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♯02 細かくなっていく演劇の粒子 (ゲスト:徳永京子)

このトークで話す人は?
徳永京子:今回のゲスト。演劇ジャーナリスト。
児玉健吾:かまどキッチン主宰。本作では脚本、演出を担当。
佃直哉:かまどキッチン共同主宰。本作ではプロデュース、ドラマトゥルクを担当。

はじめに

かまどキッチン「燦燦SUN讃讃讃讃」では、前回公演『海2』にて好評いただいたプレビュートークを再び実施。今回はコロナ禍において演劇活動をしていくことについて、先達の方に話を聞きにいってみました。

第二回は、演劇ジャーナリスト徳永京子さんです!

撮影:宮川舞子

演劇ジャーナリスト。東京芸術劇場企画運営委員。せんがわ劇場演劇事業外部アドバイザー。読売演劇大賞選考委員。ローソンチケット運営のサイト『演劇最強論-ing』企画・監修・寄稿。著書に『演劇最強論』(藤原ちからと共著)、『我らに光を──さいたまゴールド・シアター 蜷川幸雄と高齢者俳優41人の挑戦』、『「演劇の街」をつくった男──本多一夫と下北沢』。朝日新聞首都圏版に劇評を執筆。

徳永さんとかまどキッチン

佃:よろしくお願いいたします。プレビュートーク第2回、ゲストは演劇ジャーナリストの徳永京子さんです。

徳永:よろしくよろしくお願いします。

児玉:簡単に経歴と活動などに触れていただければ。
 
徳永:演劇ジャーナリストという肩書きで仕事をしてます。基本はインタビューをしたり文章を書いたりなんですけど、そういった活動以外に、東京芸術劇場の企画運営委員をしていて、主に若手の方の企画を考えたり、調布のせんがわ劇場では演劇事業の外部アドバイザーとして、せんがわ劇場演劇コンクール[1]について考えたり、あとは読売新聞演劇大賞の選考委員をしているのと、神奈川短編演劇アワード[2]の選考委員は今年もまたやります。

児玉:はい、思い出してしまった。

徳永:去年、『あ、たたかい(の)日々』という、児玉さんのひとり芝居を観せていただいたんですよね。

かまどキッチン「あ、たたかい(の)日々」

佃:ありがとうございます。今日のトークでは、下北ウェーブ2019[3]の講評を皮切りに、複数作品をご鑑賞いただいている徳永さんから、私たちの作品の印象など軽くお伺いした上で、メールの方でも相談させていただいた今の状況下で私たち一体どうすればいいですか…?といった話をさせていただければと思います。

児玉:そんな感じの相談していたんですか?

徳永:密かに熱いやり取りを(笑)、佃さんとしていました。

佃:そうですね。メールでいただいたのは、私たちかまどキッチンの近年の印象が、「俳優が人間を演じない」「わざとニュアンスを潰すような独特の発語」とかそういったものよりも、コロナ禍でより明確になった演劇をすることや私たちがこの世界で生活すること自体に疲労困憊になりながら、なんとかそれを演劇の形にしようとしている姿勢の方に目が向きます。みたいな話でした。

児玉:たしかにそうですね

佃:僕はもう何もSNSで話せないけど、児玉はときどき強めな発言もしてるし。

児玉:具体的には言わないけど、Twitterは積極的に活用していますね。逆に佃は公演の情報公開と、公演が中止になるときだけTwitterを開く人になってる。
 
徳永:かまどさんの、そういうおふたりの立ち位置の違い、おもしろいですね(笑)

児玉:今の現代演劇のシーン…シーンというかですが、新劇的、アングラ的な舞台らしさから、90年代の現代口語らしさからも解き放たれた身体と言葉が取り扱われて、ある種のリアリティというか生っぽさの追求が行われている中で、僕らはかなりチープに見える作り物的な作品をやり続けている。作り物の外郭からにじむやりづらさとか生きづらさ…これも少しチープな言い回しではありますけど、そういう切実さを出すためにフィクションを活用しているみたいなのはあります。

徳永:『あ、たたかい(の)日々』でも、「へなちょこだけど切実」という講評をお伝えしたと思うんですけど、切実さはかまどさんのキーワードなんでしょうね。ポストドラマ自体、いかに真顔で切実さを伝えるかだったと思うんですが、かまどさんは体裁がポップで、「ポストドラマやってます」みたいな感じはないじゃないですか。 

