マリオネ・テスタと空欄[K]　第二話

怪物と対峙した眞紘は、神社の境内で目が覚める。そこには、右腕を失ったままの散歩と未夕がいた…。

『マリオネ・テスタと空欄[K]』

著・亮月冠太朗　　絵・市川正晶

「……」

「……」
　神楽坂散歩(かぐらざか　さんぽ)を見失った。慣れない都会のひといきれに参ってしまったようだ。その点では、体調を気にする必要のない彼女たちが羨ましい。
　ガードレールに腰掛ける。胸ポケットから煙草を取り出す。少し休もう。
　煙が肺を満たす、頭が冴える。
　未夕(みゆ)はもう、彼に会っているのだろうか。彼に何を話すつもりなのか、何を聞くつもりなのか、それがわからない。ただひとつわかることは、あいつと彼女たちの両方を、止めなければならないということだ。
　頭を使え。利用できる奴は誰でも利用しろ。靴底で煙草の火を消す。俺は冷静だ。
　焦る必要はない。安心しろ、自分は彼女たちとは違う。
　俺には時間があるのだ。

＊二日目＊

　使い古された言葉がある。

「何事も時間が解決してくれる」

　自分の犯した過ちもいつか赦される。或いは、他人の過ちもいつか赦すことができる。
　それが本当ならば。
　罪を赦されないためには、僕たちは同じ罪を繰り返し、繰り返し、犯し続けなければならないのだろう。
　僕は、だから盗み続けるのだ。罪という強い意識で繋がっていたいから。ずっと、ずっと、君と繋がっていたいから。莉瑠――
――目を開くと、薄暗い夜空に月が浮かんでいた。

「気がついた？」

　黒い影が覆い被さり、目の前から月が消える。兎鷺(うさぎ)未夕だ。

「散歩ちゃんが助けてくれたんだよ。ヒロくんのこと」　

　散歩ちゃん？　助ける？　……そうか。そうだった。
　僕は襲われたのだ。霊園で、大きな怪物に襲われたのだ。莉瑠に似た……。

「あの怪物は？」

　からだを起こすと大きな社が視界に入る。自分は参道の真ん中に寝そべっていた。

「大丈夫。境内には入ってこれないから」

　散歩ちゃんが見張ってくれてるし。
　鳥居の上に人影を見つけた。ポニーテールが風に吹かれ、さわさわと宙を泳いでいる。散歩というのか。彼女はこちらに気づき、からだの向きを変えた。

「おはよう。災難だったわね」

　そう言いながら鳥居を蹴る。宙を一回転し、僕らの頭上を越え、参道に降り立った。

「未夕。薬。そろそろ飲んだ方がいいよ」

「ううん。ギリギリまでとっておきたいから」

　忘れないようにね。そう言って兎鷺の肩に手を置く。もう一方の側では、肩口の露出した袖が、かろうじて肩に引っかかったまま、ひらひら所在無さげに揺れている。
　散歩の右腕は失われたままだった。見間違いではなかった。やはりあの時、宙を舞っていたのは彼女の腕だったのだ。きっとあの怪物にやられたのだろう。
　肩の皮膚が破れ、そこから筋繊維のような赤い紐が飛び出ている。しかしそこから血は滴っておらず、止血をした跡もない。
　僕は奇妙なものを見るように――実際に奇妙なものを見ているのだが――彼女を凝視していた。それに気づいた三白眼が僕をとらえ、は、と胸を張る。

