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【54】私にとっての勉強というもの

勉強について考えてみる

どんな領域でもそうだと思うが

学ぶということは

自身の中では

「モヤをとって輪郭をはっきりさせる」

そういう作業だと思っている

分からない状態や

知らない状態は

なんとなくモヤがかかってるイメージ。

はっきり見えないイメージ

例えばそういうものと向き合う必要がある場合に

霧がかった道は歩きにくいだろうし

そもそも歩くべき道も見えにくいような気がする

分からないことはわからない

知らないことは知らない

当たり前の事かもしれないが

これでは身動きが取れない

出来る範囲での

見える範囲での

行動をすることしか出来ない。

さらに

そのモヤがかかったものに対して

目を背けたり

背を向けたりもする

モヤが取れることもないし

道が出来ることもない

学ぶことは

広げること

モヤをとってはっきりと物事に向き合うこと

道の数を増やすこと

そう思う。

車の運転をしていてそう思った。

信号のルールを学ぶことが無かったら

事故を起こすかもしれない

車を知らなかったら

自分が乗っている鉄の塊は一体何なのだろう

スマホってなんだろう

この人はだれだろう

学びが無ければ

物事を知らなければ

きっと不安になるだろう

机上の勉強だけの話ではない。

記憶喪失の人を映画やドラマでも見たことがあるだろう。

自分が当事者だったらどんな気持ちになるのだろうか。

目の前に知らない人がいる

自分のことがわからない

その時人は

「不安」

になるだろう。

タイムスリップもい例ではないだろうか

自分の生活していた環境と

時空間を超えた知らない場所では

知らない人が

知らない道具を使っている

知らない仕事をしている

そんな時もきっと

「不安」

になるだろう。

加えては

そんな「不安」に感じている人のドラマなんかでは

少しづつその環境に適応していったり

それなりに状況を受け止めて

充実した表情で楽しんでいくような映像を見ることもある

知る、学ぶ、慣れる

これらは

「不安」を解消して

「楽しむ」を提供してくれているような気がする

話が脱線してしまったが

ごちゃごちゃした頭の中で

学ぶことがの重要性をなんとなく考えることが出来た。

勉強することは、私にとって

「モヤをとってはっきりと物事を見つめるためのメガネ」

のようなものである。

知らなくて目を背けているものが沢山ある

仕事、学校、税金、社会問題、人間関係

自分が抱える物や事。

分からないことを

分からないままにしておくと

問題は解決しないし

とるべき行動もとれない

知らないことを

知らないままにしておくと

本当のことを知ることが出来ない

究極は

大切なものを守ることが出来なかったり

失ってしまうこともあるのかもしれない

反面

分かることで

守れる物や救えるものもある

医療の現場がわかりやすいだろうか

病気が解明されていれば

救える命があるのだろう

「あいさつ」を

漢字で書くことは出来るだろうか。

私は出来ない

そういうことから始めていこう

そんなことを思っただけの話である。

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