かまどキッチン「あ、たたかい(の)日々」。Vtuberになる児玉の姿。

児玉:たしかにポストドラマではないですね。
 
徳永:チラシや衣装といったビジュアルもかわいいものが揃っていて、架空のキャラクターや現実と離れた演技態とかで何重にも丸く柔らかく包んでいるのに、ちょこちょこと現実の苦しさへとつながる表現がある。明るい台詞が少しずつ弱音の吐露に変化していく。

「燦燦SUN讃讃讃讃」フライヤーデザイン

徳永:弱音はあくまでも架空の時空にいるキャラクターのものとして発されるんだけど、5.5:4.5くらいの割合で「あくまでもフィクションですから!」と「いや、実際、現実きついんで…」がせめぎ合っているというか…。
 
佃:確かにそうですね。着ぐるみから最終的にはそういったものを透かしてもらおうという意図である程度作ってますよね。
 
児玉:僕はノンフィクションを書くよりも、現実を一度分解した上で立ち上げ直していくフィクションの方が現実に基づいているという風にも思うんです。だから僕らの作品をそういう風に見ていただけているのは嬉しいなって思いますね。

[1]調布市せんがわ劇場が主催する「豊かな人間性を育む芸術・文化の推進」「地域コミュニティの活性化と文化プラットフ
ォームの形成」に基づき「次世代を担う芸術家と鑑賞者の育成」のために実施している演劇コンクール。歴代グランプリに公
社流体力学、スペースノットブランクなど。

[2]かながわ発・かながわオリジナルの演劇アワード。「演劇コンペティション」「戯曲コンペティション」があり、短編コンペテ
ィションの賞金はなんと100万円! かまどキッチンは2022年の演劇コンペティションに選出。…勝てば100万円をもらえるは
ずでした。

[3]本多劇場グループが2017年-19年にかけて実施していた若手支援企画。かまどキッチンは2019年に「女の子には内
緒」「福井裕孝」とともに選出された。

作品と作家、未だ迷う線の引き方

佃:では私たちの話はこのくらいに。コロナ禍における演劇や、演劇の現場を作っていく上で私たちが今課題としていること、アーティストの言行不一致じゃないですけど、ステートメントと内実の乖離みたいな現場の外からは見えにくい点について、徳永さんがどのように捉えているかというところまでお伺いできればと思います。
 
徳永:それはちょっと覚悟がいりそうですね。
 
徳永:個別の事件に関する言及ではなく、もっと手前にある自分の意識の問題ですが、作り手と作品をどう分けるか、あるいは分けないかっていうことをずっと悩んでいます、情けないんですけど。ある書評家の方が何年か前に「作家と作品の評価は別である」とツイートされていて、私はそのとき「なんて潔い発言なんだろう」ってすごく心を打たれたと同時に「私にはそれはまだ言えない」とも思ったんです。素晴らしいと思った作品の作り手が良くない行いをしていたとわかった時、作品の評価をそのままにしておけるか。逆に、自動的に作品の評価を下げられるか、そのどちらにも、まだ振り切れない。二分法ではなくケース・バイ・ケースという判断があるとして、それもまた、どこで線を引けばいいのかを悩み続けています。
 
徳永:グレアム・グリーン[4]に『叔母との旅』っていう小説があるんです。そんなに有名ではないと思うんですけど、日本で何度か舞台になっていて、演劇集団円とシスカンパニーが上演してます。その原作の小説がすごく好きなんです。長くなるし、かなりうろ覚えですけどいいですか?中身の話をして。
 
佃:よろしくお願いします。
 
徳永:真面目だけが取り柄の、ずっと銀行で働いてきた50代で独身の白人男性が主人公で、彼が母親の葬式で叔母さんに会うんですね。その叔母さんはぶっ飛んだ人で、真面目な母親が生きている間は「あの人には近づくな」的な雰囲気があって疎遠だったんですけど、久しぶりに再会して、叔母さんの強引さに巻き込まれる形で、世界のあちこちの辺境を旅することになるんです。叔母さんは70代くらいなんですけど、黒人の若い召使を彼氏にしているような、過激というか並外れたバイタリティがある人で、実は主人公の産みの母だったんですけど。最終的に主人公は、彼女と南の島国に行き、そこで村長に気に入られて、自分の子どもほどの年齢の若くて美しい娘と結婚することになりそう……みたいなところで終わるんです。
 
徳永:で、後にですね、グレアム・グリーンが幼児性愛者だった疑いがあることを私は知るんです。グリーンは生前、何度も、作品の舞台になっていたような東南アジアの国や南の島に出かけては、自国よりずっと安い値段で子どもを買っていたと。『叔母との旅』を幼児性愛者が書いた小説だと思うとエンディングには悪い意味で納得なんです。問題は、叔母さんの開放的な性格や旅先に漂うエキゾチックな空気の描写力で、子どもの買春の体験とぴったりくっついているのか、その前から備わっていた作家の文才なのか。
 