「あんたと何も変わらない。ただ本当のからだじゃないってだけよ」

「ご、ごめん」

「どういたしまして」

　彼女は尻ポケットに詰めていた缶コーヒーを取り出し、片手で器用にプルタブを開けた。

「あの怪物は、なんなの？」

「見たまんま怪物よ。それ以上知ってどうするつもり？」

　私の代わりにあんたがあいつと戦ってくれるの？　缶に口をつけて仰ぎ、体内へ注ぐようにして飲む。一口。そして、縁に僅かに入ったコーヒーを啜る。

「散歩ちゃん。言いすぎだよ」

　兎鷺が僕と散歩の間に割って入った。

「……ごめんなさい」

　疲れてるの、少し休ませて。散歩は僕たちをよけ社の階段を上り、拝殿の扉を開けた。

「ちゃっちゃと帰った方がいいわ。あの辺りはだいぶ荒らされたから、あんたのとこの墓も危ないかも」　

　あそこに居た何人が死んだかわからないから。あんた、運が良かったわね。そう言ってまた縁を啜った。癖のようだ。
　彼女の言に従うとしばらく墓参りが出来なくなるだろうか。それは僕にとって良いことか、悪いことか、どちらだろう。
　って、あれ。　

「霊園に居たのは僕ぐらいだったと思うけど」　

「……やっぱり。気づいてないんだ」

　好きになれないわ。横目で僕を睨む三白眼が、拝殿の闇に沈んでいく。扉が閉まり、直後に缶が地面に叩きつけられた音が響いた。壁かもしれない。

「ごめんね。根は優しい子なんだけど」

　いや。優しいとか優しくないとかいう問題ではないように思う。そもそも相手にされていない。それは当たり前で、赤の他人の自分にここまでよくしてくれる兎鷺が異常なのだけれど。赤の他人とは思えないことには目を瞑っても、だ。
　まるで、ずっと前から僕のことを知っているような、そんな温もりを感じる。肌と肌との距離感という無粋で物理的な意味も含めて、彼女は僕の近くにいる。それを拒むことができないのは、僕が彼女の中に莉瑠を見つけているからだ。
　顔を上げる。目が合う。彼女が微笑む。半月の中の瞳が、僕の頭の中を悪戯っぽくくすぐる。

「ねえ、少し話そうよ」

「うん」　

　少しずつ彼女に惹かれている自分がいた。いや、包み込まれていると言った方がいいかもしれない。　
　時間を確かめようと携帯を取り出したが生憎、電源が切れていた。

「八時だよ」

　兎鷺が腕時計を見せてくれた。

「八時。まだ喫茶店とか開いてる時間だね……」

「ごめん。私お金持ってないんだ」

「お金ならあるよ」

「盗んだお金でしょ？」

　上目遣った丸い瞳が、皮膚を通り過ぎて僕の心臓に触れる。

「使えないよ」

「……そう」

「おうちに行きたいな」

　うん。え？

「ヒロくんのおうち。だめ？」

　……だめじゃない。
　全然、だめじゃない。　

　親はまだ帰ってきていなかった。兎鷺を先に自室に通して、キッチンでコーヒーを淹れる。お湯が沸くのを待っているうちに、今の自分の状況を整理する。
　数時間前にはじめて会った女の子と、家でふたりきり。

「面倒くさい事になったな。なんか」

　という呟きに反して、心の内では何かを期待している自分がいた。僕は何かを期待している。彼女の矮小な体躯を頭に思い浮かべ、すぐに消した。そうじゃない。
　たぶん僕は、自分の部屋に彼女がいることで、仮初めの過去を手に入れたつもりでいる。自分の中にある莉瑠との思い出に触れられるのではないか。これはそんな期待なのだ。
　部屋に入ると兎鷺は床にお尻をついて、そこいらをきょろきょろ見ていた。

「ちょっと寂しい部屋だね」

「趣味とかないから」

　親譲りのコーヒーくらいか。それにしても道具一式はキッチンにあるので、部屋にはせいぜい淹れ方についてのハウツー本を置いているくらいだ。
　彼女はありがとう、とコーヒーの入ったカップを受け取った。

「コーヒー好きなんだ」

「うん」

「散歩ちゃんみたい」

　散歩ちゃんは缶コーヒーしか飲まないんだけどね。笑う彼女の隣に、僕も腰を下ろす。

「ずっとふたりで、あの怪物を追ってるの？」

「ずっとじゃあないよ。それに、私には他にやることがあるから」

　やること？　首を傾げると、彼女はそれは秘密、と唇に指を当てた。
　どきりとして声が詰まった。兎鷺がカップに口をつけ、くすりと笑う。それから、ねえ、と前のめりになった。

