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ネモト・ド・ショボーレ x 北沢夏音対談 東京のアンダーグラウンド・カルチャーの目撃者たち

KKV Neighborhood #55 Dialogue - 2020.12.29
構成 by 与田太郎

10月に発売となったCHILDISH TONES feat.宇佐蔵べにのアルバム『God Bless the Girls』は音楽好きのリスナーに幅広く支持された。このアルバムに込められた様々な要素は、リーダーでありプロデューサーでもあるネモト・ド・ショボーレの90年代から続く活動が集約されたものとも言える。その長い歴史を、これもまた独自の視点でシーンを見つめてきた北沢夏音さんと語ってもらった。

与田 お二人の出会いはいつ頃ですか?

ネモト 90年代半ばの『VIVA YOUNG !』とかじゃないでしょうか?

北沢 そう、たぶん下北沢CLUB QUEで、当時マーブルダイヤモンドというバンドのベース/ヴォーカルだったクラヤマナオキさんが主催して、いまも続いてる『VIVA YOUNG !』というイベントじゃないかな。

与田 ということは95年か96年あたりですか?

北沢 そう、そのイベントにフミヤマウチ君と僕がDJで参加するようになった96年頃ですね。

ネモト ちょうどサニーデイとかも出演し始めた頃ですよね。その頃は俺、QUEでバイトしてましたから。

北沢 あの頃は僕も下北沢に住んでたから、帰る時間とか気にしないでいろんなところに行けた。いまほどハコは多くなかったけど、気楽に遊びに行ける環境だった。DECKRECのスタートはいつから?

ネモト DECKRECは98年に立ち上げて、99年にポリシックスの1stを出したのが最初です。

北沢 下北沢に住んでいたのは2000年までなんだけど、その後もずっとDECKRECのリリースがある度にサンプル盤を送ってくれて。届く度に、愛着のある街から離れてしまった心の隙間をちょっぴり埋めてくれる友達からの便りのように感じてた。とにかくネモトさんはロックンロールのビッグ・ファン、人生をロックンロールに捧げている人、というのが当時の印象で、それはいまも変わらない。

ネモト やってることは変わらないですね。

与田 変わらないで続けるのが難しいんですよ。

北沢 それができるのは、信じられないぐらいすごいことなんだよね。

ネモト 自分としては続けようって思っていたわけではなく、なんとなく続いちゃったという感じなんですよ。だいたいみんなそうですよ、チャーベ君と話してもそんな感じだし。

北沢 レーベルを主宰するよりバンドマンのほうが先でしょう?

ネモト そうです、それこそ『自由に歩いて愛して』もよく行ってましたし。ハッピーズと仲が良かったりしたし。92~93年ぐらいから新宿のJAMスタでライヴやり始めて。その頃はモッズ・バンドをやっていて、ベースがいまUFO CLUBの店長やってる北田君で、ドラムが後にストロボっていうバンドのパーカッションになるリュウダイってやつで、トリオのザ・ジャムみたいなバンドやってました。

北沢 そうなんだ! ぼくらとほぼ同時期だね。なんていうバンド?

ネモト CUFFLINKS(カフリンクス)っていうバンドなんですが、2、3年くらいやってたのかな?渋谷のDJバー・インクスティックに『自由に歩いて愛して』を観に行った時に、ハッピーズとヘアが出ていて。その頃”村八分”のチャー坊が亡くなったんですよ。

北沢 じゃあ、94年かな? チャー坊が亡くなったのは94年の4月25日だから。

ネモト よく覚えているのは、ヘアのあいさとうさん(現ジーノ・ロンドンのリーダー/ギタリストのジーノサトー)が一曲目に「チャー坊に」って言って、ローウェル・フルスンの”PICO”を始めたんですよ。その瞬間をめちゃめちゃ覚えてます。強烈な印象がありました。

Lowell Fulson - Pico

北沢 さとうさん、「村八分は日本語のブルースだと思ってる」って言ってたからね。たしかその時のリハで「あッ!!」のイントロのリフを突然弾き出して、すぐ止めたけど、「えっ、それやるの!?」って超アガったのを覚えてる。

村八分-あッ!!

北沢 あの頃、大阪にDJで呼ばれたことがあって、最初にプライマルの”ムービング・オン・アップ”から始めて、ストーンズの“モンキー・マン”とかかけてけっこう盛り上がってたんだけど、何かの拍子に音が途切れたのね。とっさにバッグのいちばん奥に突っ込んであった『村八分/ライブ』の“あッ!!”を馬鹿でかい音でかけたんだよ、やけっぱちになって。チャー坊が客に向かって「うるせぇ!!!!! 文句あるんならここ来たら?」って怒鳴るMCも込みで(笑)。それで空気が変わってさ、あとは和モノばっかりかけて終わった後、ザ・ギアっていう大阪のモッズ・バンドのベーシストのツクダ(シンゴ)君に声かけられて、「チャー坊死んだの知っとったんか?」って訊かれたの。そこで初めて亡くなったことを知ったんだ。雑誌『クイック・ジャパン』で連載したチャー坊の評伝「草臥れてーーロック殉教者・チャー坊〈村八分〉の生と死」の第1回(1996年4月発行Vol.7)はそのシーンからはじまる。

ネモト 『クイック・ジャパン』の北沢さんの連載は全部読んでますよ。

北沢 ありがとう。結局、本になったのって、いちばん最後に連載した長篇ルポの「Get back,SUB! あるリトル・マガジンの魂」(本の雑誌社/2011年)と、あとはサニーデイ・サービスのドキュメント「青春狂走曲」(スタンド・ブックス/2017年)だけなんだけどね。

ネモト ヘアの連載(「ヘアー!ーーモッズ族。あるいはトーキョー・ヤング・ソウル・レベルズ」/『クイック・ジャパン』2002年3月発行Vol.41~2002年7月発行Vol.43)は、俺の周りではみんな読んでましたよ。

北沢 嬉しいな。証言者の中には亡くなった方もいるし、風化しないうちにあの頃(90年代前半)の記録を残せて本当によかった。

ネモト ドレスコーズの志磨(遼平)君もずっと読んでいたみたいで、北沢さんの連載ページを切り取ってスクラップしてたって言ってました。

北沢 志磨君と初めて話した時、そう言ってくれて嬉しかった。「草臥れて」と「ヘアー!」はいまだに読者から書籍化の要望をいただくことが多くて、待ち切れない人はスクラップして私家版を作ってくれたり……単行本にもなっていない昔の雑誌の連載記事をそんなふうに大事にしてもらえるなんて、本当に光栄です。若いミュージシャンにもあれを読んだっていう人がけっこういて、「草臥れて」にはOKAMOTO’Sとか台風クラブのメンバーが熱いメッセージをくれた。いちばん最近ではカネコアヤノ・バンドのベースの本村(拓磨)君とギターの林(宏敏)君からそう言われた。サニーデイとカネコさんのツーマン(2020年10月28日@渋谷WWW-X)で久しぶりに会ったとき、本村君が満面の笑みで、レコーディング合宿中に村八分が大ブームだったって。林君も「あの連載すごく面白かった!」と言ってくれて。 訊き忘れたけど、もしかしたらカネコさんの事務所「1994」のクリエイティヴ・ディレクター、庄司信也君経由で興味を持ってくれたのかも。

ネモト 林君たちの世代で村八分とか70年代的な空気を持ってる人って珍しいですよね、彼はすばらしいギタリストだと思います。

北沢 林君大好き。貴重な存在だよね。カネコアヤノ・バンドは最高のメンバーが揃ってる。

ネモト 林君とは去年一緒にレコーディングしたんですよ、ボヘミアンズのレコーディングに誘われて俺がマラカスやって林君がギターで。あと、おとぎ話の牛尾君も参加してブルース・セッションみたいな感じで。

北沢 最高じゃない、そのメンツは興味深いな。

ネモト 演奏も歌も全部一発録りで。

北沢 曲はなに?

ネモト ボ・ディドリーの"I’m A Man”みたいな曲で、楽しかったし良い感じでしたよ。

THE BOHEMIANS – スペルまで

北沢 そういう新しい世代の人たちが村八分を好きっていうのが嬉しいよね。志磨君は自分のラジオ番組で村八分をかけてたし、台風クラブの新曲「下宿屋ゆうれい」のMVにも村八分のポスターがバッチリ映ってる。

台風クラブ - 下宿屋ゆうれい

北沢 やっぱりはっぴいえんどが日本語ロックのはじまりという人が多いし、僕もはっぴいえんどは好きだけど、村八分も同時期にまったく違うアプローチで日本語ロックを究極まで突き詰めたオリジネイターだから、もっと再評価されていいはず。

ネモト パンク的な衝動を感じるかどうかですよね。

北沢 まさに。CHARがセックス・ピストルズを聴いて「これって村八分じゃん」って言ったという逸話があるけど至言だよね。山口冨士夫さんが亡くなる前に(2013年逝去)、ドキュメンタリー映画を作ったじゃない(「山口冨士夫/皆殺しのバラード」/2014年公開/監督:川口潤)。あれの一場面で冨士夫さんが、「いま15歳ぐらいの子たちのあいだで村八分が大人気なんだよ!」ってものすごく嬉しそうな顔で言ってるのを観て、こっちまで嬉しくなっちゃった。

山口冨士夫/皆殺しのバラード(予告篇)

ネモト そういえばあの映画、俺もちょっと宣伝手伝ったんですよ。

北沢 良い映画だよね! よくぞ撮ってくれました。

ネモト 音楽のドキュメンタリーって、だいたいはずれ無いですからね。

北沢 特にパンク系ははずれが無い。

ネモト 俺、世界で一番好きな音楽ドキュメンタリー映画が『悪魔とダニエル・ジョンストン』(2005年製作・2006年公開/監督:ジェフ・フォイヤージーク)なんですよ。 

The Devil And Daniel Johnston (trailer)

北沢 あれね!

