『メイドさんと百合についてのアンソロジー』「さえずりメイド3本勝負」考察ーギリシャ神話・聖書と比較してみたー〈後編〉

2024年6月9日に公開した前編記事では、百合マンガ作品集『メイドさんと百合についてのアンソロジー』から「さえずりメイド3本勝負」(七路ゆうき 作)の感想や考察を記しました。

後編記事では、本作を読んで私が共通性を感じたギリシャ神話や旧約聖書のエピソード、他作品との比較を記していきます。

1. ギリシャ神話

⚫ 「黄金の林檎」をめぐるエピソード

ギリシャ神話には「黄金の林檎」が登場するエピソードが複数伝わっており、ここでは「さえずりメイド3本勝負」との関連で、「パリスの審判」を特に取り上げたいと思います。(他のエピソードとしては、ヘラクレスが巨神アトラスを騙して黄金の林檎を取りに行かせる「ヘスペリデスの園」、求婚者が徒競走に勝つために黄金の林檎を用いた女狩人「アタランテ」が挙げられます。)
 なお、私は西洋古典学(古代ギリシャ・ローマに関する学問)の専門家ではないため、エピソードの解釈は専門の研究者の見解とは異なるかもしれません。また、研究者による学術論文においては神話の固有名詞を古典ギリシア語の原音に近い長母音表記で表しますが(例:ヘラクレス→ヘーラクレース、ちなみに「ギリシャ」も「ギリシア」と表記する)、私は読みやすさを優先して長母音を省略した慣用表記を用います。

⚫ パリスの審判

あらすじは以下のとおりです。

ある日ペリオン山中で、海の女神テティスとペレウスの盛大な結婚式が行われていた。この結婚式には全ての神々が招かれていたが、争いの女神エリスだけは招かれなかった。怒ったエリスは、「最も美しい女神に」と書かれた黄金の林檎を宴席に投げ入れた。
 これを見たヘラ、アテナ、アプロディテの3女神は、その林檎は自分宛てのものだと主張して譲らなかった。主神ゼウスは彼女たちの仲裁のため、審判をトロイアの王子パリスに一任することにした。
 ヘラは「全アジアの支配権」を、アテナは「戦いにおける勝利と知恵」を、アプロディテは「地上で最も美しい人間の女」をパリスに与えると告げる。パリスはアプロディテを選び、人間界随一の美女ヘレネを得る。しかしヘレネはすでにスパルタ王宮で暮らす人妻であり、パリスとの結婚は半ば略奪婚のような形であったため、後のトロイア戦争の原因となる。

 専門的な話ですが(この段落は読み飛ばしていただいてもかまいません)、フランスの神話学者デュメジル (1898-1986) は、ギリシャ神話を含むインド・ヨーロッパ語族の神話には「主権」「戦闘」「生産」の三層構造(「主権」が高位、「生産」が下位)が見られるとする「三機能仮説」を提唱しています。「パリスの審判」においてはヘラが「主権」、アテナが「戦闘」、アプロディテが「生産」の機能をそれぞれ担っていると考えられます。この解釈では、パリスは最下位層である「生産」を選んだためにスパルタとの「戦闘」に敗れ、トロイアの「主権」をも失い国を滅ぼしたことになるでしょう。
 また、精神分析を提唱したフロイト (1856-1939) は論文「小箱選びのモチーフ」において、シェイクスピアの戯曲『ヴェニスの商人』と『リア王』における「3人の女性から1人を選ぶ」という共通したモチーフを取り上げ、このような場面は「運命を選択できない人間によるささやかな抵抗」(=人間はすべからく死すべき存在であるにもかかわらず、表面的には運命の選択を許されるが結局は運命に逆らえない)を示すとし、「死」を象徴する最も地味な女性を選ぶべきなのに選ばなかったために破滅に向かうというテーマが象徴されていると論じています。「3人の女性から1人を選ぶ」というモチーフは各地の神話や伝説などに多く見られると彼は指摘していて、「パリスの審判」もこの類型に入るでしょう。この解釈では、「最も地味でない(=美しい)」女性を選んでしまい、結局は国の滅亡と死に向かうというパリスの抗えない運命が示唆されていることになると思います。

「さえずりメイド3本勝負」に話を戻すと、作品のモチーフになっている「林檎」と「勝負」、「3」という数、そして「選ぶ」という行為に「パリスの審判」との共通性が感じられました。
 特に「選ぶ」というモチーフに関して、本作の「ヴィルトゥエルの経営者の息子ダニエル氏」か「ツグミ」かを選ぶシーンでは、カナリアお嬢様は高い地位や名誉を得られそうな「ヴィルトゥエル」の玉の輿に乗ることではなく、今お屋敷の中にある「ツグミ」と過ごす時間を選びます。「ありがとう 僕の幸せがなんなのか…やっと確信できたよ」と彼女は言っていて、この選択はツグミとの甘やかな時間の継続、そして今後の人生の幸せに結びつくのだと思います。一方「パリスの審判」のパリスは、大国トロイアの王子という身分が保障されているにもかかわらず美の女神アプロディテ(そして人間界一の美女ヘレネ)を選び、結果的にトロイア戦争と自身の破滅を招きます。この物語で示唆されているテーマは「身の丈を越えて世俗的なものを追い求めると破滅に繋がる」ということではないでしょうか。ここから「地位や名誉より今ある幸せを選ぶことが大切」といった価値観が生まれると思いました。ヴィルトゥエルではなくツグミを選んだカナリアお嬢様の選択は、そしてお見合い話を受ける手紙の代筆を拒否したアトリの行動は、きっと正しかったのでしょう。

