人生邂逅 ・まなび編 ◆仏教読書会から -44
秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく) 第三章 要同無畏心 より
第三章には、次の記述があります。
仏教は因縁の中道による
さらに
中道の正観(しょうがん)に由るから速やかに涅槃に到達できるのです。
とあります。
これは、仏教の根本思想に繋がる考えだそうです。
ここで、中道とは。となりますが、
片よった見方を離れて中正の道につくことで、釈尊以来、仏教の中心的な旗じるしの一つである仏教各宗の根本に流れている主張で、これは、ほどのよさなどという中庸の道ではなく、
とらわれを離れて厳しく公平に現実を見極め、正しい行動をとることを意味する。
ということです。
中道 と聞いて、私が頭に描いたのは、何物にも囚われない中立で公平な考え方。であり
これなら、自分でも心がければできそう。でした。
もちろん、言うは易く。 であることは、理解しているつもりですが、
それでも
まったく手の届かないものではなさそうと、思っていました。
しかし、上述の中道とは、にあるように
とらわれを離れて「厳しく公平に現実を見極め」、「正しい行動をとる」こと。
となると、その難度は一気に高まります。
涅槃に繋がる道がそうたやすくはない。ということです。
まず、とらわれを離れられているか?
ひとは1日になんと、35,000回もの決断をしているそうですが、
この決断が、どれだけ「とらわれることなく公正」に決断されているか
少し考えただけでも、恐ろしいことになりそうです。
35,000回は大げさにしても、その中の決断は明らかに「とらわれ」の対象になりうるものが多くあり、厳しく公正に現実を見極めたかどうか?
とらわれの要因とは?
習慣、価値観、信念、などなど、そして最も厄介な煩悩。
と考えると、悲しいかなほとんどの決断が、これらに影響されているように思えます。
さらには、「正しい行動」をとる。
ことまでが、中道には求められているのです。
何をもって「正しい」とするか?
と、ここで考えてしまうのですが、
これを疑問に思っているようでは、とてもとても。
中道の正観には程遠いと言われそうです。
そこにいくと、親鸞聖人の
だれでも、南無阿弥陀仏と念仏を唱えるだけで、悟りを開くことができる という
なんとも寛大な教え。が、わたしの頭に浮かんできてしまいます。