佃:私はヴェルナー・ヘルツォーク[5]監督が好きだったので、俳優のクラウス・キンスキー[6]のことをいいなと思っていた時期があったんですが…。

徳永:ナスターシャ・キンスキー[7]のお父さんですよね…ああ。

佃:まあ、はい。彼にもグレアム・グリーンと同様の…比較すべきではありませんが彼よりもさらに悪質な事をやっているので、もう好きだとは正直思えませんね。
 
徳永:演劇に話を戻すと、この数年、非対称の関係性に対する認識が大きく変わってきましたよね。非対称という表現もまた、すごいグラデーションを含んでいると思いますが。誰かがハラスメントを感じた、そういう場で生まれた表現は世に出るべきはないことには賛成なのですが、ただ、どこまで遡ったらいいのか。遡るというのは、歴史的にです。私がこの職業に就いているのは、人生の折々で素晴らしい演劇作品を観たからですけど、その中の少なくない作品に、創作の過程で何かしらのハラスメントがあったと思うんです。「そういう時代だったんだから仕方ない」という言葉も聞くんですけど、その度に、本当にそれでいいのかなあと。これからハラスメントが無くなるようにすることが数少ない罪滅ぼしの方法だと思っているんですが、あまりにあっけらかんとその立場を表明している人を見ると、それもまたモヤモヤします。
 
徳永:過去や未来の話でなく、現在の出来事で言うと、声を上げた方の受けた傷が、簡単ではないでしょうけど、早く回復することが最優先だと思います。その上で、世の中に出た事件は正しく裁かれてほしいと思ってます。
 
佃:正しく裁かれるというのは、どういったことでしょう。
 
徳永:被害者が二次被害に遭わないこと。加害者がネットリンチに遭わないこと。被害者と加害者の家族が巻き込まれないこと。それらが守られた上で裁かれてほしい。
 
徳永:告発された方々は、相手が徹底的に破滅すればいいという憎しみより、ある種の知性でもって行動を起こされている場合が多いように思うんです。勇気って、そういうものではないかと。それが尊重される形で進んでほしいです。
 
佃:手続きの公正さに関してはさまざまな議論がありますが、手続きを介することで告発が不可能になる、歪められるといったケースもあったりするので、個人的には手続きを必ずしも絶対視はせず、事例ごとに事情を見聞きした上で立場を決めたいと思っています。ただ、そうなると逼迫した状況に対してどうしても遅い動きしか取れず、常に正しいとも言い切れない回答を選んでいるなとは思います。

[4]イギリスの小説家。カトリックの倫理をテーマに据えた作品を多く発表した。代表作に『権力と栄光』、『第三の
男』など。
[5]ドイツの映画監督。長編劇映画とドキュメンタリーを軸に活動。代表作に『アギーレ 神の怒り』『フィッツカラル
ド』など。
[6]ドイツ映画を中心に活動した俳優。ヴェルナー・ヘルツォーク監督作品で数多く主役を演じ「怪優」と称された。
[7]クラウス・キンスキーの娘で俳優。ヴィム・ヴェンダースなどドイツの著名な映画監督の作品に数多く出演した。

魔法とプロセスエコノミー

徳永:そうですね、どうしても遅くなりますよね。それによって手続きの煩雑さが告発者にばかり不利に働くこともわかります。何であれ、当事者が1番早くて、どうしても周囲は遅れるから。

徳永:演劇の多くのハラスメントが見えづらい理由も、稽古場と上演のタイムラグがあると思います。観客はもちろん、批評家やライターもなかなか創作の現場まで捉えきれない。私自身の話をすると、40代くらいまでは稽古場に取材でよく行ったし、打ち上げに呼ばれて関係者の方と話をする機会は多くありました。でも世の中の流れが変化したのか私の立場が変わったのか、そういう機会がめっきり減りました。まあ、外部からメディア関係者が来れば稽古場はよそ行きの空気になりがちでしょうし、ハラスメントの行使者は、外の人に良い顔をするのが得意でもあるでしょうから、正確な状況はなかなか知り得ないと思いますけど。

徳永:結局その創作の現場で何が起きてるかわからないから、作品だけで評価すべきだという結論になるんですが、その作品には、作家の人となり、また、その作品をつくったスタッフやキャストのクリエーションも含まれているわけで、正確に作品単体で切り離すことって困難ですよね。
 
佃:見る景色が変わると見えなくなってしまうってあるあるだとは思うんですけど、防ぐには現場をどこまでオープンにするか、ルールをどう規定するか、プロセスに他者をどう招くかという話になってくるのでしょうか。
 
