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作品からする嫌な匂い

精神科医の書いた「家屋と妄想の精神病理」という本の中に、筆者の感じる妄想のリアリズムに付いての言及が有った。人の妄想を聞くと、創作とは違う"野暮ったさ"を感じるのでそれと分かるのだそうだ。
以下少し引用してみる。

「わたしにとって妄想っぽさ、妄想のリアリズムといったものは、どこか野暮臭い雰囲気に通ずるものである。夢には夢なりのリアリズムがあるのと同様に、妄想には妄想なりの独自な感覚-すなわちどこか野暮ったくどろくさいものがそれとなくまつわっている気がしてしまうのである」
中略
「野暮であるとはどのようなことなのだろうか。その言葉には、感性の鈍さ、自己批判性の欠如、古臭さ、無自覚な世俗性といった意味合いが含まれているに違いない。そして妄想を語る患者たちの内面には、そうした要素が横溢している。彼らは妄想の馬鹿馬鹿しさや非常識さを疑ったり恥じることがない。批判されればされるほど妄想へ執着し、妙に疑い深かったり神経質ではあっても一社会人としてはきわめて鈍感である」

春日武彦 著「家屋と妄想の精神病理」より

これは刺さった。読んでいてぐさっと胸を刺された。
自分で自分の写真を見ながら、「何か、良くないな」と思う事がよく有り、しかしその違和感の正体はずっと分からなかったのだけど、この精神科医の文章を読んで一息に分かってしまった。
つまりそれは、この人が言うところの「野暮」なのである。

野暮な写真とは、自己批判性が欠如した写真の事だ。
目の前に広がる光景を、ひいては世界を独りよがりで独断的な視点で認識し、恥とも思わない。その癖少しでも批判されたり自分の思い通りでなかったりすると、まるで自分のアイディンテティが立ち行かなくなるかのごとく強く反応してしまう。そんな写真だ。
(この感覚が分からないという事なら、田舎の公民館に行き、壁に飾ってある老人から寄贈された山や鳥や孫の写真を見ると良い)

自分も年を取ったので、後でその写真を見ると自分のそういう内面も分からなくもなくて、撮られた写真を見てもそういう内面が見えてくる。(それはもう、写真から立ち上る悪臭のようなものだ)
でも撮っている時は夢中で分からない。周りが見えない、本質が見えない。自分の心は自分自身の思う妄想で一杯。これが野暮な写真に繋がるようだ。

現場にいながら世界を俯瞰し、偉大な写真家のように撮影できるようになるのには、まだあと10年かかるのかもしれない。

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