「ヒロくんには、大切な人っている？」

「……大切な人」

「そう。その人のためなら、自分が持っている何だって犠牲にできちゃうような。そんな人」

「いるよ」

　いる。死にたくなるほど大好きで、壊してしまいたくなるほど愛おしい、大切な人が、いる。

「その人に、会いたいって思う？」

　……。カップに口をつけた。激しい苦みが広がる。濃く淹れすぎた。

「もう、この世にはいないから。どうしたって会えないんだ」

「もしも会えるとしたら？」

　え？
　隣を振り向く。彼女は僕の目をまっすぐ見ている。初めて話した時と同じ、灯のついた目だ。　

「彼女に会いたいって思う？」

　もしも、彼女に会うことができたら。できたら？
　会いたいと思うのだろうか。会ってどうするんだ。その場に土下座して頭を地面に擦り付けてただただ謝り続けるかもしれない。きっと莉瑠は、もういいよ、と言うだろう。怒ってないよ、顔を見せてよ。そしたら僕は頭を上げるのか？　莉瑠の顔を確かめて心が満たされるのか？　
　違う。違う。違う違う違うそれはきっと違うそれは絶対に違う。僕はそんなことを望んでいない。
　だって許されてしまったら。
　僕がこの世に存在する理由がなくなってしまうじゃないか。
　不意に聞き覚えのない電子音が鳴り響いた。兎鷺がはっと跳ねる。

「ごめん。私の」

　携帯電話のディスプレイを確かめた彼女の、表情が凍り付いた。ちょっとごめんね、と部屋を出ていく。誰からだろう。彼女もあんな表情をするのだ……。ややあって廊下から話し声が聞こえだした。
　ふと彼女のバッグを見遣った。赤色の小さな鞄だ。あの日、莉瑠が提げていたものによく似ている気がする。一脈の誘惑が、僕を襲う。
　それを衝動と呼ぶには僕は冷静過ぎた。頭からつま先まで血液が下りていく感覚。

――もしもし、お兄ちゃん？

　僕は罪を重ねなければならない。あの日、自分がしたことを忘れないように。

――ごめん。パスケース落としちゃったみたい。

「戻ってきたら」

「ううん。バイト遅れちゃうから」

　でも、お前、危ないぞ。この街は決して治安が良いとは言えなかった。駅の西口は特に荒れていて、出稼ぎに来た外人が辺りを闊歩しているのだ。
　じゃあ電話切らないでいてよ。それなら安心でしょ。そこで折れてしまった自分を、どうして許せるだろう。
　どれほど話していたか、直前にどんな話をしていたか、もう思い出すことはできない。何度も反芻する記憶は、その後の、暗さと　苦みを帯びた数時間だ。
　鳴き咽ぶ、嗚咽。自分の妹からこんな音が出ることを・僕はしらなかった。それを莉瑠のものだとは到底思えなかった。しかし確かに受話器の向こう側から聞こえているのだ。果たして僕の脳は、息遣いから、それを彼女と認めた。いくら足掻いたところで、否定できない。これは莉瑠だ。
　受話器越しに聞こえる莉瑠の嗚咽に、喘ぎ声が混ざる。後ろで数人の男が知らない言葉で喋っているのがわかる。キャプションの無い海外ドラマを観ている莉瑠を想像、想像したい、それはうっとりするほど切なくて、きっと息を切らし涙を流しながら、でも最後には笑顔になるような話なのだ、彼女はそれを観ている、想像、想像しろ。むりだ。
　僕の部屋は時計の音が聞こえるほどに静かで、それが彼女との距離をいっそう感じさせた。それでも彼女の声は耳元ではっきりと僕に訴えかける。自分がどこにいるのかわからないようで僕を叫びながら何度も嗚咽しその口腔に捻じ込まれる一方的な性交渉が彼女の喉を突き破る度に文字通りの苦汁を嘗めるような低い呻きにしかしながら一脈の喘ぎは確かに感じられてこの場に居てすら眩暈を喰らう程の暴力的な嘲り声に肌と肌とが邂逅と離別を繰り返す快楽の旋律はこの世界に於いて理由のない悪意という巫山戯(ふざけ)た言葉の価値を僕の双耳が焼け爛れるまで奏で続けた。そして永い→永い永い→永い永い永い→永い永い永い永い→永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い永い演奏の果てで不意に受話器越しに電車の警笛が聞こえはっと我に帰りようやく僕は、