ネモト 本当にピュアじゃないですか? 狂ってるし。なんかめちゃくちゃ身近に感じるんですよ。

北沢 やっぱり自分が一般社会からはみ出してるって実感した時に、そういうアウトサイダーを好きになるのも当然だってわかるんだよね。

ネモト 『悪魔とダニエル・ジョンストン』が好きな理由の一つは、自分の10代前半の頃の中学も半分ぐらいしか行っていなかった、色んな意味で社会からドロップアウトしてしまって引きこもりだった経験を重ねている部分もあると思います。そういう10代特有のギリギリで繊細なピュアさというか。

与田 ネモトさんは一貫してそういうピュアネスを追求してますよね。

ネモト そういうものって純度が高いじゃないですか。

与田 同じことですけど、純度の高さというより不純物を避けてるという感じですよ。だからDECKRECもUKプロジェクトでやってましたけど、ネモトさんは社員になったりはしませんでしたよね。

北沢 そうなんだ!?

与田 それは自分の自由度が制限されるのが嫌だったんですよね?

ネモト そうですね、あの頃のUKプロジェクトには、社員スタッフはバンドをやっちゃいけないってルールもあったし。

北沢 マジか。 

与田 俺はそこまで考えてなかったんですけど、ネモトさんのやってることを横で見ていて筋は通ってると思ってました、音楽もブレてないし。それがここまで続いてるも相当すごいですけど。

ネモト 自分じゃわかんないんですよねー。

北沢 ネモトさんは、ショボーレ・スリー(ネモト、ウラアツシ<NG3 / RON RON CLOU>ハッチ・ハッチェル<デキシード・ザ・エモンズ>による60'sブリティッシュ・ビートの名曲をカバーするバンド。96年~2000年に4枚の7インチとベスト盤をリリース)をやってる頃から基本的に変わってないよね。

ネモト 方法論は変わりましたけど気持ち変わってないですね、普通の楽器じゃなくなったり、大きな音じゃなくなったくらいで。求めるものは変わってないですね。そういう意味では気持ち的にジョナサン・リッチマンからの影響も強いと思います。ミニマムで自由で。

北沢 それもよくわかる。

ネモト ジョナサン・リッチマンが好きっていうのと、ダニエル・ジョンストンを好きな気持ちは一緒っていうか、似てる感覚です。

北沢 ボ・ディドリーの来日コンサートでステージに上がって、マラカス持って踊ったっていうエピソードがネモトさんを象徴してるよ。

ネモト それをお客として観に来てた鮎川誠さんと山名昇さんが見てたっていう (笑)

北沢 モリッシーの武道館公演で抱きついた人を目撃した、みたいな(笑)。

与田 それ目の前で見ましたよ、人生のメンバーですよね。

北沢 僕はその時、向かいの九段会館でトム・ヴァーレインを観てた。すごく迷ったんだけどね、スミスなら間違いなく武道館だったんだけど、その時はトム・ヴァーレインを選んだんだよ、いまならモリッシーに行ってた(笑)。

与田 良かったですよ。

北沢 ギターは誰だったの?

与田 あの時もうポールキャッツのボズでした、もうネオロカ人脈だったと思います。

ネモト そのモリッシーの人脈の感じが”チャイルディッシュ・トーンズ feat.宇佐蔵べに”のカヴァーした”ASK”には反映されていますね。”ASK”は昔から好きな曲だったんですけど。80年代のイギリスってネオアコとネオロカビリーって人脈的に繋がってたでしょ? 日本ではまるっきり別物だったけど。そういうネオアコとネオロカが繋がっていたイギリスをイメージして作ったんです。

北沢 なるほど! 僕は84年の夏にイギリスへ行ったのが初めての海外だったんだけど、その時ロンドンで、ポール・ウェラーが主宰してたレスポンド・レーベルが売り出し中のクエッションズっていうヤングソウルなバンドを観に行ったの。3バンドの対バンで、最初に出たのがなんと黒人ヴォーカルのネオロカ・バンド。それがえらくかっこよくて、当時の自分の常識だと、ロカビリーは白人の音楽で黒人がやるものじゃないって思ってたから、かなりの衝撃を受けてさ。それで2番目がどうしても名前を思い出せないんだけど、絵に描いたように爽やかなネオアコ。トリのクエッションズもめちゃくちゃフレッシュで溌剌としてて、レコードじゃ本当の良さが伝わらない最高のライヴだった。あの時代特有の空気だと思うんだけど、街角にブルーベルズの名曲“キャス”の女の子二人が並んだ最高にキュートな絵のポスターが貼ってあって、通りにはフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのメッセージTシャツ着てる人がぞろぞろ歩いてるみたいな、ものすごく雑多だけどワクワクする感じ。ラフ・トレードから出たジョナサン・リッチマンの「ザット・サマー・フィーリング」の7インチと、ポストカード・レコーズの主宰者アラン・ホーンが設立した新レーベル、スワンプランズの第1弾で幻の映画『パンク・ロック・ホテル』のサントラからエドウィン・コリンズ&ポール・クインがヴェルヴェッツの「ペイル・ブルー・アイズ」をカヴァーした7インチもそのとき買ったよ。それで日本に帰る前の晩に泊まったホテルでラジオをつけたら、アスワドのライヴが流れて、まだポップになり過ぎてないオーセンティックなレゲエで、このヴァイブレーションがロンドンだ!って感動した。街全体がオール・イン・ザ・ミックス。

THE STYLE COUNCIL & RESPOND POSSE feat.The Questions,Tracie!

THE BLUEBELLS – Cath

JONATHAN RICHMAN & THE MODERN LOVERS – That Summer Feeling

PAUL QUINN & EDWYN COLLINS – Pale Blue Eyes

ASWAD – Roots Rocking Live ‘N’ Direct

ネモト 北沢さんも俺もそういう時代を体験してるじゃないですか、チャイルディッシュ・トーンズはそういう時代的な体験を反映してるんです。俺が90年代に体験した空気感みたいなもの。

北沢 僕らはネオモッズや2トーン、ネオロカ、ネオサイケなんかを入口に、リアルタイムでは経験していない50年代、60年代の音楽やファッションに親しんだじゃない。日本でもネオGSがまさにそういう感じで、若い世代が過去を発見して恋焦がれると、それはレトロじゃなくなる。90年代に入ると70年代も新鮮に見えてきて、もっと深いところまでディグするようになる。あの熱気は“懐かし地獄(レトロ・ヘル)”なんてもんじゃない。あの天国みたいな感じはもう二度と帰ってこないだろうなと思ってたけど、2020年のいま、チャイルディッシュ・トーンズとうさべにさんが、これまでにないぐらい自由自在に時代を行き来して、いろんなものを再発見して好きなように混ぜ合わせて、リフレッシュして魅せてくれるのは嬉しいし、素敵だよね。

ネモト 90年代が面白かったのは、最新のダンス・ビートで60年代を取り入れてる人と、アンダーグラウンドに潜って当時の再現をする人で分かれていたじゃないですか。当時のモッズのシーンはどちらかというと原理主義的で。

北沢 まあね、’60sのオリジナルしか認めないという。

ネモト スタイル的にもストイックでハードコアな感じでしたね。 

北沢 でも、キングジョーさんとかネモトさんは、そういう感じが苦手でガレージに向かったんでしょ?

ネモト 自分がモッズ・シーンからガレージ・シーンに向かっていったのは、そういう部分もありますね。

北沢 ジョーさんは「ヘアー!」の連載に寄稿してくれた時、そう証言してた。モッズがちょっと窮屈に感じたって。

ネモト だいたい同じです。キングジョーとは60年代を好きになってガレージに流れていく感じが似てるんです。人によってはサイコビリーやロカビリーから来たりするんですけど、モッズからガレージに向かった人って、自分の身近にはジョー君ぐらいしかいなくて。モッズってネオアコにも行けるし、いわゆる渋谷系にも行けるし、いろいろじゃないですか。

北沢 そうだよね、実際そういうバンドもいるし。僕は80年代の初めにライヴハウスへ行くようになって、同世代のバンドで最初に好きになったのは、いまはコレクターズでもベースを弾いてるオレンジズの山森(”JEFF”正之)君がいたシャムロック。彼らも僕もまだ高校生で、TVのバンドコンテスト番組で優勝した彼らを偶然観て、ザ・ジャムみたいなオリジナルやっててカッコよかったんだ。実はその時のドラマーが、のちにヘアのドラマーになるエグチ(・マヌー)君だったと、あとで本人から教えてもらって驚くんだけどね。

THE SHAMROCK – I Still Love You (“HOT-TV” 1980.9.28)

the Shamrock – Loosen Love Sick  (“1988-89 Special LIVE TOMATO”)

北沢 初めて彼らのライヴを観たのは、渋谷のEgg-manかTAKE OFF7の昼の部だったかな、アンコールでギター/ヴォーカルの高橋(一路)君がポール・マッカートニーと同じキーのハイ・トーンで“ロング・トール・サリー”をシャウトするからぶっとんだ。態度もクールだし、同世代にこんなやつらがいるのか!って。それからシャムロックの対バンでヒロトがヴォーカルのコーツを観てショックを受けたり、バイク(コレクターズの前身バンド)を好きになったりして、モッズのイベントに通ってたんだよね。

THE COATS Live at Yoyogi Park 1884.1.8

THE BIKE – 僕は恐竜 (“ The Song for Mr. Dinosaur!” Flexi) 1985

北沢 でも、87年に出版社に就職して少年漫画誌の編集部に配属されたら、忙しくて遊びにいけなくなって。だから87~88年という東京インディーポップ・シーンの最重要な年にほとんどライヴハウスに行けなくて、見逃したものが本当に多い。辛うじて行けたのは87年のモッズ・メーデーぐらい。まだ研修期間中だったから。

ネモト 俺はその時期まだ地元にいて。

北沢 地元はどこなの?

ネモト 栃木県です。北関東ってロカビリーが盛んで。でも基本的に暴走族とリンクしてたり、地方の不良文化なんですよ。当時一緒にバンドやってたやつがそういう方面に知り合いがいたりして。むちゃくちゃ怖かったですよ(笑)。イベントもライヴハウスじゃなくて、ボーリング場借りたりして、でもお客さんもほぼ暴走族(笑)。 

北沢 シチュエーションだけはアメリカン・グラフィティっぽいね(笑)。

ネモト 言葉で言うとアメリカン・グラフィティなんですけど、記憶の中の映像は全然違う(笑)。パンチパーマの暴走族。

北沢 僕は、87~88年はライヴに行けない代わりに、必死になってレコード買ってなんとか凌いでた。

与田 バブルの絶頂期ですよね、出版社の仕事なんて大変だったんじゃないですか?

