百万ドルの教室

『――の皆さん、下校の時間です――速やかに片付けて――』

教室内に響いたアナウンスに、はっと我に返った。
思わず壁時計に目をやると、もう六時半。完全下校の時間だ。
そこら中の机に広げていたテキストを慌ててかき集めて、リュックの中に詰め込んだ。

何冊ものテキストが何とか入りきって、やっとのことでファスナーを閉じきった。けれどその瞬間、ぱちん、と音がして、ふっと周りが暗くなる。
「え?」
教室の電灯が消されてしまったらしい。電気を消したと思われる人の足音が廊下の奥へと遠ざかっていく。
「まだいるってば……」
気づいてもらえなかったのだろうか。何だか切なくて独りごちる。誰もいない真っ暗な教室で冴えない声が静かに響いた。
「帰ろ……」
立ち上がってリュックを背負おうとした、そのとき、ふと窓を見た。
「……は、」

それは、信じられないくらいに輝きを増した夜景だった。
真っ黒のキャンパスに、白、赤、青、緑。色とりどりの光が瞬いている。
と、気がついた途端、あたり一体が煌めきに包まれて、私はいつの間にか夜景そのものの中心に立っていた。右も左も瞬く夜景。立ち並んだビルはもはや輪郭が夜の闇に溶け込んで、光だけが空をたゆたっている。
「きれい……」
目が眩むほどの光に魅了され、思わず手を伸ばした。
宙を掠めると思っていたその手は、案外簡単に光に触れた。
手のひらに零れ落ちた光を引き寄せる。それは真っ白に輝き、手のひらを離れて私のまわりでちらちらと浮遊する。
もう一度手のひらを伸ばした。そうしたら、今度は私の身体がふわり、浮き上がった。いつの間にか足元にも夜の闇が波打っている。ふわりふわりと浮遊して、光がこちらへと流れてくる。いや、私が光の方へ流れているのかもしれない。
両手いっぱいに広げて、光をかき集める。ピンク、水色、黄色、オレンジ。宝石みたいに煌めくそれはあっという間に私のまわりに広がって、波に乗って夜を泳ぎ、私を包みこむ。ああ、なんて綺麗なんだろう。光に溺れてしまいそうだ!
ふと、頭上で星が瞬いているのに気がついた。星は金色のようで、銀色にも見えて、いやあれは赤なのかもしれない。それにすら手が届く気がして、考える間もなく手を伸ばした。

「熱っ」
触れた指先に電流みたいに勢いよく熱が流れて、咄嗟に振り払った。途端、バランスが崩れて、一気に後ろに倒れ込む。
「うわ、わ、っ」
どてん。鈍い音を立て、私は尻餅をついた。その拍子に光が四方八方に散らばっていくのが僅かに見えた気がした。

「った……」
衝撃で瞑ってしまった目を恐る恐る開ける。悲しいことに、もうそこはいつもの教室だった。
じんじんと背中が痛む。机の角にぶつかったらしい。
「なんなの……もう……」
私を包み込んだ光はもはや跡形もない。それが無性に虚しさを煽った。
白昼夢だろうか。いや、もう立派に夜だから……ただの夢? もうよくわからない。
「あーあ……」
誰に聞かせるでもない、情けない声が洩れる。
きっと疲れているんだ。勉強に追われていたせいかもしれない。ため息をついて、立ち上がろうとしたとき、ふと、左手のひらに熱を感じた。何かを握っているような気がする。
「え、これ」
それは金色や銀色、もしくは赤い色に輝く、星のような欠片だった。手のひらを緩めた瞬間、欠片はちりちりと音を立て、風に溶けるようにさらさらと消えていった。
ふと、視線を上げる。教室は相変わらず真っ暗だ。けれど、きらきらと輝くビルの町並みは確かに窓の中にあった。
五階建ての校舎の最上階。その窓から見る景色がこんなに綺麗だったなんて、知らなかった。
ようやく立ち上がり、手を伸ばす。光に手は届かない。指の隙間で、遠くに瞬く光がぼやけた。

「おーい、まだ誰かいるのかー? 門しまっちゃうぞー!」
廊下の奥で先生の声が聞こえた。私は慌ててリュックを背負い、教室を飛び出した。

ふわり、白い光が視界の隅に映った、気がした。


◇◇◇

その景色を見たのは、用事を終えて帰り支度をしているときだった。窓には見事な夜景が広がっている。その瞬間、私は“良いこと”を思いついた。

建物の角に位置するその部屋は、窓が二面ある。いわゆる窓側、といえる横側。それから、後ろ側。
ほんのわずかな窓に見える夜景がこんなに綺麗なんだから、二面に渡って見る夜景は比べ物にならないほどだろう、と思い立ったわけだ。思った通り、そこから見る夜景はなかなかのものだった。何とかその光景を残そうとスマートフォンを掲げて見たものの、やはり上手く撮れはしなかった。心の中に記録しておく程度がちょうどいいということだろうか。

階数だけがやけに多いこの建物だからこその魅力を、その夜知ることができた。暗くなるまでここに残る者の特権だ、と思うと、ちょっと誇らしい気分になる。

#小説 #エッセイ

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