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#3 お笑いの持つ暴力性。優しい世界を作るために必要なこと(ゲスト:長谷川優貴)

5月12日(水)より上演予定のかまどキッチン「海2」では、上演作品をより深めるため、それぞれ異なった専門性を持つゲストをお招きして「海2のミ」という関連企画を行います。プレビュートークと題した本企画では、かまどキッチンの主宰2人がゲストの方に、題材や、本作のテーマ「分断につながる加害と消費」についてインタビューを行います。

♯03のゲストは演劇ユニット エンニュイ主宰の長谷川優貴さんです。

このトークで話す人は? 
長谷川優貴:今回のゲスト。作家、演出家。エンニュイ主宰。
児玉健吾:脚本、演出家。かまどキッチン主宰。
佃直哉:かまどキッチン共同主宰。ドラマトゥルク ・プロデュース。

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児玉:かまどキッチン公演#02「海2」の関連企画「海2のミ」と題しまして、様々なゲストの方にお話をお伺いしております。本日はその第三回です。演劇ユニット「エンニュイ」の主宰であり、芸人としても活動されているクレオパトラの長谷川さんに来ていただきました。よろしくお願いします。

長谷川:よろしくお願いします。

児玉:最初に、長谷川さん自身のことについて少しお話いただけますか。

1.優しい世界が作りたくてお笑いをやっている


長谷川:エンニュイという演劇ユニットをやっております。前まで劇団でしたが、今はユニットという形で活動しています。元々は吉本興業に所属してお笑い芸人をやっていました。今はクレオパトラ[1]というコンビでお笑いも続けています。

クレオパトラの相方が数年前に就職をしたので、少し時間ができたこともあって始めたのがエンニュイです。CHARA DE[2]というスタジオも運営しておりまして、少しややこしいんですが同じ名前のCHARA DEという団体にも所属していて、そこの代表もやっています。

児玉:ありがとうございます。長谷川さんは現在、いくつかの土壌を持って活動されていますが、その中でも一貫した視点をお持ちだなと思っています。個人的に気になっているのが、長谷川さんのツイッターのプロフィールの一文です。「優しい世界が作りたくてお笑いをやっている」と書かれていると思うんですが、そのように思った経緯があれば最初にお伺いしたいです。

長谷川:僕は色々と気にしてしまうタイプなんですよ。他人に直接ズバッと言うタイプではなくて、何をするにしてもお互いにコミュニケーションをとりながら、相手のことを少しずつ理解していきたいと思っています。

例えば、「コンビニに行ったら店員さんの態度が悪かった」というシチュエーションがあるとします。その時に店員さんに対して怒る人もいると思うんですけど、僕はただ店員さんのことを想像すればいいのかなと。例えば僕の前に対応したお客さんがひどい人だったのかなとか、今日はその店員さんにとって大切な日で、でもシフトが次の人と交代できなくて帰れないのかなとか。

他人のことを想像しやすくするために、他人のことを考えるきっかけになる作品を作っていければいいなと。まあ実際には、僕の身の回りだけでも優しい世界になってくれたら僕が生きやすいなぐらいの気持ちでやってますけどね。人のために演劇をやっているというより、僕が生きやすい世界を作っていきたいというイメージです。

児玉:長谷川さんの作品を前に観せていただいたんですが、作品全体を通じて人間のコミュニケーションに大きな関心を持たれていると感じました。具体的にはどういった視点で描かれているのか、もう少し詳しく教えていただいても良いですか。

長谷川:旗揚げ公演「ゼンイとギゼンの間で呼吸する世界。」では自分の偽善のことを描いていたんですけど、善意でやってるつもりなのに、他の人からは偽善に見えてしまうという状況はよく発生するんだなと気づきました。その後も公演を続けていくうちに、気づくとほとんど人間同士のコミュニケーションのことばかり題材にするようになっていました。自分は思ったよりコミュニケーションに興味あるんだなと、後から気づきましたね。

現在エンニュイは『無表情な日常、感情的な毎秒』と題して、12ヶ月に渡って公演を行っているんですが、そこでも作品のシステムとしては演者同士のコミュニケーションが重要になっています。最近は少しコミュニケーションの要素が強くなりすぎている気もしたので、バランスを取りつつではありますが。

