Pervenche(斉藤正人、高橋正之)インタビュー
KKV Neighborhood #166 Interview - 2023.4.20
インタビュー、構成 by 与田太郎
去年の8月に発売となったペルヴァンシュの2ndアルバム『quite small hapiness』が静かにリスナーを増やしている。昨年の暮れ以降はなぜか中国のレコード・ショップからのオーダー急増、いずれも香港、深圳、上海、南京などの小さな個人店からのオーダーである。もう20年以上にもなる活動歴がありながら国内では知る人ぞ知る、という状況も変わりつつあるのかもしれない。ようやく世界が彼らの音楽を発見しつつある今、ギターを担当する斉藤、高橋両氏にバンドのヒストリーを含め、『quite small hapiness』の独特のサウンドの背景を聞いてみた。
― 今日はまず基本的なことから伺いたいと思います。僕が最初に『quite small happiness』を聴いた時にとても驚いたのは独特の音の響きでした。いわゆるネオアコやギター・ポップといわれるサウンドではなく、はっきりベルベット・アンダーグラウンド直系の響きを感じました。1stアルバムのリリースから20年という年月が経っています。この20年をどのように過ごしたんですか?
斎藤 今回のサウンドに辿り着いたのはたまたまというか、このサウンドを目指していたわけではなく。その時々に何時もこういうモノを作りたいという思いはあるのですが、結果こうなってしまったという。
高橋 キーワードがあるとすれば成り行きです(笑)。最初はベースがいて、1stの時には普通のドラムセットを使っていたし。それが今はギター二人、ドラムもセットではなくシンプルにスネアかタムのみになったことで出来たんじゃないでしょうか。途中からこのフォーマットでどうやるかというなかで完成したので。
斎藤 成り行きではありますけど、CDのボーナス・ディスクに収録されている音源(*1)ではベースもドラムも無いんです。そういう意味でも元々自分がイメージしていたものからそれほどかけ離れてはいないんです。僕はヤング・マーブル・ジャイアンツが好きで、スチュアート・モクサムがプロデュースしたロイスのアルバムがあって基本的にはアコギ1本なんですけど、それがとてもカッコよくて、最初はこういうことをやってみたいと思ってました。そういう曲を宅録し始めて、それからベースが入って、ドラマーが参加してくれたんですが、その時期は自分の中でもちょっと異質な時期なんです。それが1stの録音のタイミングなんです。(*2)
― むしろ1stが異質なんですね。
斎藤 1stは自分で思い描いていたのとはちょっと違うものができて、もちろんそれがダメとか嫌いということではないですが、それからメンバーの変遷など含め紆余曲折あって。
高橋 1stの後、ボーカルの雅子さんがギターやバイオリンを持ったりと、かなり実験的な時期が長くあって。(*3)
斎藤 そういう時期も試行錯誤ではなく、その時はそういう音を出したかったんですね。とくに発表するわけでもなく、自分で聴きたい音を作っていたんです。そうやってるうちにたまたま今の状況に辿り着いたという。
― なるほど、そうなんですね。ぺルヴァンシュはネット上にいろんな情報があるわけでもないですし、ライブもそれほど頻繁ではないので今回のアルバムで初めて知った人も多いと思います。特にこのアルバムの孤高とも言える音作りはどこからきたのか知りたい人も多いのではないかと思います。
斎藤 自分もその感覚はよくわかります。自分でも好きなアルバムに出会った時に、すぐにはわからない感覚を感じていることがよくあるので。
― シンプルなネオアコやギター・ポップとは全く違う感覚があるので、その響きがどう作られたのかをお聞きしたいと思いました。アルバムのリリースに当たってキャッチコピーを考えたんですが、斎藤さんのポストパンクを経由してというヒントがでてから全体がまとまりました。
― この意味をもう少し紐解いてみたいと思います。ぺルヴァンシュの活動開始は95年ぐらいですか?
斎藤 活動を始めたのがその頃です。高橋くんが800チェリーズ(*4)を始めたのもその頃でしょ?
高橋 そうです、800チェリーズも94年ぐらいに始まってます。
― お二人の年齢は同じぐらいですか?