北沢 慣れないうちは本当に大変でしたよ。87年というとネオGSもキテたし。徹夜で入校作業してたら、編集部のTVにコレクターズが映ってて、加藤(ひさし)君がユニオンジャックのスーツ着て歌ってるのを観て、「あーっ、ライヴ行きたい!」って外に飛び出したくなったのを覚えてる。


与田 コレクターズのMINT SOUND盤10インチも87年ぐらいじゃないですか?

北沢 まさに。『ようこそお花畑とマッシュルーム王国へ』。結局、あれがいちばん好きかもしれない。

ネモト 俺もですよ(笑)、1stのマジックがありますよね。

北沢 コレクターズは一度も解散しないで、テンションも落とさずに30年以上続けてるのが素晴らしいよね。ネオGSだとストライクスも、間違いなくスターになれると思ったんだけど。

ネモト ストライクスは不良だったから。

北沢 彼らはモンキービジネスを蹴飛ばしたんだよね。

ネモト ストライクスの猪狩(剛敏)さん(ストライクスのギタリスト、現在は新宿のライヴハウス紅布の店長)から聞いたことがあるんですけど、浅香唯が主演の『YAWARA』っていう映画にストライクスで出演する話が決まっていたんだけど、「自分たちの美学的に、この映画に出ていいのか?」ってメンバーで話し合って、撮影の当日にばっくれたっていう。

与田 当日はやめてほしいですね(笑)。

北沢 与田さんはスタッフ側の気持ちがわかるから……そう言いたいよね(笑)、なんかチェッカーズみたいにされそうになってやめたって聞いたよ。

ネモト あの時代のメジャーは、バンドを売り出す時にみんなチェッカーズをお手本にしてましたね。ストライクスはヤンキーとは違う種類の不良。

北沢 ストライクスは本当に惜しかった。いまだに、日本語のロックンロールでここまでハンブルグ時代のビートルズに迫ったビート・グループもないんじゃないか、って思っちゃう。

THE STRIKES – Little Shimmy Brown (V.A.“Attack Of…Mushroom People”) 1987

THE STRIKES – Hey! Hey! Hey! Hey!~Madam Ruby (“GS GS GS CARNIVAL”@九段会館 1988.4.24)

北沢 僕は高校生の頃、とにかくラジオに齧りついてた。実家がある八王子はFEN(米軍放送)もクリアに聞こえたし、当時は2局しかなかったFMも良質な音楽番組が多くて、モータウン特集とかブリティッシュ・ビート特集とかエアチェックしまくっているうちに、自分は黒人音楽が好きなんだって気がついたから、モッズの音楽性は最初からしっくりきたんだよね。モッズ・メーデーの主催者・黒田マナブくんが発行してた『HERE TODAY』っていうModzineにもすごくシンパシーを感じた。それで話は飛ぶけど、彼がやってたレディエイトっていうモッズ専門のインディー・レーベルから、88年に『Why Don’t You Get Smart?』っていう、4バンド1曲ずつ入ってる7インチのオムニバスが出てさ。

ネモト ザ・ヘアも入ってますね。

北沢 ヘアが1曲目で”Gimme Gimme Gimme Some Good Good Lovin’”、あとはメイベルズ“This Oval Walnut”とハイ・スタイル“Mod About Town”とアイ・スパイ“Here Today”、レディエイトの最高傑作と言っても過言じゃない充実の一枚。特にメイベルズがあまりにも名曲で、彼らの熱烈なファンになっていまに至るんだけど……。

THE MAYBELS – This Oval walnut

北沢 最初に聴いた時はヘアだけが謎だったの。でもなんかずっと気になっていて、他の3組はすごくポップで歌詞もよくわかるんだけど、ヘアは雑音にしか聞こえない(笑)。それぐらいワイルドで、歌詞もちゃんと聴き取れなかった。でも、ある時ヘアがいちばんカッコよく聞こえてしまって、ルーディーな雰囲気とか、間奏のギターソロのラテンっぽい感じとか、いちいちセンスよくて全部かっこいいと思えてきた。歌詞がまたストリート感に満ち溢れてて、出だしから〈朝早く起きて/顔を洗って/ノコノコ出かけた~〉っていうの(笑)。

THE HAIR – Gimme Gimme Gimme Some Good Good lovin’

ネモト ヘアがカッコよかったのは、同じ言葉を繰り返すだけの歌詞だったり。

北沢 いま思えば、あのヒップなセンスは、コースターズみたいな黒人音楽のノヴェルティ・ソングをストリート・レベルで完璧に噛み砕いた日本語R&Bの超傑作だと理解できるんだけど。ヘアのスゴさがわかった瞬間こそ、僕の人生の大きな分かれ道だったね。それでようやくライヴハウスに行けるぐらい仕事にも慣れた頃には、ヘアが街の噂になっていて。

ネモト スカパラの次にブレイクするのはヘアだっていう空気になってましたね。

北沢 そう、当時のヴォーカルのルイ君はスカパラのフロントマン、クリーンヘッド・ギムラの弟だっていうのもあって。

ネモト 長男の方もレゲエバンドやってましたよね。

北沢 ブルー・マウンテンズというソウル・レゲエ・バンドね、ギムラ3兄弟は有名だったよね、お父さんの杉村篤さんも有名なイラストレーターで。

ネモト 俺、子供の頃、筒井康隆が好きだったんですけど、ルイ君のお父さんが筒井康隆の単行本の表紙描いていますね。

北沢 そうだよね、強烈にサイケな絵。90年前後の東京のある種のストリート感ってスカパラやヘアが体現してた。いまのスカパラしか知らない人にはわからないかもしれないけど。元ヘアのマーク林(現ブルー・ビート・プレイヤーズ/キャッスルの林雅之)がいたからモッズ・シーンとの繋がりもあったし、「マーチ・オブ・ザ・モッズ」とかにも出てたし。

ネモト 当時のことで印象に残ってるのが、JAMスタとかできっちりモッズの格好してるやつより、ちょっと奇抜というか変な格好してるやつの方が一歩先に行ってる感じでかっこ良かったみたいな。

北沢 なんだろうね、IVYとかと同じで基本を極めてから冒険する、みたいなところがあったよね。キンキーさを競い合うような、そういう美意識を持つ人が集まってた。当時『CITY ROAD』っていう情報誌があって、そこに一ヵ月分のライヴハウスのスケジュールが載るんだけど、JAMは下段の一枠を使って企画ごとの広告を載せていて、「マーチ・オブ・ザ・モッズ」はタイトルすら出てなくて、フル・デコレートのスクーターの写真だけ、みたいな。それでわかるでしょ的な不親切なやつなの(笑)。一方でその頃から、JAMにはギター・ポップのバンドとかも出始めて。

ネモト そういえば俺がNG3(新井仁が在籍した90年代ギターポップ・シーンの中心的なバンド)と出会ったのもJAMですね。

北沢 僕は新宿のライヴハウスでは、最初に行ったのがルイード、それから西口の小滝橋通りにあった旧LOFTへ行って、そのあとJAMに行くようになって。新宿駅東口から東新宿の方までちょっとした距離があるのが好きだった。近づくにつれて心臓が高鳴ってきて、だんだん速足になる感じ。

ネモト 流しのおじさんのいるゴールデン街抜けて。ホームレスもけっこういましたよね。

北沢 そうだよね、女の子たちもあの道(新宿遊歩道公園“四季の路”)を通るのはちょっと怖かったんじゃないかな。90年代に入る頃には、コレクターズは、ドキュメンタリー映画「THE COLLECTORS さらば青春の新宿JAM」(監督:川口潤/2018年公開)の主題歌になった“明治通りをよこぎって”っていう曲名のとおり、JAMを離れて、明治通りを挟んで向かい側の日清パワーステーションを本拠地にしてた。JAMに行く手前にあったストロベリー・ファームで友達と待ち合わせたりしなかった?

ネモト ありましたー(笑)。ストロベリー・ファームってちょっとアメリカン・ダイナーっぽい雰囲気でしたね。

北沢 いまは跡形もない、90年代のあの頃の景色を体験できてよかったと思う。

THE COLLECTORS さらば青春の新宿JAM(予告篇)

ネモト その頃のJAMスタって、ヘアを中心にいわゆるルーツR&Bを掘り下げている人たちがメインで、自分がやってたバンドはネオ・モッズ・サウンドで。

北沢 真逆だね。 けっこうアウェイだったんじゃない?

ネモト そうなんです。そんな中で俺らに優しくしてくれたのがハイ・スタイルのマンジさんとかで。

北沢 マンジ君は当時、本当に言ってたよ、「俺はネオ・モッズが好きなんだ」って。マンジ君と話してて、ひとつ忘れられない名言があって、「いまのシャムロックはニューミュージックと紙一重じゃん。そこがいいんだよ!」。スゴくない? その際キワのセンス。でも、あの頃の新宿JAMでプライマル・スクリームの話ができるモッドって、下北沢ZOOでも唯一見かけたクラウド・ナインの(渡辺)ヨシキを除けば、マンジ君だけだったと思う。彼はクリエイション・レーベルとか初期からずっと聴いてたし、そういうサイケ寄りの裏モッズの流れもちゃんとわかってた。

THE HIGH STYLE – London In The Mist (V.A.“DANCE ! APPROVED STREETS”) 1987

ネモト 90年代のモッズ・シーンで優しくしてくれた人には、いまでも恩義を感じてますね。フェイブ・レイヴスのアオちゃんやディーズメイトのアキシロさんとか。

北沢 アオちゃんはディープ・ソウルを歌わせたらいまや日本一じゃないかな。アキシロ君がいまやってるモーテルズ・ソファはリズム隊が女性のトリオ編成で、ばっちりハモれる。チャルべにとも相通ずるポップセンスが素敵なんだよね。マンジ君でもうひとつ思い出すのは、ネクタイが曲がってると直してくれたこと(笑)。

ネモト そういえばマンジさん、スクーターズに入りましたよ。

北沢 ほんとに!? いま、ハイ・スタイルのベースはマークだよね。いい具合にシャッフルされてるね。

ネモト 何年か前ぐらいから、あの世代の人たちがネオ・モッズ的なモッズ・スタイルに回帰してるというか。

北沢 あのR&B至上主義のさとうさんが、2006年のヘアのアルバム『ウィークエンダーのポップ・コンチェルト』では、まさかのネオ・モッズ・サウンドをやってるからね。いまのジーノ・ロンドンではオーセンティックなロックステディからすごく端正なオリジナルのポップソングまで幅広くて、ますます自由度が高まってて面白い。 

THE GENO LONDON – Story Of The Boys (Live @吉祥寺Ichibee 2018.4.8)

レモン with The GENO LONDON – LOVE AGAIN~恋におちたら~ (『夜のヒップスタジオR&B』2020.10.9)

与田 さとうさんというのは?