物語を描く時は、観客が登場人物のいずれかに感情移入できるように作っています。主人公がいて、その人だけが正義として描かれていると、観客は「自分ってやっぱり存在としては脇役なのかな」とか「普段の自分は悪者なのかな」と思ってしまう気がしていて、そう思ったまま帰って欲しくないなと。そこは意識しています。

児玉:「無表情な日常、感情的な毎秒」は作品そのもののコンセプトも含めてですが、考え方の異なる人たちと直接集まって作品を作ることにとても意識的だなと感じました。現実においても長谷川さんはしきりに「集まろうよ」と言っていますよね。そこには一貫した意識があるように感じます。

長谷川:実際にコミュニケーションを取るときの表情や動きを、僕は直接見たいんですよ。また、様々な人を題材にした作品を描く場合に、僕の脳みそだけでは僕が考えている普通のものしか描けないので、いろいろな人の話を直接聞きたいんです。

児玉:先ほどのコンビニ店員の話もそうですが、他者の領域に寄り添おうという意識をとても感じますね。長谷川さんのツイッターに書かれていた「優しい世界」のことが僕の中で理解できた気がします。

[1]ボケの長谷川優貴とツッコミの桑原尚希によるお笑いコンビ。2014年までは吉本興業に
所属していたが、以後はフリーランスとして活動している。結成当初は漫才を中心に活動して
いたが、次第にコントに注力するようになった。

[2]長谷川が運営する、創作者のためのフリースペース。CHARA DE Asagayaの後継スペースと
して2021年に新宿御苑にオープンした。

2.正義が暴力となる瞬間

佃:それでは、今回の企画の主題に入らせていただければと思います。

今回の対談では、長谷川さんが目指している優しい世界についてはもちろん、お笑いや演劇を創作する方々が持ってしまう暴力性や権威性について、少し深く掘り下げていければと思います。私自身も団体の主宰で企画制作、児玉も作家・演出家という権威性を持ちやすい立場ですね。

児玉:今回の「海2」は、人間が不意に持ってしまう暴力性が作品の一つの要になってます。自分たちが持つ世界を維持するためにどうしても力が必要になってしまう場合があるというか、働いてしまう場合があるなと思っていて。そのやりきれなさや結果的に生まれてしまう断絶のようなものを見つめる作品を創作しています。そうした断絶や暴力について、まずは少しお伺いしたいなと思っています。

長谷川:僕がエンニュイで作品をつくるときは様々なジャンルの方を呼ぶんですけど、みんな自分の正義というか正しさがあって、各人がそれまでに培ってきた場所でのやり方がありますよね。なので何もしないまま現場を放置してしまうとストレスが溜まったり、そのストレスによってその人の口調が強くなったりとか、みんなが自分のフィールドに他人を入れようとすると、その人の正義が他の人にとっては暴力になったりするときがあるなと思うんです。それもあってエンニュイの稽古中は、僕がちゃんと引っ張っていかないといけないと思っています。

児玉:自分のフィールドをそれぞれの人が持っているからこそ、ときにそれが干渉してしまって、齟齬になってしまうと。

長谷川:自分が唯一の正義であると思い込んでしまう時ってありますよね。その状態で語気や内容のキツい発言をしてしまうと、相手からするとそれが暴力に感じることが起きると思うんですね。

児玉:演出家としては、稽古場でそうした正義の干渉が起こった時、実際にどのような方法で解決していますか。

長谷川:とりあえず、「一回落ちつきましょう」とだけ言います。具体的な言葉を発してしまうと、どちらかの味方になってしまう気がするんですよ。なので「いまちょっと口調が強いですよ」とか、表面上のことだけ言うようにしています。当の言い合ってる2人が気づいていないことを、できるだけ中立的な立場で指摘する役割ですね。とはいえ一つずつ整理していくとかなり時間がかかってしまったり、場合によっては僕自身が否定的な言葉も言ってしまったりして、実際にうまく解決するのはなかなか難しいですね。