斉藤 そうです。
― ということは僕とも一緒ですね、67年生まれなんですね。ということは僕たちは90年代の前半に同じところにいた可能性はありますね。
高橋 僕はその時期まだ北海道にいて、2005年に東京に来ました。
斉藤 僕も北海道なんですが、90年代前半では高橋くんとは面識がなく、95年ぐらいから連絡を取り合うようになりました。
― 斉藤さんが東京に出て来るのはいつですか?
斉藤 90年代前半には就職のために来てました。
― 当時はほんとに海外のアーティストの来日公演が多かったですね。特に89年から93年ぐらいは僕も相当見に行ってました。
斉藤 僕もそのために上京したようなもので。
高橋 僕もライブを見るためだけで3回は東京に行って、それがダイナソーJrとパステルズとステレオラブでした、それぞれ初来日だったと思います。
― 僕もダイナソーJrは行きました。
高橋 チッタの暴力的なまでの爆音で、客が苦しむぐらいの(笑)。
斉藤 そういう意味での同じ場所ならかなりの確率でいたと思いますね(笑)。
― そうですね、国内のアーティストのライブというよりは来日アーティストの会場ですね。ということはスミスやアズテックは高校時代に聴いていて、89年にストーン・ローゼズのデビュー、プライマル・スクリームのローデッドが出て風が変わるじゃないですか、その後マイブラの『ラブレス』が来て、という流れに熱中してませんでしたか?
斉藤 ところが僕はそうではないんです。
― そのあたりをお聞きしたいんです。
高橋 斉藤さんは違うよね、自分はそうだったんですが。
斉藤 僕はちょっとズレていて、80年代の終わりから90年代のはじめにかけてはもうイギリスの新しい音楽を貪欲に追わなくなっていたんです。ライターの赤岩和美さんご存知ですか?あの人が当時紹介していたヨ・ラ・テンゴとか初期のKレコーズやシミーとか、アメリカのインディーにハマっていた時期なんです。
― その辺りは僕も聴いてはいましたけど。
斉藤 僕もイギリスのバンドでもスペースメン3とかステレオラブなんかはとても好きで聴いてたんですが、クラブ系というかレイヴ系というかダンス・ビートがダメだったんですね。そのあとのブリット・ポップなんかもだめでした。
― あー、その感じはわかります。僕はマッドチェスターに大ハマりしてその後ダンス・ミュージックに突っ込むんですが、そこに行けない人も多いですね。
斉藤 そうなんです、当時洋楽好きだと同じ時代のバンドを勧められるじゃないですか?「これ好きならこれも好きだだよね」的に。そういう中にどうしても理解できない曲がけっこうあって。
― なるほど、1987年にスミスが解散、その年にプライマル・スクリームの『ソニック・フラワー・グルーヴ』が出て、クリエイションはそろそろハウス・オブ・ラブをリリースという時期なんですが、このあたりはどうですか?
斉藤 その辺りは聴いてます、全部追ってますね。
― どのあたりで線が引かれるんでしょう?89年のプライマル・スクリームの2ndはどうでした?
斉藤 もうあまり好きじゃなかったです。
― あれはガレージ・パンクですもんね。
斉藤 いや、ガレージ自体は嫌いじゃないんです、当時だとヘッドコーツなんかはとても好きでしたし。
― なるほど、86年から87年はガレージが盛り上がった感じはありましたね、僕もクランプスやミルクシェイクスなどをよく聴いてました。
斉藤 僕もよく7インチを買っていました。どうしてもインディーのなかでも人気のないスタイルというか、マイナーなほうに惹かれるところがあって。
高橋 天邪鬼なんですよ(笑)。
斉藤 みんなが聴いてるものを避ける傾向がありますね(笑)。
― 僕は89年が分岐点だったと思うんですが、マンチェスター、インディー・ダンスからブリット・ポップまで一直線ですよね。振り返ってその直前の86年から88年の移行期に聴いていたものが今けっこう意味があるような気がします。ちょうどアメリカでもローカルなインディー・シーンが活発になる時期ですね。
斉藤 そうですね、ギャラクシー500なんかもその時期にシミー・ディスクからの1stを聴いてました。
― 斉藤さんは当時イギリスよりもアメリカの音楽を追っていたんですね。
斉藤 そうですね、僕はレーベルとしてラフ・トレードが好きなんですが、当時フィーリーズのようなアメリカのバンドがラフ・トレードから出ていてそういうことがとてもかっこよく思えたんです。そういう出会いからアメリカのインディーに入っていきました。
― その流れは斉藤さんの独自の感覚なんですね。スペースメン3からスペクトラム、ソニック・ブームあたりを経由してマウス・オン・マーズとかには行きませんでしたか?
