本がないのですが、「教育事業」という言い回しをご本人が著作内でされていたと思います)

クイズと教育、この話題に触れるとき、気は重いですが次のテーマにも触れておかなければならないでしょう。

※この先有料にしてますが自分の個人的な自分語りが恥ずかしくなった以上の意味はないです。すみません…。


クイズと学歴~想像の共同体を移動するということ~

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1本の記事を書くのに大体2000~5000円ほどの参考文献を購入しているので完全に赤字です。助けてください。