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学校の「当たり前」をやめた。

『学校の「当たり前」をやめた。』工藤勇一 2018年12月 時事通信社刊

本書、都内の公立中学校の校長であった工藤勇一先生の学校改革の軌跡が記されておりました。

工藤先生は言います。

「みんな仲良く」と教室に掲げても、子どもたちは仲良くなりません。他者意識のない作文、目的意識のない行事すべて、やめませんか、と。

筆者は、学校は子どもたちが「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ためにあると考え、そのためには、子どもたちには「自ら考え、自ら判断し、自ら行動する資質」すなわち「自律」する力を身に付けさせていく必要があると説き、赴任した中学校の改革にあたっていくのです。

その具体的な施策として、「宿題」「定期考査」「固定担任制」「服装頭髪指導」の廃止などが挙げあれ、およそ公立の中学校では考えられないようなものばかりでした。

工藤校長の全ての指針に貫通するのが、目的と手段の明確化にあり、学校で行われているあらゆる教育活動の目的と手段が取り違えられていないか、洗い出されておりました。

子どもたちが「自ら考え、自ら判断し、自ら行動する資質」「自律」する力を身に付けてゆく為に、真に「宿題」や「定期考査」が必要であるか、教職員たちと議論を重ねていった結果、その中学校では全廃されていったのです。

宿題をただこなすだけであったり、中間テストや期末テストなどが開催されたある時点での成績を確定させることは生徒の自律を促す上で、あまり意味がないと認識されたからでもあります。

宿題がなくなった代わりに、授業に集中する子供が増えたり、自宅で過ごす時間を、自分自身で有意義に使うように考える生徒が出てきたようでもあり、宿題が廃止されたことが、決して学力面でマイナスにはなっていないようでした。

また、定期考査の代わりに単元ごとのチェックテストが設けられ、このテストは何回でも再チャレンジすることができることから、着実に生徒の学力を高めていける仕組みとなっていったそうです。

今の日本の学校は自律を育むことと、真逆のことをしてしまっているように感じると筆者は述べ、手取り足取り丁寧に教えられ、喧嘩や対立が起きれば、教師が仲裁に入り、仲直りまで仲介してもらい、手厚く育てられた子どもたちは、自ら考え、判断、決定、行動できないまま、大人になっていくと語っていました。

そして、大人になってからも、何か壁にあたると「会社が悪い」「国が悪い」と誰かのせいにしてしまう・・・と。

本当に同感でした。

端的に工藤校長はこの根本的な要因として、「手段の目的化」を挙げておりました。

具体的に言えば、子どもたちの自律を促す「手段」であるはずの学習指導要領や教科書が「目的」となり、ただ消化してこなす対象となってしまっているのです。

その目的と手段の見直しが、工藤校長の学校改革そのものといってよいものでした。

本書を読むきっかけとなったのは、あるイベントのパネルディスカッションにて、工藤校長が登壇しており、その話がめっぽう面白く、的を得たものばっかりだったので、大変、印象に残ったことからでした。

その言動や立ち振る舞いは、学校の教師にはまったく見えず、やり手の経営者、ビジネスマンがピッタリだったことを思い出します。

しかし、本書にて経歴をたどると教育畑一筋の人物であることを知り、驚きました。

私も一時期、都内の小学校に勤務していたことがあったのですが、このようなタイプの先生をついぞ、見かけることがなかったからです。

いや、だからこそ、ここまでの思い切った改革ができたのだろうと感じ入った次第です。

本書、宿題や定期考査だけでなく、他にも運動会や修学旅行などの学校行事、地域社会やPTAを巻き込んでの学校改革の様々な事例が紹介されております。

また、組織風土の変え方や物事の当たり前を徹底的に見直す視点を養う上でも本書、大変、有用な一冊となるのではないでしょうか。


「さしあたって教育をどう攻めていくかであるが,経験から学ぶのが科学であるからには暗中模索するよりは戦前に戻してそこから軍国主義を抜けばよいと思う」 岡潔(数学者)




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