佃:実際にその現場に遭遇したら僕もそうしますね。現場の感覚として非常によくわかります。

少し強引ではありますが、SNS上の衝突についてもお伺いしたいと思います。SNS上で2つの考えが衝突している場合、特に最近ではその傾向が顕著ですが、自分の態度を具体的な言葉で示してどちら側につくか表明しないといけない、立場を示さずに無言でいることは無責任もしくは加害であるとされることがあります。個人的にはその考えも理解はできるのですが、そういった最近のインターネットやSNSの状況に対しては、長谷川さんはどう感じていますか。

長谷川:うーん、僕はそういった場合にはツイッターで意見を表明することはあまりしないですね。もし書きたい場合は自分のnoteを利用して長文で書くと思います。「Aだと思っている人もいるかもしれませんが」といった留保をつけつつ、あらゆることを補いながら書くようにしていますね。保険と言ってしまうとアレなんですけども。

児玉:最近のSNSは距離感がつかみづらいですよね。自分個人として話をしようとしても、自分の肩書きとか、どっちの派閥についているとか、周辺情報を勝手に汲み取られてしまうことってあると思うので。自分を適切に表現できるところでだけ、そういった表明をするのはとても腑に落ちます。

インターネット上だと、表現手法が文字に限定されてしまいがちということもあります。特にSNS上の場合、現状だと身振りや話し方で微妙なニュアンスを伝えることが難しいじゃないですか。

長谷川:現場だと表情や動きで汲み取ることも多いので、文字だけで判断をすることが難しく感じます。でも、現場で汲み取れる情報でさえもズレが起きたりしますよね。表情があまりない人でも普段からそうなんだよって人もいるし、でもそれを見た人が怒ってるって勘違いしちゃったりとか、よくありますよね。想像で補っていかないと、どうしても難しいなっと。僕の考える一番の暴力は「俺はこうだからあなたもこうでしょ」という決めつけですね。


3.お笑いがもつ暴力性

佃:長谷川さんはお笑いもやっているということで、少しそちらにも話を広げたいと思います。ここまでのお話を聞いていると、長谷川さんは演劇を作る際には、ある種のステレオタイプ的な暴力性をできるだけ回避したいのかなと思ったんですけれども。

一方で、お笑いという表現はある一つの価値観を持ったボケに対して、別のある価値観を持ったツッコミがボケの価値観を否定するような言及を行う形式が多いのかなと僕は考えていて。いま演劇とお笑いという2つの形式をやっている長谷川さんが、お笑いが持ちうる暴力性っていうものに対してどう考えているのかをお伺いしたいです。

長谷川:そうですね、お笑いか…僕にとってのお笑いは、例えば漫才だったら、ボケとツッコミという価値観の違う2人がディベートをしているようなものだと思っています。ボケとツッコミのどちらかをネタの構成上強く立たせることもよくあるので、その結果として暴力性が生まれてしまうこともありますね。

コントだとしても大きくは変わらないと思います。例えばコンビニのコントで最初に「ああここはコンビニか」と言いながら客が入ってきて、そうすると変な店員が出てくるベタな流れがあったとして、そこで客が店員に「なんか変なやつ出てきたんだけど」ってツッコんでしまうとそれは暴力なのかもしれないですけど、最近だと例えばかが屋[3]はそもそも2人とも変だとか、最後はいい話で終わるとか、そういうコントをやってますよね。ツッコミはツッコミの価値観でボケに対してツッコむけど、ボケもボケの方で別の価値観を持ってて、最終的にツッコミのやつもちょっと変な人だったというように終わらせるコントが多くなってきている印象はあります。僕はそういったお笑いの方が好きです。

お笑いの場合はむしろネタよりも、フリートークの方が暴力性を含んでいると思いますよ。ネタは実際は寄席とかでやるので、気にして作ってる人が多いとは思います。お客さんから反応が直接返ってきてしまうので。僕が所属していた吉本興業もその点に関しては厳しかったです。「こういうことは言うな」とか、「こういうお客さんがいるかもしれないから」っていう配慮があったと思います。

佃:ありがとうございます。少し個人的な話になってしまうのですが、僕はお笑いがずっと苦手だったんですよね。テレビで芸人のイジリを見た子供たちがそれを真似して、他の子供をイジるというようなイジリの再生産がすごく苦手でした。それもあってお笑い自体をずっと好意的に見れずにいました。