2. 聖書(旧約聖書)

聖書において「林檎」(あるいは「実」)が登場するエピソードといえば、「創世記」の「アダムとイブ(エヴァ)」でしょう。アダムとイブが食べてしまったものは、後世においては「林檎」とも考えられるようになりましたが、聖書(新共同訳)を見ると「実(果実)」となっています(「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。」(創世記 3:2))。また、英語のappleやフランス語のpommeは「林檎」のほか、(林檎に似た)果実一般も指すことがあります(pomme de terre「ジャガイモ」、Adam's apple/pomme d'Adam「喉仏」)。
 ちなみに「旧約」「新約」はキリスト教による「(イエスの十字架処刑後の)神との契約」以前/以後という概念であり、「旧約聖書」はユダヤ教・キリスト教共通の聖典ですが、「新約聖書」はキリスト教独自の聖典であり、ユダヤ教は新約聖書を聖典と認めていません。「アダムとイブ」の物語が記された「創世記」は旧約聖書に含まれています。

⚫ アダムとイブの「禁断の木の果実」

あらすじは以下のとおりです。

神に創造された最初の人類で男のアダムと女のイブはエデンの園で木の実を自由に取って食べ、一糸纏わず暮らしていたが、園の中央にある「善悪の知識の木の実」だけは食べることを禁じられていた。あるとき、最も賢い蛇がエバに近づき、禁断の実を食べるようにそそのかす。蛇の口車に乗せられたイブはこの実を取って食べてしまい、アダムにも実を渡してしまう。するとふたりは、裸でいることに突如として羞恥心を覚え、いちじくの葉で腰を覆う。
 事態を知った神はアダムとイブを問い詰めるが、アダムはイブに、イブは蛇に責任をなすりつける。神はイブを誘惑した蛇にまず罰を与え、続いてイブ(女)に「生みの苦しみ」を、アダム(男)に「労働の苦しみ」を与えて罰する。さらにすべての人間に命の期限が定められ、ふたりはエデンの園を追放された。

 ギリシャ神話の「パリスの審判」におけるテーマとも共通しますが、「アダムとイブ」の伝承にも「身の丈を越えた高みの追求が破滅を招く」というテーマが暗示されているように思います(私はクリスチャン・ユダヤ教徒ではなく、聖書学の専門家でもないため、信者の方や研究者の解釈と違っていたら申し訳ないです…)。つまり、イブはエデンの楽園での穏やかな暮らしを神に許されていたにもかかわらず、身の程を知らない一時の好奇心から誘惑に負け、失敗を犯してしまい、神の怒りを買ってしまう。イブは「善悪を知る」神の領域に近づくことに憧れるのではなく、「エデンの園」という自身の居場所、箱庭にある幸せに目を向けるべきだったのです。「地位や名誉の追求より今ある幸せを大切にすべき」という価値観が「パリスの審判」、「アダムとイブ」、そして「さえずりメイド3本勝負」に通底して流れているのではないでしょうか。(私の大学はキリスト教の授業が必修科目で、1限と2限の中休みに礼拝の時間があったのですが、この章を書いていたら大学礼拝の説教のようになってしまいました(笑) 学生時代が懐かしいです。)

3. その他文学作品・コンテンツとの比較

以下はテーマ的な共通点を見出せたものではありませんが、世界観が似ていると感じたので挙げたいと思います。

味楽みらくる!ミミカ』(春日あかね 原作、NHKEテレの料理番組)
 お嬢様の主人公美味香みみかと「料理」というテーマが「さえずりメイド3本勝負」と共通していると感じました。(15年以上前の放送なので一次資料がなく、記憶だけが頼りです…(放送当時私は小学生でした))

『GOSICK - ゴシック -』桜庭一樹さくらばかずき 作)
 金髪碧眼で妖精と見紛うほど美しくありながら老婆のようなしわがれた声の少女ヴィクトリカは、かつてメイドをしていた"灰色狼"コルデリア・ギャロの娘にしてブロワ侯爵家のお嬢様。ヴィクトリカの住むソヴュール王国には極東の島国(日本)から帝国軍人一家の三男久城一弥くじょうかずやが留学してきます。「さえずりメイド3本勝負」のカナリアお嬢様はヴィルトゥエルとのお見合い話を断りますが、ヴィクトリカは周囲から恐れられ敬遠される自身を友人として扱ってくれる一弥をかけがえのない相手として選んでいます。
 ヨーロッパの貴族階級のお嬢様やそこに仕えるメイドが登場したり、お嬢様のもとにパートナーとなる相手が現れたりするというストーリーに共通性を感じました。


参考文献

  • Wikipedia(日本語版)
    ・「ジョルジュ・デュメジル」
    ・「パリスの審判」
    ・「味楽る!ミミカ」
    ・「GOSICK - ゴシック -」

  • 七路ゆうき 作「さえずりメイド3本勝負」-『メイドさんと百合についてのアンソロジー』, 一迅社.

  • 豊田和二 監修『図解雑学 ギリシア神話』, ナツメ社.

  • 鈴木晶 著『図解雑学 フロイトの精神分析』, ナツメ社.

  • 日本聖書協会 発行『聖書』(新共同訳)

  • 大島力 監修『図解 聖書』, 西東社.


<後編は以上です。>
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!!


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