斉藤 聴きました、そういう流れで。その感じは相当好きでしたね。
― それこそ90年代にニューヨークのアザー・ミュージックに並んでいた音楽ですね。
斉藤 そういうことになりますね。当時のマウス・オン・マーズやステレオラブなんかの7インチはウチにいっぱいあります。
― いま話を聞いていて思ったんですが、僕が長く一緒にやっているシュガー・プラント(*5)のメンバーの趣味とかなり近いと思いました。
斉藤 シュガー・プラント見たことありますよ。
― 何年ぐらいですか?
斉藤 たぶん初期の頃だと思います、いいと思いました。
― シュガー・プラントは1stからの付き合いなんです。彼らは最初にボストンの小さなレーベルからアメリカ盤の発売が決まっていて、その国内リリースをやることから付き合いが始まったんです。彼らは僕の少し下なんですが、彼らもマンチェやブリット・ポップには興味がないんです。ヴェルヴェットやギャラクシー、ステレオラブがヒーローでした、斉藤さんと同じようにアメリカ指向な部分も似てますね。
斉藤 共通点が多そうな気がします。
高橋 僕も2ndと3rdは持ってます、すごく好きですよ。
― ちょっと話を戻します。バンドの活動がはじまって95年にはクローバー・レコードもスタートするんですか?90年代初頭とは状況がずいぶん変わってますよね。もちろんグランジの盛り上がりなんかもあったと思いますが、マージやマタドールなどが大きく注目され、地方のローカル・レーベルも数多く生まれました。
斉藤 そうですね、輸入盤ショップでもいろんなレーベルからのリリースがあって刺激を受けるじゃないですか。その頃に自分より若い人たちとも知り合う機会があって、自分より4~5歳下なんですが。僕の全く知らないものを彼らがとても推していて、ビートハプニング周辺なんかを教えてもらったり、マージなんかもそうです。当時は自分で発見したというより周りの友達に教えられてハマって世界が広がりました。その友人達がカクタス(*6)やスマイリー(*7)といったバンドを組んで一緒に活動していくことになります。
― そうですね、95年はイギリスが完全にブリット・ポップ祭りでサラ・レコーズが終わって、80年代から続いたシーンが終わり新しいフェーズに入った感覚ですね。逆にアメリカは80年代から続いてきたものが花開いたイメージがありますね。
斉藤 その時に知り合った若い友人たちがヤング・マーブル・ジャイアンツを好きだったり、共通の接点も多かったんですね。象徴的だったのがヤング・マーブル・ジャイアンツのスチュアート・モクサムがプロデュースしたロイスの7インチをお互い好きだったりして、こうやって繋がっていくのかと。スチュアートはとても長い経験があるにも関わらず全くこなれていなくて、そこがまた良くて。同じようにアメリカのインディーってこなれてないですよね、そこにも惹かれたんだと思います。
― そうですね、ちょっと癖が強いというか、自分達を曲げようとしない良さがありますね。クローバー・レコーズの活動がはじまった経緯を教えてもらえますか?
斉藤 最初はバンドメンバーの募集をしたんです。そこで知り合った人たちとフィーリーズっぽいバンドを始めるんです。僕は元々楽器をやっていなかったんですけど、宅録は好きで中学生ぐらいの時からやっていたんです。楽器が弾けないので最初はコラージュみたいなものなんですが。
高橋 MTRを持ってたの?