徳永:それ、まさに今の時代に生まれた希望だと思います。若い世代の方たちは本当にその動きが顕著で、かまどキッチンの皆さんも身をもって感じてらっしゃると思うんですけど、公演の粒子が細かくなってるんですよ。どういうことかっていうと旧来は成果物としての作品の上演があってそれだけが評価されていたわけですけど、近年はクリエイションの段階からお客さんに開いていく。作っていく過程、作品になるまでの途中を細かくしてお客さんに見せていく、その途中にある作業をみんなで分担し合っていく。そういう人たちがすごく増えている。
 
徳永:15年ぐらい前になるのかな、どこが始めたか正確にはわからないんですけど、マチネのお客さんを増やすためにアフタートークがポチポチ生まれてきたんですよ。今はソワレの集客が大変ですけど、当時は平日マチネはどこも客の入りが悪かった。で、その対策としてアフタートークが出てきたのでものすごい批判があったんです。作品が全てだと。言いたいことは全部作品に込めたはずだと。それでお客さんに判断してもらうのが演劇なのに、作った本人達が何を話すんだよ、みたいな。
 
児玉:想像に難くないですね。
 
徳永:そのときに主に言われたことは、創作の裏話なんてしたら、答え合わせみたいになってお客さんの自由な想像力を限定するとか、作る側の手の内を明かすことになって自分たちの首を締める、総じてプラスにならないってことだったんです。けど実際は、アフタートークをしたことでお客さんが増えたり作り手の人たちのファンが増えても、離れた人は少ないんですよね。だからアフタートークは今も続いてるし、そこから昨今の、創作過程をつまびらかにしていく流れにつながっていったと思う。出来たものをドン!じゃなくて、過程とか役割を細かく分けて、小さく粒子にして、その分、関わってもらう時間を長くして、作品を一緒に楽しんでもらう、その傾向がものすごい勢いで加速しているっていうのがこの数年間感じていることです。
 
佃:アフタートークをやっても結局お客さんが離れなかったって話には希望的なものを感じました。かつては呪術化というか、特権的肉体[8]であるとかワードを軸に、そこにいる人たちを難解な何かで象徴することによって、本来上演される以上の何かの付加価値みたいなものを小劇場に生み出している人たちっていたと思うんですけど。そういった魔法が解かれて、クリエイションの方法とか過程とかまで開示してお客さんに来ていただいても意外と面白がってもらえるんじゃないか。むしろそうしていかないと駄目なんじゃないかと思いました。
 
徳永:演劇をつくることは、かつては魔法だったんでしょうね。魔法だから、種や仕掛けは秘密だった。私自身は、今もこれからも演劇ならではのマジカルな効果は保持されてほしいです。ただ、その秘密の価値を実際以上に高めよう、長持ちさせようという意識が、ハラスメントの土壌になっていたと思います。本当に魔法が使えるカリスマはきっと数人はいたんでしょうけど、その亜流みたいな人たちが、魔法が使えないことがバレないように秘密の価値を高めるようなことをして……。

徳永:今は演劇に限らず、時代自体が圧倒的なカリスマを望まないんでしょうね。そういう、何か大きな力を誰か1人が握ってるっていうよりも、みんなで研究したり語ったり遊んだりすることの方に、世の中全体がシフトしてるんだろうなと思います。 

[8]状況劇場の主宰者である劇作家唐十郎が、訓練された普遍的な肉体としてではなく、各役者の個性的な肉体
が舞台上で特権的に「語りだす」ことを目指した演劇論。著書である『特権的肉体論』をはじめ複数のエッセイで展開
された。(出典:https://artscape.jp/artword/index.php/%E7%89%B9%E6%A8%A9%E7%9A%84%E8%82%89%E4%BD%93%E8%AB%96

ハラスメントと基準の話

児玉:僕自身は演劇の現在地に悲観的な立場をとることが多くて、粒子が細かくなっているとか、それって生存戦略の話だと思うんですよね。ハラスメント問題という大きな隕石が迫っている中で、改善の策を必死に模索している。そういう隕石があって、また一方、見渡してみたときに、またちょっと違うロケットが登っていく姿があって、うん、なんか…(何も言えなくなる)いま、不思議な距離感で話を聞いてます。

佃:何かそういった現場がクローズドでどうなってるのかとかハラスメントがあるのかないのかみたいな話はありますけど。時折思います、なんで僕らは常にこんなに悩んで常に怒っているんだろうかって。

