[寄稿]「睡蓮島シーパラダイス」批評(著:深沢豊)

昔々、家庭用ゲーム機がまだ一般に普及しておらず、「パソコン」が「マイコン」と呼ばれていた頃。「ゲーム」はマイコンでプレイするものだった。当時、親にねだってマイコンとゲームを手に入れた少年たち――「マイコン少年」はクリアしたゲームを改造して遊んだ。なぜなら、お小遣いでは新しいゲームを何本も買えなかったし、キーボードを叩けば秘密の宝箱の中に隠された宝石のように、どんな風にゲームが作られているのか、その中を覗くことができたからだ。

少年はRPGをプレイしていた。まずはセーブデータの書換えから行う。自分のヒットポイントが10なら、これをコンピュータで使われる16進数という値に変換する。10は「0A」だ。セーブファイルを開き、0Aの値を探す。見つかったらこれを一つ進んだ値の「0B」に書き換える。ゲームを起動し、ヒットポイントが11になっていれば成功だ。あとは0BをFF(256)に書換えするなり、好きにすればいい。命の長さは少年の自由だ。

セーブファイルの改造に飽きた少年は、ゲーム本体を改造し始める。ゲームの難易度を下げ、強い敵キャラを消してみた(BAN!)が、これはすぐに飽きてしまう。「つまらない」のだ。グラフィックを書き換え、ストーリーを追加し、音楽を変更する。世界に彩りが増える。ゲームの難易度を上げ、もっと面白くしようとしてみる。今は世界は少年のものになった。コピーしたゲームを友達にプレイさせる。或いは一人で満足がいくまでプレイする。しかしそれにも飽きてた頃、新しいゲームを買う。またゲームを改造する。またゲームを買う。

そうやって成長した少年たちが、ゲームの作り手になることも珍しくなかった。

ゲームについて語ろう。昔々のさらに昔々、まずは初のグラフィックス表示つきアドベンチャーゲーム「ミステリーハウス」から。あなたもその名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれない。ゲームはキーボードから行動する単語を直接入力することで進行する。「OPEN DOOR」、「TAKE KEY」……等々。どの単語を打ち込むのかはゲーム中に表示される文章から読み解いていく。なかなか難しい。重要な単語は手帳にメモするのが必須だ。
ミステリーハウスはヒットし、似たゲームが大量に出現した。ただし難易度の高さから離脱するプレイヤーも増えていった。そこに登場したのが、難易度を下げた「コマンド選択型アドベンチャーゲーム」だ。これはキーボードから文字を入力する代わりに、あらかじめ用意されたコマンドを「選択」するシステムだった。「開く」を選んだら「ドア」コマンドを選べばいい。簡単だ。単語探しをする必要はなくなり、多くのプレイヤーはそれを歓迎した。プレイヤーたちが求めていたのは難しいゲームではなく、「ほどほど」の手応えがあるゲームで、面白い「物語」だった。

アドベンチャーゲームというジャンルは「選択」の歴史だ。複雑な操作を求めるゲームはジャンルが分かれシミュレーションやRPGになり分かれていった。コマンド選択は更にシンプルになり、「ドアを開けて外に出る」や「箱を鍵を使って明ける」など、行動をそのまま選ぶようになった。もはやメモも必要なくなった。ゲーム内でフローチャートを表示し、キーワード事典を備え、ヒントを表示し、セーブデータは99まで保存できた。いつでも好きな場面に戻ることができるようになった。

「アダルトゲーム」、「美少女ゲーム」は特にアドベンチャーゲームと相性が良かった。プレイヤーの目的は少女のキャラクターと仲良くなることだった。物語はキャラクターが生きるために存在した。それは恋愛とSEXの物語だった。選択肢が数えるほどしかないゲームも誕生した。ゲームの最後、プレイヤーは登場した少女の誰と仲良く過ごしたいのか選択する。これが唯一で最大の影響を及ぼす選択肢だ。プレイヤーたちは複数の少女たちの誰と余生を送るのか選択し、満足した。美少女ゲームは多くの雑誌が発売されるほど大きな一つのジャンルとなった。そんな中登場した「睡蓮島シーパラダイス」は美少女ゲームというジャンルの進化の到達点と解くプレイヤーもいたし、或いは退化の行く末とみたプレイヤーもいた。全てのキャラクターはプレイヤーの意のままで、選択肢に悩むことはなかった。不要なキャラクターは消す(BAN!)することができた。全てがプレイヤーの思うがままだった。ゲームはプレイヤーに寄り添いつづけた。ゲームという概念すら放棄しているという見方もあったが、大多数のプレイヤーはそれを受け入れた。いや、「受け入れられすぎて」しまったと言えるだろう。その後に訪れた不幸な事件はあなたも御存じだろう。栄枯盛衰。

現在。かくしてジャンルは終わり、世界の終局が見えつつある。

あのゲームが全てを変えてしまったというものも居るし、ゲームが無くてもいずれ社会は衰退していた、それは単に私たちに来るべき世界を早回しで見せていたに過ぎなかったという者もいる。

私たちは「選択」を誤ってしまったのだろうか?

世界の「終わり」について思いを馳せる時、僕は萩原朔太郎の散文詩「死なない蛸」を思い出す。こんな詩だ。『或る水族館の水槽で、飢えた蛸が飼われていた。人々から蛸は死んだと思われていた。けれども蛸は死んでいなかった。岩影に隠れて居た。彼は餌のない水槽の中でおそろしい饑餓を忍ばねばならなかった。ある日、彼は自分の足をもいで食った。まずその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすっかりおしまいになった時、今度は胴を裏がえして、内臓の一部を食いはじめた。やがて蛸は、彼の身体全体を食いつくしてしまった。或る朝、水槽の中は空っぽになっていた。蛸は実際に、すっかり消滅してしまった。けれども蛸は死ななかった。彼は消えてしまった後ですらも、尚且つ永遠にそこに生きていた。古ぼけた、空っぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――』

物語はこうして終わる。

『おそらくは幾世紀の間を通じて――すごい欠乏と不満をもった、人の目に見えない動物が生きて居た』

私たちは、あなたは、マイコン少年は「選択」を誤ってしまったのだろうか?

選択肢が失われつつある世界で、欠乏と不満を抱き、絶望すべきなのだろうか?

そうでないとしたら、僕はどうすればいいのだろうか?

あなたは傍観者なのだろうか?

選択を

本作が寄稿された「海2のミ」についてはこちらからご覧ください。
かまどキッチンによる深沢豊さんへのインタビューはこちらよりお読みいただけます。
演劇公演の詳細はこちらよりご覧ください。
かまどキッチン公演#02「海2」@新宿眼科画廊 5/12-18



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