ネモト ザ・ヘアのあいさとうさん(現ジーノサトー)、さとうさんが今やってるジーノ・ロンドンは最高のバンドです。

北沢 チャイルディッシュ・トーンズとジーノ・ロンドンはメンバーも被ってるよね?

ネモト まさかさとうさんとメンバーが被ることになるとは思ってなかったですけど(笑)。

北沢 でも近い空気を感じますよ、まだ共演はしていない?

ネモト してます。ジーノ・ロンドンのベースのタクト君が、いまチャイルディッシュ・トーンズでトイ・ピアノやってるので、タクト君から「さとうさんがこんなこと言ってましたよ」って情報が入ってくるんですけど、俺はさとうさんとはちょっとした距離感を持とうと思っていて。

北沢 こないだタクト君が「ついに『ヘアー!』を読みました」って報告してくれたよ。決心するまでずいぶん逡巡したみたい。あの物語の主役と現在進行形でバンドをやってるんだから、それは読むのに勇気いるよね。でも、さとうさんもだいぶ丸くなったからね、仲良くなろうと思えばなれるでしょ。

ネモト さとうさんは俺にとって、ずっと憧れの存在でいて欲しいんですよ。さとうさんは丸くなったとはいえ、さとうさんなんですよ、あの存在感は変わらない。

北沢 その気持ち、わかる気がするな。そういえば、ネモトさんは大貫憲章さんと仲いいよね。

ネモト 大貫さんは音楽評論家としても、「ロンドン・ナイト」のボスとしてもすごい人だけど、偉そうにしないし、優しい先輩って感じです。ストライクスの再発編集盤をDECKRECでリリースした頃に、大貫さんから連絡がきて会うことになったんですけど、当時はまだちゃんと面識がなかったのでめちゃビビッて(笑)、呼び出しか!みたいな(笑)。大貫さんの家の近くの喫茶店で会ったんですけど、ただ二人でロックの話を延々として、それで終わったんですよ(笑)。大貫さんもピュアな音楽リスナーというか純ロックマニアですね。

北沢 ストライクスは“ロンナイ・クラシック”だもんね。いい話だなー、ロックンロールのビッグ・ファン同士、気が合うのもよくわかる。

ネモト 大貫さんのことは、さとうさんへのリスペクトとはまた違う感じでリスペクトしてます。

北沢 大貫さんの配信番組にネモトさんがゲスト出演した回を観て、“和製ヤードバーズ”と異名をとった通好みのGSバンド、ビーバーズの追っかけだった大貫さんと、ビーバーズ/フラワー・トラヴェリン・バンドの名ギタリスト、石間秀樹さんとのエピソードをネモトさんが詳しく訊いてたのが最高だった。

ネモト 大貫さんが中学生の頃 石間秀樹さんの家に遊びに行ったときにギター教えてもらって、その曲がキンクスの”You Really Got Me”だったっていう話は本当に最高でした!本当に純粋に音楽好きな人なんですよね。音楽をただのビジネスと見てないっていうか。 チャイルディッシュ・トーンズ feat.宇佐蔵べにのリリースがあると、いつもラジオに呼んでくれて感謝してます。

北沢 ロックンロールもビジネスと切っても切れない歴史があるけど、愛が感じられるか否か、そこが分かれ目だよね。チャイルディッシュ・トーンズもカヴァー中心じゃない。どういう基準で選曲してるの?

ネモト もともとは俺が他の人にカヴァーして欲しいと思った曲ばかりなんですよ。

与田 その気持ちわかりますわー。

ネモト 与田さんもそうでしょう(笑)。

与田 でもやってくれないんですね。

ネモト そうなんですよ、ラーナーズとのスプリットでやった”Boys Don’t Cry”は、最初ケトルスに「日本語でオリジナルの歌詞へのアンサー・ソングとしてやってみない?」って提案した感じだったんです。試してくれたんですけど、ケトルスはホワイト・ストライプスみたいな編成のベースレスの二人組なのでなかなかうまくいかなくて。

北沢 キュアーのあの曲なんていまだにクラブ・アンセムだし。

ネモト 俺らは特殊なトイ楽器でやってるからベタで王道の曲もやれるというか。普通のバンド・サウンドだと躊躇すると思うんですが、あのサウンドだからやれる。みたいな感じはあります。

北沢 絶妙な異化効果が表れるからね。

ネモト あとニック・ロウのカヴァーも“Cruel To Be Kind”じゃなくて、”恋のホワンホワン”みたいなずらし方というか(笑)。

北沢 でも、そういうニッチな方向だけに寄りすぎず、すぐに次のシングルを”Make Her Mine”にしたのが良かったよね。あの曲はリーヴァイスのCMで使われてみんな知ってるし。

ネモト それと映画の『スウィングガールズ』(2004年公開/監督:矢口文靖)でも使われていて、今は吹奏楽部でもやっていたりするみたいです。

北沢 それまでは本当にモッズしか知らないコアな曲だったのに。

ネモト CMソングって、DJ的にも「みんな知ってる曲」って意識あるじゃないですか。それとあの曲は屋久島黙聴っていう友達がいて、彼に歌詞を書いてもらったんですけど、彼が「ラジオから知らない曲が流れてきてそれに感動する女の子の歌にしたい」って言って、それ最高だな!って思って。”Make Her Mine”をコピーしてたら、これはリズムが”ビター・スウィート・サンバ"(ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラス)と同じだって気づいて、歌詞との繋がりもあるし、「これは発明だ!」って思ってたんですけど、九州のタクミ君っていう和モノDJと話してた時に、さとうさんが”Make Her Mine”と”ビター・スウィート・サンバ”をDJでつないでましたって言ってて、「やられたー!」って気持ちと、さとうさんと同じセンスだっていう嬉しさと(笑)。

北沢 またいい話を聞いた(笑)。

ネモト あと、小西(康陽)さんが俺にとってそういう人ですね。実はピチカート・ファイヴは近年までほとんど聴いたことなくて。 音楽リスナーとしての小西さんからの影響は受けているんですが。

北沢 それは意外だね。

ネモト 90年代当時は渋谷系って避けてたんです。

北沢 それはどうして? 渋谷系と同時代を生きてると、「避ける」と言っても、けっこう難しかったんじゃない?

ネモト 当時はハードコアに60’sが好きだったから、同じ好きなものを違う形で上手くやっている人への嫉妬心みたいな感じで。

与田 ネモトさん、QUEでバイトしてたのに?

ネモト そうなんですよ(笑)、毎週イベントでQUEのカウンターの中からDJがかけるギター・ポップを聴いてたんですけど。自分から進んで聴いたわけじゃなくて、当時刷り込まれた記憶が今作るものに反映されているというか。

北沢 ネモトさん的にはラーズはいいけど、ブラーやオアシスは無し、みたいな感覚でしょ。

与田 あー、その感じわかります(笑)、それ重要なポイントですね。

ネモト 90年代当時のバンドで好きだったのは、60'sやモッズ的なラーズとかファイヴ・サーティーぐらいで。

北沢 ステアーズは?

ネモト ステアーズは好みど真ん中で大好きでした(笑)、ブリット・ポップと呼ばれたのはほとんどダメでした。というか、そういう姿勢で自分を保っていたというか(笑)。ブラーは認めないとか(笑)。

北沢 わかる、ブラーはけっこう踏み絵だったよね。僕はブリット・ポップど真ん中の『パークライフ』より、その前の『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』の方が、キンクスの現代版みたいで好きだったな。

ネモト 時代が進んで寝かされて好きになったっていうか、俺にとって90年代のギター・ポップや80年代のネオアコってリアルタイムで聴いてたというよりも、今の若い子達が昔のものを再発見して新鮮に感じてるのと同じように聴こえてるんです。

北沢 だからそういう子達と一緒にバンドができるんだね。

ネモト だけどそういう時代の空気は知ってるから、ちょっと違うところもあるんですけど。

北沢 面白いね、その感覚。

ネモト リアルタイムで知ってるけど新鮮に聴こえる。

北沢 聴きすぎてないんだね。

田中亮太 じゃあ当時はチャーベさんとかとも交流はないんですか?

ネモト まったく。

与田 俺だってQUEでDJイベントやってましたけど、そんなに交流なかったですよね。

田中亮太 与田さんもチャーベさんとはそんなに?

与田 知ってはいたけど、というぐらいで。

田中亮太 いま一緒にやってる3人がそういう感じだったんですね。

ネモト みんな別の場所にいたって感じです、あといまチャイルディッシュ・トーンズのアートワークを全部やってくれてるKINKも、当時は顔見知りくらいの感じで。

田中亮太 面白いですね。

与田 俺はもちろんUKプロジェクトにいたからネモトさんのことは知ってたけど、ちゃんと話すようになったのはキリキリヴィラが始まってからですね。それはみんなやってることが変わってないことで、ようやくお互いを認めたっていうか(笑)。

ネモト そうですね(笑)。KINKとは、彼がブラック・リップスの日本盤を出して初来日公演を企画した時に、ブラック・リップスが共演したかった日本のバンドがThe 5.6.7.8’sやギターウルフとか日本のガレージ界隈のバンドで、それは俺の人脈だったからKINKから相談されたんですよ。KINKはもともとギター・ポップとかインディー系のDJだったけど、その頃はクランプスとかヘッド・コーツとかのガレージものをかけていたり、俺は逆にギター・ポップや90年代のインディーとかに興味を持つようになっていて、お互いのルーツが交わってきてた感じで。そういうタイミングで頻繁に会うようになって、俺とKINKの中で共有していたこの感覚を、「何か形に出来ないかな?」って話してたその流れの中でラーナーズが現れて。

北沢 やっぱりラーナーズの登場は大事件だったんだね。

与田 絶妙な流れですね、というのもブラック・リップスの2回目の来日公演はキリキリヴィラでやったんですけど、その時に最初にやってたキンちゃんにいろいろ手伝ってもらって、それでラーナーズが出演することになったんです。ラーナーズはその日がはじめてバンドでライヴをやる日で、当日のリハーサルを見て俺がすぐ「キリキリヴィラからリリースしない?」って話したのがスタートなんです。その時初めてチャーベ君とちゃんと話をして。

ネモト その直後にラーナーズが渋谷の小さなクラブでライヴをした時にチャーベ君から誘われて観に行って、1曲目が始まった瞬間に「これはやばい! 記録しなきゃ!」と思って衝動的にiPhoneで動画撮り始めて。YouTubeに動画をアップしたこともないし、映像の編集もしたことなかったけど、「この瞬間は残さなきゃ、伝えなきゃ」って思って、ずっとライヴを追いかけて。それであとになって思ったのは、スマホで撮影するっていう誰にでも出来る方法で記録するってことに意味があるなって思いました。それってラモーンズを聴いて「自分にも出来る!」ってギターを弾き始めるのと同じ感覚なんですよ。

与田 2015年に、俺もネモトさんもキンちゃんもチャーベ君も、ようやく一緒にやり始めるという。95年ぐらいからみんな知ってたんだけど。

北沢 合流するまで20年かかったんだね……!!