でも今のお話を聞いていて、お笑いをやっている人は実際には暴力性のことを結構気にされていて、コンプライアンスだったり、マイノリティへの視座のようなことを考えていたのかもしれない。僕の中ではそれが救いだなと感じました。

長谷川:劇場でさえネタの内容に関する制約はあったので、テレビとなった場合はそれがさらに厳しくなっていたとは思うんですけどね。でも例えば、2000年頃のテレビコントはかなり暴力性が多かったとは思うのではっきりは言えないですね。うーん、お笑いにとって暴力性は、やっぱりどうしても外せないのかもしれないですね。

児玉:作品内においては、「いまから暴力を振るうぞ!」っていうノリで振るわれる暴力って実際にはそこまで多くはないと思うんですよ。ただ、特に漫才やコントだと、それを演じている人たちの属性やポジションといった要素が笑いに変換されていったりするから、その要素を笑いに変換していくこと自体が暴力に相当するのかなとは思います。

長谷川:例えば海外のスタンダップコメディだと、いろいろと皮肉ったりするじゃないですか。その皮肉で傷つく人がいないのかっていったら、実際には結構いると思うんですよね。そういったことを回避するために日本で独自に生まれたのがツッコミなのかもしれないとは思います。ツッコミが、他の芸人の暴力性を薄めていることはあるかもしれないです。

[3]加賀翔と賀野壮也のお笑いコンビ。マセキ芸能社所属。コントをメインに活動している。
キングオブコント2019で初の決勝進出を果たした。

3.1 イジりは技術である

児玉:少し話は戻りますが、先ほど長谷川さんは「フリートークにおいての暴力性は少しあるかも」と言っていましたよね。どういう意味のことなのか、もう少し詳しく伺いたいです。

長谷川:例えば、ネタはやっぱりフィクションだし、みんな自分の世界観で作っているのでアレですけど、フリートークで喋ったときは、例えばそこにいない芸人さんやアーティストの名前を出してイジる対象にしたりとか、あるいは一般の素人の方と絡んでいるときに、その素人の方の喋る速度が遅いことに対してツッコんで笑いをとったりっていうことが起きたりするじゃないですか。そこには暴力性はあると思いますね。

そういった笑いは目先の笑いなので、実際にそこで笑いを取ろうとするかどうかはその人の考え方によって違うと思うんですけど、やっぱり人をイジるのは実際には技術がないとできないという思いが強いですね。テレビのフリートークでのイジりを、それを見た人が「自分もできる」と思って真似しても、クオリティとしては厳しいものになってしまったり。先ほど佃さんが言っていたように、子供が学校で真似して他人を傷つけてしまうこともありますし。

僕はイジるっていうのは、他人を立たせるためにやるものだと思うんですよ。例えば、うまく喋れない人がいたときに「いやなに言ってんですか」って軽くジャブを入れてあげると、それがきっかけでその人が喋り出せたりとか。でもそれを求めてない人もいますからね。そういったことを察知してできる人じゃないと、暴力性がかなり出てしまうなとは思います。

児玉:お笑いという手法自体が危ういものであるがゆえに、プロの方はやはりそこに関しては強く意識されているんですね。

この前エンニュイの現場に行った時、あのときは長谷川さんだけじゃなくて九月[4]さんもいたと思うんですけど、テレビのフリートークのような展開を見せる会話もあったなって思って。盛り上がる会話の裏では実はフォローアップをしているんだなと感じました。そうした細かな気遣いがあるからこそ、お笑いは成立しているのかなと。

長谷川:話の回しをするとかイジるポジションが花形に思えたり、主役のように振舞えてカッコいいからやるみたいな人も多いんですけど、本当はたぶん違うんですよね。割と勘違いされている方が多いんですけど。

お笑い芸人って、元々は道化師やピエロみたいなものだと思うんですよ。例えばみんなで雑談をしているときに、あえて知らないふりをして「何だよその話」みたいな茶々を入れて、「知らねえのかよ」って誰かがツッコんでその場が盛り上がることもあったりするし。人をイジるのも、自分を失礼な人間に見せることで自分を下げて、他の人が立つようにするとか、本当はそういうことをしているんだと思っています。それを勘違いして自分が目立とうとしてしまうと、割と危ういものになると感じていますね。