「助けなきゃ――」

――部屋を飛び出した。

　三日後に近くの河原で首だけ見つかった。からだは遂に見つからなかった。警察からもう国内にはないだろうと言われた。
　いろいろなことを考えた。家が裕福だったならば莉瑠はバイトを休んで戻ってくる方を選んだだろうか。そうじゃない。莉瑠は呆れるほどに真面目で、だから、きっと何があろうとバイトに向かう方を選んだだろう。
　だとしたら、悪いのはやっぱり僕なのだ。
　そうだ僕は盗み続けなければならない。盗め。鞄の口を開ける。盗め盗め盗め。内ポケットから白い粉薬が顔を出している。これだ。これだろ。盗めよ。盗めよぉ。盗め！　盗め盗め盗め盗め盗め！　僕の指が、指が粉薬に触れ――

「ごめんね。そろそろ行かなきゃ」

――ドアが開いた。すかさず手を引っ込める。鞄の口を閉め、先ほどと同じ位置に座り直した。兎鷺が顔を覗かせる。少し焦っているようだ。

「散歩ちゃんが待ってるんだ」

　彼女が鞄を肩にかける。陰でほっと胸をなで下ろし、彼女と部屋を出た。

「怪物。見つかったの？」

「うん」

　脳裏に、空中で回転する散歩の腕が浮かぶ。

「……気をつけてね」

「うん。ありがとう」

「それじゃあ」

「うん。またね」

　彼女が手を振り、扉が閉まる。僕は自分の左手を見つめた。ああ……
　僕は盗み続けなければならない。

「もしもし」

――どこにいる。

「ヒロくんの家だよ」

――もう逢ったのか。早いな。

「コーヒーが好きなただの男の子だったよ――莉留ちゃんが言ってた通りの」

――飲んだのか。いや、飲んだ振りか。惨めだな。

「馬鹿にしないで。ヒロくんは何も知らないんだから」

――そりゃあ。知ってもらっては困る。

「ずっと、人の物を盗み続けてるんだって」

――同じ時間を繰り返しているんだろう。

「可哀想だと思わないの？」

――自分で閉じた時間だ。侮蔑はするが憐憫の情は抱かない。

「……ヒロくんを莉留ちゃんのところに連れて行くよ」

――それで莉留が喜ぶと思うのか？

「それが莉留ちゃんにとっての幸せでしょう」

――莉留の幸せを決めつけるな。

「決めつけてるのは十灯(ともしび)くんの方だよ」

――莉瑠は約束してくれたんだ。ずっと俺の隣にいると。

「それが莉瑠ちゃんが諦めてるからでしょ。もうお兄ちゃんに……ヒロくんに逢えないって」

――違う。

「十灯くんは莉瑠ちゃんを利用してるだけだよ」

――出鱈目を言うな。

「諦めて。私は莉留ちゃんとヒロくんを逢わせてあげるんだ」

――そんなことをすれば、俺と莉瑠の夢が……

「覚める。夢から覚めるんだよ」

　……。

「キャッチ……散歩ちゃんからだ。拳聖(けんせい)くんを見つけたって。じゃあ、もう切るから」

　拳聖と散歩。どちらか死ぬだろうな……いや、拳聖はもう死んでるようなものか。あんな魂の抜け殻の、化け物に成り果てた男は――

――通話が切れた。

　どの時点からか、俺はずっと泣きながら話していた。未夕とこんな会話をする空虚さと、自分の夢が崩れてゆく不安に押し潰されそうになっていた。
　くわえていた煙草を地面に落とし、おもむろに天を仰ぐ。からっぽだ。今の俺のように、からっぽの空……そうじゃない。まだ、俺はからっぽじゃない。俺にはまだ莉瑠がいる。