斉藤 いや、買ってもらったステレオとラジカセを使ってピンポン録音で。それもケーブルで繋ぐのではなくスピーカーから直接で(笑)。
高橋 僕もそれ高校生の時にやってました、布団叩いたりして(笑)。
斉藤 その後MTRを買ったんですね、その時にカセット・テープのレーベルをやったら面白いんじゃないかと思いまして。まだ北海道にいたころですが、テープといえばニューヨークのロアー (ROIR)レーベルが好きだったんです。アメリカのインディーってカセット的というかローファイな感覚があったので、これだと思いまして。
― ロアーというとリチャード・ヘルやバッドブレインズというイメージですが、そういうパンクも聴いてました?
斉藤 高校生のころは聴いてましたね。
― 僕らはパンクの終わりには間に合ったけど、全盛期は体験できなかった世代ですから。
斉藤 なんというか、ちょっと怖いけどパンクの人たちがいる古着屋に行ってエコバニが着ている古いロングコートを買ったりした時期にパンクも聴いてました。
― その感じよくわかります(笑)、そういう古着のコート買いましたね、まったく一緒です。でカセット・レーベルが始まり、そこからどう展開したんですか?
斉藤 自分で録音して、ダビングしたテープを売ってくれるお店があるんだって知りまして。
― 業者にコピーを頼むのではなく自分でダビングするんですね。
斉藤 そうなんです。ジャケットもコンビニでコピーして、ちょうどコンビニにカラーコピー機が入った時期なんです。だから本当にサラっぽいというか、これなら自分でもできると思いまして。レーベル云々という野望があったわけではなくて自分が作ったものを聴いてくれる人が少しでもいる可能性があるならと。そしたら友達の知り合いのヴィニールの店員がお店に置いてくれたんです。そんなところから少しずつ広がっていったんです。
高橋 札幌にも置いてありましたから。
斉藤 そうなんです、置いてくれるってわかったからいろんな街のレコードショップに電話したり手紙書いたりして。
― 当時札幌はどういうお店が置いてくれたんですか?
高橋 札幌はUKエジソンがグルグルになったばかりくらいですか、そこにありました。96年ぐらいだと思います。
斉藤 まあ委託だったというのはあると思います。
― 当時はまだレコードもCDもよく売れた時期なのでお店にも余裕があったんですね。
斉藤 九州もいくつか置いてくれて、それからやり出すと楽しくなって全国のお店に連絡をして。
高橋 ハマるとけっこう走るタイプですよね。
― その頃にぺルヴァンシュの前身となるバンドがスタートするんですか?
斉藤 宅録した音源をレーベルで出しながら、その頃知り合った友人たちとローファイっぽいバンドを組もうということになって、その中でできたのがピートモス(*8)でした。パステルズのメンバーがやっていたメロディー・ドッグのような宅録っぽいのをやりたくて、それが最初です。
― 雅子さんと会うのもその時期ですか?
斉藤 彼女と会うのはもう少し後になります。その時は女の子のボーカルを入れたくて、友達の大学の音楽サークルの知り合いの人に歌ってもらって。でもボーカルの子も何をやっているかはそんなにわかってなかったと思います(笑)。その後に来栖さんを紹介されて、彼女の声がとても良かったんですね。それで俄然やる気になりまして、この声に合う曲を作ろうと。
― その辺りからCDを作るんですか?
斉藤 いやカセットの時期がけっこう長くて、何をきっかけにCDを作ったんだっけかな。当時ソニーの人がカセットを気に入ってくれて、その人からCD出そうよって言われたのがきっかけのような気がします。
― それはレコード会社のソニーですか?
斉藤 そうです、SMEの方です。それが97年ぐらいかな。
高橋 それぐらいじゃない?98年には800チェリーズのCDを出してもらっているから。
斉藤 そうだね、たしかCDのリリースをスタートすると決めてから立て続けにリリースをして。レッド・ゴーカート(*9)、800チェリーズ、それと海外のオレンジ・ケーキ・ミックス(*10)というバンドも出しました。特にCDに対するこだわりがあったわけでもなく、流れでそうなっていった感じです。
― ソニーが流通を担当したということですね。
斉藤 そうです、流通だけでなくプレスもソニーでした。フィールドマイスの日本編集のコンピレーションもクローバーで出しました。(*11)
― ソニーもそういうことをやっていたんですね。
高橋 その頃が特別、そういうことに対して優しかった時代じゃないですかね。
斉藤 マスタリングもソニーのスタジオでやってましたから、それでCDのリリースができたんです。
― 面白いですね、それは初めて聞きました。それはいつ頃迄ですか?