佃:イジりが人を救ったりもするけど傷つけたりもする二面性を持った手法なので、うまく使うには専門性が必要だし、それを使うこと自体を考えなければならないということなんですね。

ただ、どうしてもお客さんがいる以上は芸人のイジりに影響される人が生まれてしまうと個人的には思います。乱暴なイジりを生まないためには、ユーザー側にも一定の理性が必要というか、最低限のお約束を守らなければいけないと思うんですよね。そういった意味では多少は注意書きのようなものが必要なのかもしれないなとは思います。ネタの間に注意書きを出すのは野暮だと思いつつも。


長谷川:僕が小さかった頃は、テレビの画面の下の注意書きなんてそこまで頻繁に出てきてなかったと思うんですよ。「これは真似しないでください」ぐらいだったらバラエティではすでにありましたけど、いまはアニメでも注意書きが出てくるし、もしかしたらお笑いでもつけなきゃいけないときが来るのかな、フリートークの部分にさえ注意書きが必要になってしまうのかなと不安になります。

注意書きがあるから安全になるとは思えないですし、注意書きが増えていけばいくほど視聴者もそれに頼っちゃうので、想像力もどんどん低下していくというか、それを守ってればいいんだっていうことになってしまう気がします。

[4]フリーの芸人。数年前までは「カフカと知恵の輪」というコンビで活動していた。
コントを中心に行うが、コラムの執筆を担当するなど活動の幅を広げている。

4.スカッとジャパンは早すぎた?


児玉:ここで一旦区切りに近いのかなと思っておりますが、最後に何かあれば。

長谷川:そうですね。少し演劇の話に戻ると、優しい世界を目指して作品を作ってはいるんですけど、エンニュイの作品は見る人によってはきついシーンもあるかもしれないです。感情移入できる人物は登場するようにしてはいますけど、一方でお客さんが「自分を見てるみたいで嫌になる」っていうシーンもあえて作るようにはしています。他の人に対する想像力も持ってほしいなと思うので。

自分を否定するところからも優しさは生まれていくと思いますし、自分が絶対に正義なんだと思ってしまうとそれがやがて暴力になってしまうので、そこは意識して作ろうとしています。

児玉:想像力に関しては僕も今回の「海2」で特に意識しています。おそらく長谷川さん自身は、一般的には感情移入できない、理解できないようなキャラクターも観た人が愛せるように、そこは意識的に描いているような気がするんです。その点に関しては、想像力を喚起させるという意味では強く活きているんだろうなと思いました。

演劇って、観ているとものすごく想像力をかきたてられますよね。もちろん舞台美術がすごいとかそういうこともあると思うんですけど、基本的には同じ空間上で人が喋って動いて、その場で行っているだけのことで物語を感じさせる芸術なので。そこに関しては演劇もお笑いも共通して意識されてるっていうのは僕の中でめちゃくちゃ納得がいきました。

長谷川:スカッとジャパンっていう番組あるじゃないですか。とにかくアレにならないように作ってるかもしれない。誰かが悪い奴になるっていう。

佃:僕らもスカッとジャパンにならないみたいなことはよく話したりしますね。アレはえげつないなと思います。

児玉:最後に共通言語ができてしまった笑。でもあの番組の面白さはわかるんだよね。

長谷川:逆に僕はスカッとジャパンを、全員が楽しめるようになったらそれはそれで平和なんだと思うんですよね。それはそれで別に、みんなが寛容になったというか、自分に自信を持てるようになったという証拠なので。スカッとジャパンはもしかしたら未来の番組なのかもしれないですね。

佃:現実としてはスカッとジャパンが、自分に似たものが批判されていることも含めて楽しむコンテンツではなく、自分が気に入らない人があげつらわれてるところを見て楽しむコンテンツであるからこそ、まだスカッとジャパンは人類には早いということですよね。

児玉:貴重なお話を聞けて良かったです。ありがとうございました。

[5]フジテレビの番組。正式名称は「痛快TVスカッとジャパン」。身の回りにいる身勝手な人たちに
よって「ムカッとした」ことに対して、機転やアイディアによって「スカッとした」話を募集し、
それらをショートドラマ化して紹介するバラエティ番組。2014年から現在に至るまで放送されて
いる人気番組である。


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