「莉瑠は誰のものでもない」

　俺のものだ。

　

　僴間眞紘(かんま　まひろ)が自宅に居るとわかれば話は早い。拳聖はその周辺にいる。彼の自宅に近づくと案の定、近くで土煙が上がっているのを見つけた。
　たどり着くと、神楽坂散歩が拳聖と交戦していた。俺は巻き添えを喰わないように電柱に身を潜め、遠目から彼らを見守る。目の前で起こっているのは拳聖に対して銃や爆弾を使うような戦いではなく、およそ戦闘と呼べるだけの高度な遣り取りではなかった。
　ただの殴り合いだ。
　拳聖が低いとも高いともとれる叫び声を上げ、大きく角張った拳を彼女の顔面に打ち込む――彼女は踏ん張ってその場に留まる。衝撃がアスファルトに伝わり、彼女を中心にして地面にいくつも亀裂が走った。
　拳を頬に受けながら、今度は彼女が叫び声を上げる。下から顎を突き上げるように鉄拳を見舞った。拳聖はうめきながら数歩、後退した。　

「……とどめだ」

　彼女の腕が激しく輝きだした。筋肉が膨張し、肘から先だけが肥大した。それはちょうど、光を失えば拳聖のそれと酷似していたものだった。

　拳聖が首を迫り出し、大きく口を開ける。鋭い舌が飛び出た。地面を踏みしめていた散歩は虚を衝かれ、避けるのが一手遅れた。頬を裂かれ大きく体勢を崩す。

「散歩ちゃん！」

　散歩の向こう側から小柄な影が走り寄ってくる。未夕だ。

「未夕……あんた後ろ！」　

　振り向いた散歩が声を粗げる。よく見ると、彼女の背にもうひとつ人影があった。
　僴間眞紘だ。

「ヒロくん！　どうして」

「危ない！」

　散歩が叫ぶと同時に、拳聖が未夕に向けて舌を伸ばした。銛のように発射されたそれは彼女の腹を掠め、僴間との間の地面に突き刺さった。拳聖が身をかがめ、足に力を込める。次の瞬間には拳聖はアスファルトを砕きながら跳躍し、リールに巻き取られる糸のように彼女と僴間の間に突っ込んだ。

「ヒロくん！」

「未夕、あんたは下がって！」

　寸分遅れて散歩が跳躍し、拳聖と僴間との間に割り込んだ。

「早く薬！　まだでしょ！」

「あっ」　

　いけない。早く飲まなきゃ。未夕が鞄を開く。そして中を見て、大きく目を見開いた。

「え。なんで――」

――なんで入ってないの。
　どうしよう。なんで入ってないの？　時間、時間は？　時間がない。傷口を押さえなきゃ。出てきちゃだめ。もう・残りが・ぜんぜん・ない・のに。あれ。
　未夕がはっと顔を上げ、僴間の顔を見た。
　困惑する彼の手には確かに、白い粉薬があった。

「うそ」

　あっ。彼女の体がひび割れていく、目が窪み、暗黒の両目が浮かび上がる、筋肉が皮膚を突き破り外へ踊り出る、左胸が大きく膨れ上がり、蛍光色の液体が吹き出す。
　怪物だ。そこに兎鷺未夕の面影は微塵も存在せず、ただ醜く体液を滴らせる肉の塊が、蠢動する子蠅のように体を脈打たせている。その肉の塊は、心が捻じ切れるほどの叫び声を上げた。
　そして硬直した散歩に向き直り、拳を振り上げる――
　向こう側に、愕然と彼女を見上げる僴間がいた。
　口角が、ゆっくりと、僅かに上がる。
　彼は笑っていた。

「僴間ァァァァァァァァァァァァァァ！」

　莉瑠……きみの兄は狂っている！

――拳が振り下ろされた。

続く

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『マリオネ・テスタと空欄[K]』　著・亮月冠太朗　/　絵・市川正晶

担当編集：木村、岡嶋

編集・日本大学芸術学部文芸学科所属　出版サークルKMIT

※第三話は、12/14発刊1月号に掲載予定です

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