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モノクロ、カラー、ステートメント

最近読んだ書籍「おしゃべりな脳の研究」の中に興味深い一文があった。

一部の人によれば、言語には、通常なら別々の認知システムで処理されるような複数の情報の流れを統合する、特別な能力があるという。例を挙げると、幾何学に関するデータ(複数のものの相対的な位置関係)は、たとえば色を処理するシステムとは、全く異なる認知「モジュール」によって処理されていると考えられている。
中略
内言が妨げられると、参加者はこの種の統合(「赤い家を左に曲がれ」と言った指示を処理するような)を行う能力を失う事が、少なくともひとつの研究によって示されている。

「おしゃべりな脳の研究」 チャールズ・ファニーハフ 太字括弧内はブログ筆者による補足

これは、創作に関するメモ書きが大量に書かれた、ゴッホの残した手紙を元に話が進められる章の一節。
写真を撮っているとぼんやりと、「モノクロ写真は形を見るのに優れ、カラー写真は記憶に訴えるのに優れる」とは感じていたが、その差が脳内で形を処理するモジュールと色を処理するモジュールが別な事に由来するかもしれないと思った。
そして何より興味を引くのは、そのモジュール間を統合するネットワークに言語が絡んでいるという点で、これには驚きと共に自分の体の不具合に対する医者からの病名を告げられた時のような、一種の納得感と安堵を覚えた。写真を見るのにも撮るのにも言語は重要な働きをしているのかもしれない。

つまり、モノクロ写真はカラーが無い分、脳のカラーに関するモジュールに対する影響が少なくて、その分、脳内のその間に走る言語によるネットワークの独り言が少なくなる。つまり、モノクロの方が見る人の頭の中での翻訳無しにストレートに写真が伝わりやすく、また逆に、カラーの方が見る人の言語的な解釈の自由度が増すという事になるように思える。
勿論モノクロ写真と言っても見る人は世界の景色全てがモノクロになってしまう訳では無いので、モノクロ、カラー何れにしてもそれを見る時には脳内のネットワークを統合する為に言語が使われている事は変わらないはずだ。

「写真と言語は関連する」という話に、何を言わずもがなと思う方もおられるかもしれない。
でも私は写真の先生からよく「写真は言語化できない何かを伝えるものだ」と教わっていて、自分自身はその事についてホントかなぁ?と常々思っていた。なので、自分としては上記の説はかなり腑に落ちるものだった。
人は写真を見る時、その感覚は頭の中では言語のネットワークを介して理解されているとすると、その写真が伝わるのは、撮った人の言語的表現が、見る人の言語的理解に達したという事になると思う。
逆に理解できないというのはその写真を理解する為の言語が、その人の頭の中で足りていないのではないかしらん。

以前、浜田泰介氏の写真展に行ったとき、会場にステートメントが置かれていなかったのでその事に付いて尋ねたら「作品をまとめるにあたり一応ステートメントは書いたのだが、会場にそれを掲示すると見る人のイマジネーションを邪魔してしまうので、ここにはあえて置いていない」と言う意味の事を仰られた事も思い出す。
これは「ステートメントは鑑賞者の頭の中で行われる言語による処理の自由度を制限する」という意味と解釈するととてもスッキリする。
逆に考えると、ステートメントは鑑賞者の思考に留まらず感覚にまで影響を与えるもので、作品の重要な一部と捉えることが出来るとも言えると思う。


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