与田 俺はルーツは同じでもちょっと別系統なんですけど、3人は同じようにやってきてますよね。

ネモト チャーベ君がよく「ラーナーズは自分のバンド人生のおまけというか、ご褒美」って言うんですけど、俺にとってはチャイルディッシュ・トーンズがそうですね。だけど、自分がバンドマンとして生きてきた中で、いまが一番リリースしてますよ(笑)。

北沢 世間はコロナ禍なのに通常運転にしか見えないよ(笑)、ライヴはそんなに出来ないけどリリースに関しては。

ネモト これまでガレージやロックンロールのシーンでバンドをやってきて、激しいロックンロールはもう寝てても作れるなって思っていて(笑)。でも「ポップ・ミュージック」は、いましか作れないかもしれないからどんどん作ろうと思って。

北沢 その勢いは、さすがだよね。こないだも下北沢LIVE HAUSで予定してた企画が会場の都合でキャンセルになって、あと2日しかないのに、風知空知の空きを見つけて速攻でライヴするとか、その瞬発力は素晴らしい。

ネモト あの日はお客さんもバンドもいろんなフラストレーションの中でやっとライヴが出来るって思ってたのに、これを中止にしたらお客さんもバンドもモチベーションが下がると感じて、強引にでもやりたいって思って。

北沢 僕も長い間オフライン生活をしていて、ようやくオンラインに復帰してすぐにそのライヴのお報せが目に入って、トイドラマーのワカちゃんがそれを最後に卒業するという節目の意味もあったから、これはどうしても観に行かないと!! って思って。ライヴハウスに行ったのもめちゃ久しぶりで。ネモトさんと積もる話もできたし、元気もらいましたよ。

ネモト やっぱり、最近の作品については宇佐蔵べにちゃんとの出会いも大きかったですね。

北沢 確かに、いまのチャルべにの快進撃は彼女の存在があってこそ、だね。

ネモト もともと彼女はラーナーズのファンで、チャーベ君に紹介されて知り合ったと思うんだけど、俺が昔やっていたチロリアン・テープ・チャプター4ってバンドを好きで聴いていてくれて。

北沢 それはすごいね。当時、彼女は18とか?

ネモト 18でした、そんな娘が20年ぐらい前の音源を発見して聴いていたことにも驚いて。それがきっかけで交流が始まって、「一回ライヴに出ない?」って誘ったのが3年前ぐらい。

田中亮太 どうやってチロリアン・テープ・チャプター4を知ったんですかね?

ネモト ファンの人に教えてもらったんじゃないかな、彼女のファンって音楽マニアが多いから。

田中亮太 それは面白い文化ですね。

ネモト 彼女が「渋谷系が好き」っていうと、教えたがりのおじさんが寄ってくるんですよ(笑)、俺もそうですけど(笑)。

北沢 レコードを献上する人も多いよね(笑)。彼女のDJ、すごくいいんだよね。

ネモト あの娘なりに自分でも掘り下げるし、90年代をいまの自分の感覚で見ていて、そこが俺と近い感覚だったのかな。

北沢 ムッシュの"ゴロワーズ” とか、それとも“ソー・ロング20世紀”だったかな、そういうのもさりげなくかけたりするし、こっちとしては嬉しい(笑)。

ネモト そんな感じで一度ライヴやったら面白かったんで、「FEELIN’FELLOWS」っていうイベントに誘われて再度一緒にライヴした時に手応えも感じたので、「音源作ろうか?」って話して。バンド経験のない娘が「かわいい」っていう存在感だけで全部飛び越えていくのがすごくて。

与田 “恋のホワン・ホワン”の反響すごかったですもんね。

北沢 すぐ売り切れた?

与田 すぐでしたね、最初のプレスはリリース前にレーベル在庫がなくなりました。

北沢 僕も下北沢THREEで初めてチャルべにのライヴを観た時、“恋のホワンホワン”の7インチにその当時のメンバー全員とうさべにさんのサインをもらって、いまとなっては貴重な1枚になった。

ネモト これやってみて、すぐに次は”Make Her Mine"で行こうって決めて。

田中亮太 ご自分のレーベルで出すことは考えなかったんですか?

ネモト DECKRECはUKプロジェクトでやってたレーベルだし、UKはアナログ盤を作ることに消極的だったので。まあチャイルディッシュ・トーンズはキリキリから出てたし、あまり無理の無いスタンスでやりたかったので。

北沢 “恋のホワンホワン”の裏ジャケに描かれた、うさべにさんとチャイルディッシュ・トーンズのアメコミのキャラクターみたいなイラストもいいよね。

ネモト これはナッチ君というオマージュ系の絵が得意な人がイラスト描いてくれたんです、俺らはチップマンクスで、うさべにちゃんがアーチーズ的な感じで。

北沢 このアメコミっぽい絵柄の感じがピンときたんだよ。チャイルディッシュ・トーンズって基本的にはカヴァー・バンドなんだけど、海外のアニメの日本語吹替版みたいなイメージがあるでしょ。

ネモト “恋のホワン・ホワン”で言うと、あれってニック・ロウの名曲を、落語家の三遊亭圓丈がおじさんのカラオケ的な歌い方で歌ってて面白い、みたいなコミック・ソングだったんですけど、女の子がかわいい声で歌うとピュアなラブソングになると思って。曲の持ってるイメージや価値観を変えられると思ったんですよ。

北沢 カップリングも最高だよね、“ゼア・シー・ゴーズ”と来たか!って。

ネモト 言ってみればどちらも定番ですよね。

北沢 定番ってさ、マナブ君や大貫さんのDJを現場で観てるとわかるけど、同じ曲を十年一日の如く毎回かけ続けるじゃない。僕らにとっては、もう聴き飽きるぐらい聴いてる曲でも、初めて聴く人にとっては「何なの、この最高な曲!」ってなるじゃない。

ネモト わかります。

北沢 だから延々と定番曲をかけ続けて正解なの。 同じ曲でもカヴァー・ヴァージョンは、アプローチの仕方でまた別の魅力が備わるし。

ネモト この”恋のホワン・ホワン”のカヴァーは自分の中にストーリーがあって、この曲はニック・ロウの曲じゃないですか、そのニック・ロウがプロデュースしているエルヴィス・コステロの”Oliver’s Army”のイントロのピアノフレーズを引用するとか。“Cruel To Be Kind”をオマージュしてるザ・コレクターズの"夢見る君と僕”のイントロのリフみたいなフレーズを入れたり、いろんなものを混ぜ込んでいて連想ゲームみたいな感じですね(笑)。

北沢 その按配が絶妙だよね。

ネモト "ゼア・シー・ゴーズ”は、サウンド的にはジョー・ミークみたいなことをやりたいなと思って。スティール・ギターをいれてジョー・ミークとヴェルヴェット・アンダーグラウンドみたいなことをやろうと思って。 "ゼア・シー・ゴーズ”をカヴァーしてるけど、ラーズや当時のギター・ポップからの影響じゃなくて、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやジョー・ミークからの影響で作ってるから、当時のラーズが自分たちのルーツに影響を受けて作ってるのと同じ意識というか。

北沢 自然にネモトさんの音楽的な趣味や個人史が詰まってる、一曲一曲がその結晶というか。 またこの曲のMVが最高だよね。

ネモト ワカちゃん(チャイルディッシュ・トーンズのトイドラム担当のWAKA THE POP)の処女作です、あの子が遊びで撮った映像が良かったんで、MVも出来るだろうって思って。

北沢 ワカちゃんが作ったチャルべにのMVは全部素晴らしい。ほんとセンス抜群、これからが楽しみな人だね。チャルべにってステージ上の絵づらもすごくいいよね、男女半々でジェンダー・フリー感があって。 ラーナーズも女性2人がフロントに立って、チャーベくんたち男性陣が支えつつ、でもみんな平等な感じが、チャルべにと共通してる。これがいまの進んでるバンドの最新型かな、って。

ネモト ジェンダー的なこともそうなんですが、いろんなことをボーダーレスにしたいんですよね。ほんとに偶然の重なりなんですけど、元々ワカちゃんは風知空知のPAスタッフで、何年も前に風知で知り合って、たまたま話をしてたときに「私最近ドラム始めたんですよ」っていうから、じゃあやってよって(笑)。ヴォーカルのL.Kもワカちゃんが遊びで撮った動画に映ってて、紹介してもらって。

北沢 ワカちゃんの友達なんだ。

ネモト 専門学校の同級生で、面白い子がいるんですよって。動画に映ってたL.Kの佇まいが気になる感じだったので、ワカちゃんに「今度連れてきて」って言って、スタジオに来てもらったら、あまりにもキャクターが最高で即メンバーになってもらいました。

北沢 ジャニオタなんでしょ?

