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オオカミの謎

先日、東京ステーションギャラリーにて催されていた『木彫り熊の申し子 藤戸竹喜 アイヌであればこそ』の展覧会まで足を運びました。

藤戸竹喜(ふじとたけき・1934-2018)は、北海道美幌町で生まれ、アイヌの木彫り熊の職人だった父親の下で12歳の頃から熊彫りを始めたそうです。木の塊を渡され、それを自分なりに削り、父親が見て、気に入らなければ、火にくべられてしまう。そのようにして、熊彫りの技を習得した藤戸は、数多くの木彫作品を生み出し、最晩年の作品まで、八十余点の作品の数々が展示されておりました。

藤戸は制作にあたり、木材に簡単な目印を入れるだけで、あとは一気に彫り出していくスタイルで、それは木の中にいる熊たちが見えているかのようでもあり、思わずミケランジェロが大理石の中に眠る生命を彫りおこしたというエピソードを思い出してしまいました。

どの作品も繊細かつ大胆に生命の躍動感を宿らせたものばかりで、素晴らしく、行くことにあまり乗り気でなかった家内もギャラリーを後にして、今日の展示は行ってよかったと、洩らしておりました。

その作品のモチーフは熊をはじめとする北海道の地に生きる生物がほとんどだったのですが、中でも忘れられないのが80歳を過ぎて制作した「狼と少年の物語」という作品でした。

十数点からなる連作であり、両親とはぐれたアイヌ民族の赤子が狼に助けられ、狼とともに成長していくという物語仕立てになっており、藤戸が自らストーリーを考えたとのことでした。

私、この作品の前に立っただけで、なぜか涙がこぼれてしまい、鑑賞に難儀したのですが、藤戸にとって狼を彫るということは特別なことでもあったそうです。

藤戸は17歳の時に、狼の剥製を見て、「狼を作りたい」と父親に告げましたが「熊も一人前に彫れないのに何を言っているのか」と一喝されて以来、熊彫りに専心し、満足のいく狼を彫ることができたのは齢70歳を超えてしまったとのことでした。

氏の残した「狼と少年の物語」は自らの出自でもあるアイヌの誇りと在りし日のエゾオオカミの姿が交差する日本美術史上に残る傑作とも云えます。

深い余韻を残して美術館を後にしました。

前置きが長くなりましたが、この日、ちょうど読み終えた本が『オオカミの謎』桑原康生 2014年2月 誠光堂新光社 でした。

著者は北海道内にて7000坪の敷地にオオカミやワシ、ウマたちと暮らしながら、ネイチャースクールを開校しているオオカミの専門家です。

ご存知の通り、日本の在来種であるニホンオオカミ、エゾオオカミは絶滅して久しく、著者がともに暮らしているオオカミはモンゴルオオカミ、ホッキョクオオカミとなっていました。

著者は世界で最もオオカミの研究が進んでいるアメリカ、イエローストーン国立公園にも毎年、訪れ、フィールドワークを行っているそうですが、本書ではオオカミの生息地から特徴、各国のオオカミの生息数や保護政策が紹介されておりました。

一般的に恐ろしいイメージのあるオオカミですが、野生のオオカミが人を襲うことは極めて稀なことであり、あったとしても人に餌付けされた経験のある人馴れしたオオカミや、狂犬病に罹患したオオカミによるものが大半で、人為的な要因が大きいようでした。

野生のオオカミは非常に警戒心が強く、基本的に人に近づくことはないということです。

本書の中で、最も興味を引いたのは生態系のなかでのオオカミの役割でした。

多くの生態系の中で、頂点捕食者として位置づけられてきたオオカミですが、20世紀にはアラスカを除くほとんどのアメリカの州でオオカミの姿は消え、五大湖周辺に生息する300頭ばかりとなってしまったそうです。

合衆国が建国される以前には数十万頭いたといわれるオオカミがです。

その結果、多くの生態系のバランスが綻び、中でもロッキー山脈の麓ではエルクと呼ばれる大型のシカが増殖し、その他の希少生物が激減する現象が現れ始めたそうです。

ところが、1995年にカナダからオオカミの群れを連れてきて、放った所、エルクの数は次第に減少し、生態系のバランスを取り戻していったのです。

まず、エルクの食物となっていた植物が勢いを取り戻し、昆虫が増えていったそうです。それに伴い、昆虫類を捕食する鳥類や魚類が数を増やしていきます。また、回復した樹木を利用して、川ではビーバーたちがダムを作り始め、そこにはたくさんの水生昆虫も戻り、カエルや水鳥があふれ、湿原生態系まで取り戻していったのです。

オオカミの存在が素晴らしいというよりも、自然界は多様な生物たちの絶妙なバランスの上に成り立っており、どの生物もかけては成り立たないということを改めて認識した次第です。

さて、オオカミの激減したアメリカで発生した生態系の乱れは、我が国、日本でも同様に発生しており、その被害は深刻です。本州ではシカの激増により、山林の樹木の樹皮が食べつくされ、その結果、限られた樹木に生息する希少種であるライチョウなどの鳥類に影響をあたえているそうです。

北海道では世界最大級の大きさを誇るシマフクロウです。翼開長180cmにもなるシマフクロウが巣をつくるには直径1mはある大木を必要とします。直径1mの大木はだいたい300年から400年かけて育っていくといわれるのですが、長い年月をかけて成長した大木の樹皮をシカが食べてしまい、木が枯れ、シマフクロウの住める森が次々と失われているのです。

シカの食害による農林業の被害も莫大で、多い年で年間約60億円を計上することもあるそうです。

そんな中、アメリカ同様、生態系の回復の一手段として、日本におけるオオカミの再導入の検討が本書では提示されておりました。

既存の生態系に及ぼす影響や再導入する際のオオカミの在来種、外来種等の「種」に関する問題、人間社会への影響など様々な観点から論じられておりました。

オオカミ再導入が語られる際、沖縄や奄美大島にてハブの駆除のため、放たれたマングースの失敗例(昼行性のマングースは夜行性のハブを捕食せず、効果がなかった所か、天然記念物であるヤンバルクイナやアマミノクロウサギを捕食し、深刻なダメージを与えてしまった)があり、再導入は慎重にならざるえませんが、この点、オオカミはマングースと異なり、朱鷺と同じように在来種でもあるため、生態系へのダメージはないであろうとのことでした。

海外でのオオカミと人間社会の最大の軋轢は家畜をオオカミが襲い、捕食することが挙げられておりました。海外の酪農の多くが広大な土地での放牧であり、人を襲う事は滅多にないオオカミですが、家畜は容赦なく襲うようです。

ただ、この点、日本の酪農は畜舎内での管理が大半で、特に夜間はほとんどの家畜を屋内に入れるため、海外の様な被害は出にくく、日本を訪れた海外の研究者も「オオカミ再導入は日本でこそ実現可能である」と述べていました。

クリアしていくべき課題は膨大ではありますが、本書を読み終え、オオカミと共生する日本を山林を夢想せずにはいられませんでした。

なお、彫刻家、藤戸竹喜が遺した「狼と少年の物語」の最後ですが、狼に育てられたアイヌの少年は共に育った最後の生き残りでもある1匹のオオカミともに森に消えていきます。

森へ還っていくとき、少年は何をおもったのでしょうか。

そして、藤戸はこの作品に何を託したのでしょうか。

日本の国土の3分の2は山林に占められております。

少しばかり狼の棲む森があってもいいのじゃないでしょうか。

ああ汝 漂泊者!過去より來りて未來を過ぎ 久遠の郷愁を追ひ行くもの(萩原朔太郎)









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