徳永:上の世代がだらしなかったんですね。申し訳ないです。
 
佃:まあ、怒っている僕自身の性質が加害的だから、僕は怒るよりも我がふりについて考えるべきなんですよね。クリエイションの現場で知り合った人にプライベートで自分から連絡を取ったことほとんどなくて、今後取るつもりもないんですよね。ってこうやってトークの場でオープンにしておけばふと訪れる自分の愚かさを律することができるようになるかなとか考えています。誰かが僕からそういう連絡がきただけで告発できるようになっていればいいのかなというか。現状したこともするつもりもないんですが。
 
児玉:僕たちも徳永さんが言う大人もあまり変わらなくて、結局僕らは主宰って立場で集団を率いていて、権威的に振る舞おうとすればできる。そこに年齢は関係ないって自覚は持っていたいです。実際、稽古場で大声を出す演出家だったんです。大学3年時から桜美林大学に編入して現代劇っていうものに触れて学ぶ中で、あるいはいろんな人と触れ合う中でそういったことがなくなっていった。っていうのが僕の演劇の第二の出発というか、反省するところなんですけど。

佃:僕が児玉と知り合ったのはその頃より後なので、そういう印象は正直ないんですけど、大学に来た当初の話を人から聞くと驚くことがあります。

児玉:すごく過剰に思われるかもしれないんですけど、実際こういったハラスメントを抑止するために、たしか、京都で活動している劇団なかゆびの神田さんが「もう稽古場以外では一切会わない方がいいのではないだろうか」という話をされていたことがあって。僕自身それに対してものすごく共感をするというか。確かに抑止を目的にしたとき、これ以上効果があることはないんじゃないか、って。もちろん稽古場の公共性が保たれていることが前提なんですけど。

児玉:ただ一方で、いざ対策としてこれを定義することはなかなかできないと思うんです。理由はいろいろありそうですけど、コミュニケーションの塩梅の難しさ、線の引けなさがありますよね。どうしても近い距離で創作する環境だからこそ、その線の引けなさを見つめ続けなければいけないんだと思います。前向きなことではあれど、簡単なことではないと思いますが。

徳永:基準を常に検討し続けていくしかないのでは? ハラスメントって、どんなに細かく防止策を文章化しても、絶対に書いてあることから漏れる事案は生まれます。だから対応は禁止事項を増やしていくことじゃなくて、それが聞こえてきたときにどうするかを常に考え続けていくしかない気がします。人間って二人以上いたら絶対に影響しあって、それが良い場合ばかりとは限らない。演劇って集団創作だから、それがたくさん発生する。誰が何に傷つくか、想像力を常に小さく細かくアップデートしていくしかないと今は思いますね。
 
佃:小さく細かくアップデートしていくことで何かが起こったときに即座に断絶ぐらいのレベルにまで繋がらなければいい。そういった運用ができるようになればいいと思います。とはいえ現状はそういった段階に至っていないと思うので、遠い話ですね。過渡期で人間的に成熟しきれていないままそれでも作品を作るために主宰という立場になっている僕らはどうなっていくのかと悩む毎日です。
 
徳永:でもそれは創作によって成長していく可能性があるじゃないですか。以前は怒鳴る演出家だった児玉さんが変わったのはアップデートでしょうし。あと、そこで主宰者とくくってしまうのは、もしかしたら先行世代の呪縛かもしれないです。さっきの粒子の話ですけど、たとえば鳥公園さんはアソシエイツアーティストとして外部から複数の演出家を入れたり、安住の地さんは二人の劇作家が交互に、あるいは共作して戯曲を書いたりと、役割の固定は薄まっていますから。

徳永:とりわけ小劇場の劇団は、お客さんにも「この作品はこの集団の最終の形態ではない」という認識が広まっている気がします。アンケートを取ったわけではないですけど、さっきの話の作り手の姿勢が少しずつ浸透していって。だからこれからも、より良い作品であるためには、より良い人であるためには、より良い現場であるためにはっていうのをみんなで考え続けていくしかない……っていうと大雑把ですね、すみません。

佃:わかりますけど、それでも不安で仕方なくなる瞬間があります。そもそもそういった不器用な基準の人っていうのをうまくプロデュースしてその運用できる基準にしてやっていくのがプロデューサーなんですけどね。立場で規定するのがダメって話か。情けない。プレビュートークはこのくらいにしましょう。ゲストは徳永京子さんでした。ありがとうございました。
 
徳永:こちらこそありがとうございました。

プレビュートークは以上になります。最後までお読みいただきありがとうございました。かまどキッチン「燦燦SUN讃讃讃讃」は1月21(土)より期間限定でアーカイブ映像配信開始予定。詳しくはコチラへ。ぜひご覧ください!

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