ネモト ロックとかは全然知らない熱狂的なSEXY ZONEのファンです(笑)。L.Kの加入もあってイメージも広がったので、”Make Her Mine”は2人の女の子の物語にしようと思って。10代の頃って恋でも友情でも未熟さが消化しきれない独特な感じじゃないですか、それを表現出来たらと思って。

北沢 "なればいい"とかも女の子の虚無感が炸裂してるし。"なればいい"を作詞したオリベゆりさんって、1968年のミス・ユニバース日本代表のペンネームなんだよね。タレントの卵みたいなことをやってる16歳ぐらいの時にスパイダースと知り合って、彼女が詩を書くのが趣味で、ムッシュがそれを見て曲をつけたんだって。

ネモト ワカちゃんやL.Kやうさべにちゃんを誘ったのもムッシュの感覚に近いかもしれないですね。

北沢 ネモトさんは正しくムッシュのDNAを受け継いでいるよ。

ネモト ムッシュには何度かお会いしたことあるんですけど、一度デキシード・ザ・エモンズのレコーディングにムッシュがゲスト参加した時に遊びに行ったら、バンドが演奏を録音している間、スタジオのロビーにムッシュがひとりでいたので、30分ぐらい二人だけで話すことが出来たんですけど、そのときにホントに適当な人だなーって思って(笑)。その適当感がすごい粋に感じてグッときたんですよ。合計すると4回ぐらい会ってるんですけど、ムッシュは俺のこと、どこの誰とかはわかってないと思います(笑)。昔、下北シェルターの裏のほうにあったアパートに住んでいたんですけど、ちょうどその日シェルターでウォッカ・コリンズのライヴがあって、リハ終わりで裏口からメンバーが出てきて、たまたま俺がそこで野良猫に餌やってたんですよ。それ見てムッシュとルイズルイス加部さんと大口広司さんが寄ってきて、俺はスパイダースとテンプターズとゴールデン・カップスと一緒に野良猫に餌をあげたという(笑)。その時大口さんが、「いつも猫に餌あげてるの?」って言ってきて、「はい」って応えると「やさしいね~」って言ってくれて(笑)。

北沢 目に浮かぶなぁ……大口さんもジェントルな人だったからね。アラン・メリルも加部さんも亡くなっちゃって、とうとうウォッカ・コリンズのメンバー全員この世にいないなんて悲しすぎる。チャルべにをムッシュに聴いて欲しかったな。

VODKA COLLINS – Sands Of Time (album “TOKYO NEWYORK”) 1973

ネモト あと川勝(正幸)さんにも聴いて欲しかったですね。

北沢 そうだね。いま健在なら、きっとチャルべにのライヴに通い詰めてたんじゃない?『ポップ中毒者の日記』に書いてほしかったな。

ネモト アルバムとしてまとまって、90年代には渋谷系コンプレックスだった俺が、小西さんから頂いたコメントで、ピチカート・ファイヴの親戚と言われ、カジ君からは最新型の渋谷系って言われ、まさか自分の音楽が渋谷系って言われる時代がくるとは思ってなかったです(笑)。

北沢 近くにいるけど交わらないっていうイメージだからね。

ネモト 昔の自分を考えたら、カジ君やチャーベ君とこんなに仲良くなるとは思わなかったし。

北沢 こないだネモトさんが出演した、カジ君と野宮真貴さんの「渋谷のラジオ」聴いたよ。絶賛されてたね。

ネモト elとかクリエイションみたいなレーベルに当時でなく、いまシンパシーを感じてるんです。作ってる時はそういう意識なかったんですけど、出来上がってみるとそうだねって。

北沢 elにしても主宰者のマイク・オールウェイがポップ・カルチャーに狂熱を捧げてる人で、そこがネモトさんと同じだからね。そういうところに僕もシンパシーを感じる。マイク・オールウェイなしにはトラットリアはないし、ネオアコにしても、彼がチェリーレッドのA&Rをやってる時にエブリシング・バット・ザ・ガールを発掘してるしね。そういう脈々とした流れがここまで続いてるよ。そのど真ん中にフリッパーズ・ギターがいたわけだけど、フリッパーズを経由しなかったチャイルディッシュ・トーンズ feat.宇佐蔵べにが、いまやフリッパーズ直系のカジ君から「最新の渋谷系」と認められるんだから、歴史の巡り合わせって面白い。

ネモト アルバムの中で渋谷系を意識して作ったのは”Beat Goes On”だけですね。ガレージパンクから渋谷系へのアンサーみたいな感じで。
この曲はバディ・リッチのヴァージョンを元に、歌詞は90年代JAMスタのモッズ・シーンに集まっていた女の子たちのことをイメージしていて。あの頃ツィッギーとかマリアンヌ・フェイスフルとかに憧れている女の子たちがいっぱいいたじゃないですか。古着のワンピース着て、60’Sの本とか見て、みんなツイッギーやマリアンヌ・フェイスフルになりたかったけど、それは憧れであって現実ではないというか、憧れを持ったままそれぞれの人生、ビートは続いていく感じというか、そういう切なさを表現したいなと思って。
そんなことを考えていたら、ふとピチカート・ファイヴの”TWIGGY TWIGGY”のフレーズが頭に浮かんで、この曲にあのフレーズは必要だなと思って引用しました。

北沢 そっかー。でもオリジナル’60sのアイコンよりも身近なところに、別の伝説の女の子もいるよね。

ネモト トモコさんとか。

北沢 トモコさんっていうとても踊りのうまい女の子がいて、ヘアのライヴによく来てた。別に誰と喋るわけでもなく、ひたすら踊って風のようにサッといなくなってる、めちゃめちゃカッコいい女の子で。残念なことに最近亡くなってしまったんだけど。

ネモト 俺がDJしてるイベントにもふらっと来て踊りまくって、いつの間にかいなくなってる。

北沢 あのカッコよさは、知らない人にどう説明していいかわからない。

ネモト 90年代だったけど、あの人だけ別の時代に生きてるみたいな。

北沢 パッと見た感じは、鈴木いづみ(「人生は長さではなく速度だ」と言い切って、明るい絶望をポップに描いたGS狂の作家。ジャズサックス奏者・阿部薫との破滅的な夫婦関係でも知られる)みたいなイメージといえば少しは伝わるかな……でもあんなにグラマーじゃなくて、すごく細身なの。あの頃そんな風には思わなかったけど、90年代のその時点ですでに“生きている伝説”というか。でも喋ってみるとすごくシャイな女の子だった。

ネモト 普通に物腰が柔らかい話し方でね。

北沢 メイクとかファッションが徹底してたから、一見怖く見えたけど。

ネモト 60年代の新宿みたい。

北沢 完全にそうだった。でも素顔はやさしい。

ネモト あの人と交流あった人から話を聞くと、頑なに私生活を明かさなかったみたいで。たとえば仕事帰りに街でバッタリ会っても、「誰にも言わないで」みたいな。美意識がすごくて。

北沢 それってモッズの鏡だよね、平日は黙々と仕事して、週末に大暴れする(笑)。

ネモト 誰よりもモッズでしたね。

北沢 ステージにいるバンドよりもフロアのお客さんのほうがカッコよかった、って当時のモッズ・シーンはよく語られるけど、トモコさんはその代表みたいな人で。他にもジーノ・ロンドンの男女ツインヴォーカルのひとり、ワコちゃんも、いまは演者の側だけど、元々はすごい美意識を持ったお客さんで、女の子たちの憧れの的だった。

ネモト 独特のクールネスがありますね。

北沢 そういう人たちがお客さんにいたから、バンドにとってはすごい刺激になってたと思う。

ネモト トモコさんは極めてましたね、でもバンドやっていたわけでもないしどう説明していいのかが難しい人で、作品を作ってたわけじゃないし。

北沢 あの踊りが最高の表現だよ。

ネモト あの人自体が作品ですね。

北沢 ほんとにそう。

ネモト トモコさんが亡くなって、ジーノ・ロンドンのイベントで彼女の遺品のフリーマーケットがあって、そこで可愛いワンピースがあったから買ったんです。それをいまライヴでうさべにちゃんが着てます。

北沢 それもまたいい話だよね。具体的な形としては残ってないけど、ひとめでも見た人はあの娘のダンスが忘れられない、って素敵だな。うさべにさんのことも、きっと見守っててくれるね。

ネモト 踊ってるトモコさんのことを見た、そういう人が全国にいるんですよ。

北沢 そうなんだよ、それぞれの街にね。

与田 良いパーティーには必ずそういう人がいますね。

北沢 70年代のCBGBとかにもいたと思う。

ネモト 『プリーズ・キル・ミー』っていうニューヨーク・パンクの証言集に出てくる人たちはみんなそういう人ですよね、やばい人しかいないけど。

北沢 お客さんの重要性ってほんとあるよね。

ネモト 変な話、バンドより重要なんですよ。でもいろんな話がありますけど、トモコさんぐらい極めてた人はいないですね。

田中亮太 東京のモッズ・シーンですよね。

北沢 ヘアがモッズ・シーンからシフトして、新しく和モノ・シーンを作ったんだけど、ヘアのライヴに来てた人たちも流れてきて。トモコさんも『自由に歩いて愛して』に来てくれた。

ネモト トモコさんがすごいのは、そのために服をいつも作ってたとこですね。自分が生きてる同じ時代にあんな人がいたんだっていう。

北沢 軸足を現代に置いて過去を取り入れる派と、現代を無視して過去を再現する派がいたというさっきの話でいえば、僕は60年代をとことん再現しようとする行為そのものは否定したくないのね。「現実がつまらないなら想像力で自分の周りだけでも変えてやる!」って反抗の方法論としてまちがってないし、トモコさんみたいに超気合い入れたらそれができちゃう人もいる。横山剣さんの「昭和にワープだ」じゃないけど、自分が行きたい場所に行く自由を行使する権利は誰にも邪魔されたくないじゃない?
話は変わるけど、チャイルディッシュ・トーンズ feat.宇佐蔵べにのライヴを見てると、不思議の国のアリスみたいだなって思うことがある。おしゃまな女の子が穴に落ちたら、黒ぶちのメガネをかけたネモト・ド・ショボーレっていうヘンなうさぎがいて(笑)、おかしなパーティーに引っ張り回される(笑)。次はアリスをテーマにしたアルバムなんてどうかなー?

