不明瞭への対峙
昨年末のレコード大賞はセカオワ「habit」でした。
ふだんこのような若い楽曲を聞くことはないのですが、大賞ということでじっくり歌詞も味わってみました。
分類したがる大人の「私」には、尖った何かが刺さった感があります。
特に最近は「発達障害」で片づけようとしてしまうこと。
人間関係でうまくいかない、ほかの人と違う、うまくできない、そんな人たちを分類しては型にはまった対処を調べてしまう。
まさに「bad habit」。
「あてはめゲーム」にはまり、上司・部下・同僚、そして家族までを分類してしまう。そして処方箋的な対応をしようとする。
人間関係に対する”知的怠惰”です。
私がまっさきに反省したのは、高2の息子に関して。
彼には一般的にいう「発達障害」の傾向が出ています。
ネットで調べては「あてはめゲーム」を完成させてしまい、彼の未来への可能性に一種の諦め感をいだいていました。
本来、こういう診断というのは、
生きづらさを克服して、その人を幸せにするため
にあるはずなのに、分類して型にはめてしまうことで、かえって不幸にしてしまう可能性もあります。
多動で落ち着きがなく、言っていることが(少なくとも私は)理解不能。
発達障害だから仕方ないと表面的にしかわかってあげられなかったのですが、今年からスタンスを変えてみました。
キチンと目をみて彼の話を聞き、どんなに突飛でいかれた内容でも、自分なりに真剣に意見を交わすようにしました。
まだまだ途中段階ですが、少しずつ真意が理解できるようになりました。思っていることと発する言葉が一致していないことにも気づきました。
息子とのコミュニケーション自体も増えてきました。
いまが悪いわけではないですが、いい大学、いい会社、人様と同じ道を歩まなくても、
幸せに生きている
となってもらえるよう、これからも型にあてはめず、「不明瞭な何か」と付き合っていこうと思います。
それこそが人生そのものなのかもしれません。