斉藤 たぶん2000年にはソニーを離れていたので一年半ぐらいかな。
― ほんとに一時期なんですね。
斉藤 その後から自分達でプレスして流通も始めるんですが、かなり過酷な状況に陥りました。
― なにがそんなに過酷だったんですか?
斉藤 なんのノウハウもなしに自分達でスタートして、みんな仕事もしながらでしたし。雑誌とかに取り上げられても現実とのギャップが凄くて(笑)。自分達もどうすればいいんだろうと..。
― インターネット前夜ですね、まだアマゾンも出始めで当然配信もなく。ということはプレス工場に発注して、ディストリビューターに注文書を送り、宣伝やって商品納品してという流れですね。
斉藤 その頃は雅子さんがそういう作業をやってくれました。
― そういった作業はけっこう大変ですよね、そしてそんなに売れるわけでもないですし。
斉藤 そうです、それで少しずつフェードアウトするような感じになりました。
高橋 だんだんリリースが減って、2005年ぐらいでもうぽつりぽつりという状況でした。
斉藤 自分自身にとってもバンドの音楽の方向もちょっと変わりはじめて、ネオアコやギター・ポップとはズレがあると思ってたので、まわりからそれを期待されても難しいと感じていて。それをライブとかでも感じるようになっていました。メンバーそれぞれのモチベーションも変わってきた時期でもあったので。
― 年齢的にも子供が生まれたり、仕事の比重が上がる時期ですね。そして2010年以降はレーベルとして超マイペースとなるんですね。
斉藤 そうです。
高橋 ほぼほぼ出してないですね、10年で1枚とか。
斉藤 西森さん(*12)ぐらいですか。
― ぺルヴァンシュの活動はどうでしたか?
高橋 年に一回ライブをやるバンドになってました(笑)。その合間にバンドは実験的なリハーサルをしたりして。(*13)
斉藤 やってる方としてはそれほど途切れた感じはしてないんですけど、聴き手のことは考えてなかったですね。
高橋 それはいいんじゃないですか。それほどライブに人が集まっていたわけでもないですし(笑)。
斉藤 そうですね、でも久しぶりに来てくれた人にとっても良くわからない感じになっていたり。
― そういう時期が長く続いた後に今回のアルバムを作ろうと思ったきっかけは何かありますか?
斉藤 2010年代も曲は作ってるんですね。ハードディスクを整理したらけっこうデモがあって。ただ自分では出来たと思ってないんですね、けれどその時期があったから『quite small happiness』が出来たとも思います。バンドでも新しい曲にトライするよりもこれまでの曲を違う感じで演奏するような流れで。
高橋 2016年に僕が加入したということになってますけど、その前から一緒にいろいろやってるよと思ってますし(笑)。その頃にはもうベースがいないので、ベースのいないフォーマットでライブがあるとその度にいろいろ考えてましたね。昔の曲のアレンジを考えたり、カバー曲をやってみたり。だから2010年代中旬の数年は年に一度のライブのために集まっているような感じでしたね。
― その後ようやくアルバムを作りますよね?