ネモト それは面白いですね(笑)。今回は“思い出のロックンロール”を出したあたりで、これはアルバムにまとめられるって思ったんです。

北沢 それまでは考えてなかったんだ。

ネモト トータルでのイメージまでは考えてなくて。歌詞の世界観が共通していることに気づいて、アルバムにしようと思った時に映画のプロットみたいなものというか、全体的なストーリーをバーッと書いたんです。登場人物に二人の女の子がいて、一人の男の子がいて。この曲はこの子の曲でみたいな感じで、キャラクターまで設定してそれから作り始めて。

北沢 見事なまでにコンセプト・アルバムになってるよね。

ネモト 歌詞はいろんな人に書いてもらってるんですけど。

北沢 マジドラ(Magic,Drums & Love)のユリナちゃんの歌詞が最高だね。

ネモト ユリナちゃんの語感は素晴らしいですよね。クールでもありユーモアもある。ユリナちゃんにお願いする時にはちょっとしたリクエストをして、たとえば岡崎京子の漫画に出てきそうなややこしい女の子のイメージで、とか(笑)。

北沢 その感じは絶妙に出てるよ。だれかがツイッターに投稿してたけど、『パノラマボーイ・ジオラマガール』の映画主題歌はこっちのほうがいいんじゃないかって。それを見て、そのとおりだと思った。

ネモト それはKINKも言ってました。俺もJAMスタのモッズ・シーンであれ、下北のギター・ポップ・シーンであれ、ややっこしい子って必ずいて、自意識が強くて、寂しがり屋で。そういう子達がいま振り返って考えると愛おしいんですよ。

北沢 さとうさんもフロアにいる子たちを見て、曲を書いてると思うんだけど。

ネモト 絶対そうです。

北沢 インスピレーション・ソースになってる。

ネモト そういう子って孤独な面も持っていて、イベントで騒いでいても寂しそうっていうか。そういった感覚的な孤独感みたいな部分は、俺はECDさんからすごく影響受けてて、あの人、いつも人は「個」であるって言ってたじゃないですか、俺にとってはその「個」であるっていうことや孤独感みたいなものが、すごく前向きに感じられるんです。今回のアルバムにはそういう部分も全部入ってます。

北沢 ユリナちゃんが書いた、〈愛して最高級の孤独を!〉っていう“ASK”の歌詞の一行に、そのテーマが凝縮されてると思った。

ネモト 今回のアルバムはデザイナーのKINKがデザイナーっていう枠を超えて参加してくれてて、彼はラーナーズとかカジくん、ノーナ・リーヴスなんかのアートワークもやってるんですよ。

北沢 そうなんだ、チャルべにのジャケットも全部素晴らしいよ。

ネモト 彼も昔からいて、それこそ80年代はビートパンク・バンドやってて。KINKも最近もう一周して80年代のビートパンクも再評価し始めてて。

北沢 こないだ曽我部君もラジオでかけてたよね。

ネモト クラック・ザ・マリアン(笑)。

北沢 亡くなったサニーデイのドラマーの丸山晴茂君にインタビューした時に、彼が高校生の頃、KENZIが大好きで、7インチとか全部持ってたはずなのに、サニーデイの頃はそんなこと忘れてたけど、最近聴き返したら歌詞が深かったって。言われてみれば、僕もあの頃の日本のパンクバンドの歌詞とかちゃんと聴いてなかったと思って、聴き返す必要あるなと。

ネモト サニーデイとも思い出がいっぱいありますね。俺、NG3の最後のレコーディングにギターで参加してるんですけど、キーボードはイーヴィル・フー・ドゥーのウサミ君で。

北沢 ウサミ君はサニーデイのサポートもしてたよね。

ネモト で、その時のプロデューサーが曽我部君で、それで仲良くなって、俺がバイトしてたQUEによく来るようになったり。ベースの田中君と一緒に泥酔して(笑) 。

北沢 サニーデイのパンチドランカー時代(笑)。

ネモト NG3の新井(仁)君がサニーデイのサポート・ギターをやってて、その頃サニーデイが『VIVA YOUNG !』に出た時に「ネモト君、なんかやってよ」って言われて、サニーデイをバックにキングスメンの”ルイルイ"歌ったことがあります(笑)。そのあと新井君がノーザン・ブライトでメジャー・デビューすることになって、サニーデイのサポートができなくなって。その時曽我部君から「ネモト君、サポートギターやらない?」って言われたんだけど、当時のサニーデイのライヴって2~3時間やってたじゃないですか。ツアーもやりまくってたし、俺もちょうどDECKRECが始まった頃だったので物理的に難しくて、実現はしなかったんですが。そのあとサニーデイが解散して、田中君が暇そうにしてたんで、中村ジョーとウサミ君、ママ・ギタァのドラムのヨーコちゃんを誘って、カッターズっていうバンドを遊びではじめて。

北沢 それかー! 田中君、「あれは有り難かった」って言ってたよ、何もない時に声かけてもらって救われた、って。

ネモト ライヴは1回しかやってないんですけど。

北沢 中村ジョー君もイーストウッズのシングルを4枚出したじゃない。“ラストダンスを君と”っていう最新の曲が、作詞家としての彼の最高傑作だと思う。

中村ジョー&イーストウッズ – ラストダンスを君と

ネモト あれヤバイですよね。最高です!

北沢 チャルべに方式で次はいよいよアルバムだね、って彼に伝えたんだけど。

ネモト 中村君とは古い付き合いで。90年代初頭のJAMスタで出会って、中村君がハッピーズ解散後に始めたジョーイをやってるころにも、ザ・ナーズでよく対バンしてたり。

北沢 そうか、今回彼に詩を1曲書いてもらってるんだね。

ネモト ライヴにも何度か参加してもらってるんですよ。

北沢 それ動画で見た。いや、ライヴでも観たかな。細野(晴臣)さんの”香港ブルース"をカヴァーしてたよね、あとヴェルヴェッツ。

ネモト そうです、今回は”The Girl In Blue"というポエトリー・リーディング曲の詩をお願いして。それがすごい良くて、この歌詞は”Make Her Mine”の中で〈夜中 あの娘はいつも家にいない〉って歌われている「あの娘」が主人公なんです。この曲が終わると”Make Her Mine”が始まると言う流れになっていて物語として繋がってる。

北沢 ”The Girl In Blue"、評判いいでしょ。

ネモト そうなんです、評判良いですね。あの曲の演奏ってスタジオの練習をスマホのボイスメモで録った音源がいい感じの音だったので、そのまま使ってて。うさべにちゃんのポエトリーは中村君がエンジニアとして録音してくれて、初エンジニア作品です(笑)。

北沢 “思い出のロックンロール”のライナー・ノーツで、「シャングリラスみたいな不良少女語り系を次はぜひ」ってリクエストしたんだけど、ある意味、”The Girl In Blue"がそうだったのかな、って。

ネモト 北沢さんのその言葉は俺の頭の中に残ってて、全然違う形なんですけどやりたいと思ってることがあって。ママ・ギタァのヨーコちゃんの声をそういう感じで使いたくて。あの娘の声、国宝級に良いじゃないですか。

北沢 そうだよね、ゆらゆら帝国にフィーチャーされるぐらいだし。

ネモト 彼女もシャングリラスみたいな語りは得意だって言ってるから今度やろうよって話してます。

北沢 シャングリラスもガレージ・フリークにとっては最高のアイドルじゃない。

ネモト 中村ジョー君は俺にとって同期というか、ポイントポイントで一緒にやることもあるんですけど、表に出てない部分でもけっこう一緒にやってる大事な存在。

北沢 彼がいまになってイーストウッズみたいな洒脱なサウンドを志向するのはよくわかる。ハッピーズはガレージ・ソウルがひとつのテーゼとしてあったけど、年とともに音楽性が洗練されていって。シティ・ポップの盛り上がりを睨みながらだけれど、彼がやるとシティ・ソウルになるよね。

ネモト そうですね。中村君に聞いたのはイーストウッズは最初、SHOGUNみたいなことをやりたかったって。

北沢 完璧にSHOGUNだよね。だからジョー君に、「『俺たちは天使だ!』(79年に日本テレビ系列にて放送されたアクション・ドラマ。主題歌 “男達のメロディー”は和モノアンセムとしていまも人気が高い)の劇伴がそのままSHOGUNの1stになった、あの感じでアルバムを作れたらいいね」って言ったんだよ。「それいいですね」ってレスが返ってきたから楽しみなんだ。

SHOGUN – 男達のメロディー

ネモト あの曲、ワック・ワック・リズム・バンドがカヴァーしてましたね。

北沢 あれは昔から山下洋(WWRBのギタリスト)君の持ち歌だから。

ネモト 中村君は今回の曲にデモを作ってくれて、それがめちゃくちゃ良いんですよ。それで今度ポエトリーで1枚つくったらって提案したんですが。

北沢 それは斬新だね。

ネモト フルでなくてもいいから1枚作って欲しいって言ってるんですよ。中村君は言葉と声にチカラがある人だから。

北沢 そうだね、彼の声には独特の色気があるよね。70年代末の日テレのアクション・ドラマの雰囲気を出せる人って、いまいないから。ネモトさんの提案、わかるなー、中村君は曽我部君とも盟友だしね。『自由に歩いて愛して』でやってよかったことのひとつは、ハッピーズとサニーデイの出会いの場を作れたってことだね。

田中亮太 曽我部さんは『自由に歩いて愛して』によく来てたんですか?

北沢 いや、それはあんまりなくて。

ネモト 『エレクトリック・パブ』(新宿JAMで定期開催されていたハッピーズ主催のイベント)には出てますよね。

北沢 そうだね。でも彼らは、『自由に歩いて愛して』で初めてコミュニケートしたと思う。でもその時のフライヤーにはサニーデイの名前がないんだよ。それは当時所属していたミディの社長、大蔵(博)さんからライヴ禁止令が出てたから。

ネモト そうでした!

北沢 下手すぎて、ライヴをやると逆プロモーションにしかならないからって(笑)。

ネモト ちょうどライヴ禁止令が出てる頃に、曽我部君がこっそりクアトロで弾き語りのライヴをやったのを観てます。

北沢 でも『自由に歩いて愛して』ではすごくよかったよ。そんなに言われるほど下手じゃないと思った。

ネモト あれは晴茂君の存在も大きいですよ、つたないリズムもだんだんグルーヴが固まってきて、あの3人ならではの独特の良さが出てきた。 あれは真似できないですね。

田中亮太 ライヴ禁止令はいつ頃ですか?

北沢 『東京』が出る前。『若者たち』が出た後、『青春狂走曲』の前ぐらいかな。その当時僕がやってた『バァフアウト!』という雑誌で曽我部君にインタビューしたのが彼との出会いで、すぐに『自由に歩いて愛して』に誘ったんだ。ヘアやハッピーズはJAMで各々自分たちの企画をやっていたし、それはすごくコアな雰囲気だった。バンドもお客さんも全員、映画『野良猫ロック』の世界に生きてて、新宿JAM がそのまま69年の新宿にタイムスリップしたとしか思えないくらい、男の子も女の子もみんな本気でなり切ってたの。

和田アキ子 – ボーイ・アンド・ガール(『女番長野良猫ロック』より)

北沢 僕は僕で、フリッパーズ・ギターが91年の秋に突然解散した後、ジュリーとショーケンがツインヴォーカルだったPYGの「自由に歩いて愛して」(71年)のシングル盤を発見したのをきっかけにその世界にどっぷり浸かってて、その後モッズ・シーンと距離を置いて日本のアングラにシフトしたあいさとうさんと意気投合して“共闘”を開始した。

PYG – 自由に歩いて愛して

ザ・ヘア – ポップ・ラビッシュ 1994 PV

北沢 そのうち、この愉しさを知らない外の人たちも誘惑したら好きになってくれるかな…?って試したくなってきてさ。ヘアやハッピーズを渋谷の空気に当てたらどうなるか、その変化を見てみたいという気持ちもあって、渋谷DJバー・インクスティックに企画を持って行ったんだ。渋谷インクには『CLUB SKA』や『Free Soul Underground』や『Routine』はあったけど、まだ和モノのイベントがなかったし。ていうか、「和モノ」という概念がまだ体系化されてなくて、コモエスタ八重樫さんたち諸先輩方に敬意を表しつつ、僕なりに渋谷系と新宿系をターンテーブルの両方に置いてミックスするような発想で実験してみたかった。例えば、本格的に始動する前のかせきさいだぁのライヴが観たくて、TOKYO No.1 SOUL SETの川辺ヒロシ君や元トンペイズのナイチョロ亀井君と一緒に出てもらったら楽しいだろうな、とか。まずは僕自身が観たい組み合わせを実現できたら、きっとみんなも喜んでくれるはずだと。

ネモト 『自由に歩いて愛して』がやってる頃、俺は原宿に住んでたんですよ。当時一緒にバンドやっていた北田君が原宿に住んでて、俺、家がなくなったので、そこに居候させてもらって、結局1年ぐらいいたんですけど(笑)。そのころ二人でぶらぶらしてたんですけど、『自由に歩いて愛して』を観に行ったのもその頃です。同時期に代々木公園にDJ機材持ち込んでイベントやってる人たちがいて、それが面白くて。後でチャーベ君から聞いて知ったんですが、ワック・ワック・リズム・バンドの前身バンドとかも出てたみたい。専門学校の生徒とかの口コミで広まって。

北沢 あったね。日曜日の午後でしょ、懐かしいね。

ネモト 良いパーティーでしたね、あれは90年代を象徴する出来事だと思うんです。ちょうど過渡期にそれぞれの感じで何か始めるような。

北沢 そうだね、その頃は古着屋とかがフライヤーの置き場になっていて、そういうところで情報交換して。

ネモト ほんと服飾系の学生とか美大生の情報が面白かったし、みんな元気でしたね。

北沢 『自由に歩いて愛して』のお客さんも専門学校生が多かった。

田中亮太 『自由に歩いて愛して』はどれぐらい続いたんですか?

北沢 93年から95年まで続けて、DJバー・インクスティックの閉店で一旦休止したのかな。95年には渋谷クラブクアトロで開催したり、大阪でもやったはず。ラジオたんぱで期間限定の深夜番組にもなったよ。あとは2001年に下北沢Queでやって、2017年と18年に吉祥寺Ichibeeでチャリティーと『自由に歩いて愛して』が初ライヴだった渚ようこの追悼イベントとして開催したりとか、単発で復活したことはある。そんなに回数もやってないんだけど、一回一回がとても濃厚で。ただ残念なのは、90年代当時は記録を残そうという気持ちが全くなくて、映像も写真も主催者の方では何ひとつ残してないんだよね。

*発見!! 中村ジョー秘蔵の1994年「自由に歩いて愛して」のライヴ映像!
ザ・ハッピーズ love in “自由に歩いて愛して”1994.2.11@渋谷DJ Bar Inkstick

田中亮太 与田さんは知ってました?

与田 もちろん知ってましたよ、でも俺はそのあたりからレイヴへ突入してしまうので。

北沢 そうだよね、一方ではテクノも盛り上がって。

ネモト 今考えるとすごい時代ですよね。マニアックな60年代や70年代をテーマにしたイベントに300人とか入っていて、同時にテクノのパーティーも盛り上がってるという、まさにサマー・オブ・ラブというか。

北沢 どちらも素直に時代の感覚に反応してたってことだと思う。『自由に歩いて愛して』にしても、和モノとは言うけど、80年代のネオGSと違うのは、レア・グルーヴ~アシッド・ジャズ~マッドチェスターをインスピレーションに、それを日本の60年代・70年代にあてはめたところ。これは僕もフミヤマウチ君も共通する感覚で、たとえばスモール・フェイセスがアシッド・ジャズ方面から再評価されたりすると、同じようにゴールデン・カップスもかっこいいんじゃないかっていう。

ネモト そうですよね。

北沢 バーナード・パーディーはすごいドラマーだけど、石川晶も相当すごい、みたいな。

ネモト こう話していくと、俺らが体験した時代のムードやモードが、今回のアルバムに反映されていることがよくわかりますね。たぶん形というか、ジャンルで当てはめようとしたらこうなってない。

北沢 ネモトさんの中でいろんな記憶の残像が混じって、性別も世代も異なる仲間たちとの素晴らしい出会いがあって、チャイルディッシュ・トーンズという、この世界の何処にもないミクロなコスモス(小宇宙)を形づくっているんだろうな……。そして、その一方で、このプロジェクトはネモトさんにとって、ひとつの戦いだなって思ったんだ。つまり、こんなに酷い世の中でどこまで楽しいことが出来るか、とことんやってやるっていう強い気持ちを感じるのね。今年はただでさえコロナ禍で気持ちが落ち込みがちでしょ。でも単純に、自分が人生を狂わされたサブ・カルチャー、ポップ・カルチャーに熱中するパワーが無くなって、思い込みの熱みたいなものが冷めたら、そこで終わりじゃない? その虚しさってほんとにつらいけど、僕は今年の春先にそれぐらい落ち込むというか、エネルギーがゼロになってしまって。コロナだけが原因でもなく、いろんな要素が絡み合ってたんだけど、ちょっと失語症のようになって、何も発信できなくなっちゃったんだ。

ネモト 俺はそれ、3.11の時になりました。今回そうならなかったんですけど、その理由を考えたら、みんなが同じ状況なんだってことだと思いました。3.11の時は場所によって状況が違ったけど、今回は地球全体が同じじゃないですか。みんな同じだっていう安心感みたいなものですかね。

北沢 そういう意味では奇妙な安心感が確かにあって、自分は停滞してるけど世界も止まってるというのは感じていて、自分で自分を滅ぼさない限り、まだ大丈夫だと思えた。この期間に自分で自分を滅ぼしてしまった人もたくさんいるでしょう? こういう時期に、自分の内部の熱を絶やさないように燃料を入れ続けてる人を見ると、「こうしてはいられない!」ってキックされる。まさにネモトさんを見ていてそう感じてたんだよね。そこに僕を巻き込んでくれたじゃない、それが嬉しかった。

ネモト 北沢さんは俺の中で必要な人だったんですよ。このアルバムってじつは暗い部分が多いんですけど、その中に希望があるというイメージで。それと、こないだ北沢さんとメールしていて大林宣彦監督の話になったじゃないですか、今回は大林監督の世界観がめちゃくちゃ反映されてます。大林監督のセンチメンタリズムにほんとに影響されていて。

北沢 僕も大林監督とかまやつさんが自分の2大精神的支柱みたいなところがあったから、その二人が亡くなった時の喪失感は大きかった。

ネモト 大林さんってあんなにナイーブでめそめそした作品を作るけど、人間はパワフルじゃないですか?

北沢 すごくタフだよね。大林さんは、個人で映画を自主制作することから始めて、コマーシャルの世界に入って、CMさえもスポンサー付きの「個人映画」に変えてしまうやり方を貫き通して、ひとたびメジャーで商業映画をつくるチャンスを得たら、類い稀な映像センスを武器に自分のやりたいことをしたたかに実現してきた。本当にタフな人だと思う。癌になってから2本も映画を撮ってるし。

ネモト 日本で一番成功したインディーズ映画監督じゃないですか?

北沢 そうだね。大林さんは究極の「個人映画作家」だと思う。それをエンタテインメントとして成立させる変換装置が独特なんだよね。

ネモト でも狂ってますよね。

北沢 うん。最大の敬意を込めて同意するけど、狂ってる。作詞家の阿久悠さんに「歌は狂気の伝達」という名言があるんだけど、狂気のない創造なんてありえないよ。大林監督は晩年になればなるほど盛大に狂った、創造者の鑑みたいな人。

ネモト 『この空の花-長岡花火物語』(2012年公開)を観た時に驚きましたよ、アティチュードもあるし。

北沢 晩年の作品の登場人物の台詞って、一言一句が大林さんの脳内の言葉なんだよね。ネモトさんもカヴァーの選曲や、自分で作詞しなくても屋久島さんやユリナちゃんに自分の構想を細かく伝えることで、脳内の言葉をうさべにさんたちに代弁してもらってるでしょう?

ネモト ほんと、その通りです。あと、大林さんはどっかに必ず笑いがあるじゃないですか。
     
北沢 まあ、必ずしも笑えるわけではないんだけど(笑)、どんな時にも笑みを忘れないというスピリットが素敵だよね。

ネモト 7~8年前に日本のインディーズ映画のシーンに関わることがあって、その時期、大林映画めちゃくちゃ観ました。

北沢 商業映画デビュー以前の、60年代の自主映画も必見だよ!『EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』(16ミリ/1966年製作・1967年公開)を観た時、本当にびっくりした。60年代半ばにして、センスはもう80年代なんだよね。60年代に80年代を先取りした人って初めて見た。38分の映像の中に、それ以降の作品の要素が全部詰まっている。

ネモト そうですね。

北沢 女の子二人が主人公で、チャイルディッシュ・トーンズ feat.宇佐蔵べにの世界とものすごく響き合うものがある。うさべにさんやL.Kさん、ワカちゃん、新メンバーのキャロル・アイ!さんやPAT THE BENNYさんにもぜひ観てほしいな!

大林宣彦 - EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ

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