高橋 せっかくライブをやっても売るものもないし、来てくれた人に配るでもいいからなにか作ろうと。それこそCDRでもいいから、というようなモチベーションだったと思います。
斉藤 2016年というと、僕は一番音楽から離れていた時期なんですけど。この年にボーカルの雅子さんとレッド・ゴーカートのメンバーで『メロディーキャット』というイベントを企画したんですね。そのイベントが仙台だったんですけど、僕が話を聞いたときにはもう僕も行くことになっていて。いつのまにかドラムの長井さんが車の免許をとっていて、車でいくと。その時に久しぶりにギターを弾いて曲を作り、せっかくなら仙台までの長いドライブの間にみんなにデモを聞かせようと思いまして。そのデモを車内でかけたら無反応なんですよ(笑)。僕はただレッド・ゴーカートの企画イベントを見に行くと思ってたんです。雅子さんとしてはそこで僕を刺激したかったんだと思います。彼女はこのままやらなくなってしまうと本当に終わってしまうという危機感があったんでしょう、僕の返事もきかずに決めていて。
― なるほど力技できたんですね。
斉藤 以前から時折雅子さんから言われていて、このままやめてしまったら本当に終わりになってしまうよって。彼女もやめてしまう人をいっぱい見てきてるので、ここでやめると二度とできないと思ったんでしょう。なので無理矢理なのか彼女の天然さなのかわかりませんが、それで引っ張り出されたんです。そのイベントでのレッド・ゴーカートの演奏がめちゃくちゃ良かったんですよ。その時の出演バンド、ウィズ・ミー!(*14)、ツヨ・エービーシー(*15)も良くて。廣瀬さん(*16)もウィズ・ミー!のメンバーとして出演していて、彼女はスモークビーズ(*17)という二人組のユニットのメンバーでもあったのですけど、相棒の須藤君(*18)が当時海外にいてその時は一人でスモークビーズの曲も演奏していて、それも本当に良くて。その日のライブにかなり刺激されて、もう一度動き出すことになるんです。
― 廣瀬さんはキーパーソンなんですね。
斉藤 そうですね。レッド・ゴーカートのメンバーは以前から廣瀬さんと面識はあったんですが、僕があまり外に出なかったこともあって、廣瀬さんにはその日はじめて話すことができて。ライブの後に過去の音源やピートモスの音源を聴いてもらったら、すごく気に入ってくれてカバーしてくれたりしたんです。こんなに若い世代の人が気に入ってくれるという驚きもあり、そのイベントから帰ってきてデモをちゃんと完成させようと思って作り直したんです、それがアルバムに入っている「Fade Away」という曲です。それ以前に作っていた曲とも違うものができたと思って、廣瀬さんも自分の曲のようにライヴで演奏してくれています。
高橋 僕らよりも演奏してるかもしれない(笑)。
斉藤 それからスタジオに入ってリハーサルをするようになりました。
高橋 そのあと阿佐ヶ谷でライブをやったじゃないですか?スモークビーズとボーイズ・エイジ(*19)、ハー・ブレイズ(*20)、が出たメロディーキャット Vol.3、あのあたりから本格的に再始動となりましたよね?
― それは2019年ぐらいですか?
高橋 2019年の頭からレコーディングしようという流れだったので2018年ぐらいだと思います。
斉藤 その前に2回ほど雅子さんと二人だけでライブをやっているんです。その時に雅子さんが物足りなく感じたらしく絶対高橋くんを誘おうと言って。
高橋 そうなんだ。
斉藤 これじゃあダメだと(笑)。なので今の編成になったのは2016年からの流れがあり、最終的には2018年ごろに落ちつきました。そこから新曲を作り始めるんです、でも断片だけなのも多くて、高橋くんといろいろやりとりをするようになって進み始めました。
高橋 以前よりも内容に踏み込むようになりました。
斉藤 そうですね、10年ぐらい作り溜めた曲もあったので。
高橋 レコーディングして上手くいかなかったものとか作りかけの断片とかを形にする作業をして。
斉藤 高橋くんが入って音もちゃんとして、というか僕があまりわかってなかったバンドとしての楽器の組み合わせなんかができるようになり。ライブでもなんとなくいい感じの時が増えて、やっぱりベースって無くても良いのでは?と思いまして。むしろベースが入ることに違和感があって。
高橋 斉藤さんは普通のミュージシャンとは違う感覚で考えるんですよ。なので普通になってしまってもつまらないので余計なことはなるべく言わず、そのさじ加減はいまでも調整しながらやってます(笑)。
― それはけっこう大事ですよね。
斉藤 そのバランスが動きだしたらうまくハマり出してきましたね。
高橋 そうですね、それが斉藤さんの野生味だと思います。その野生味を削がないでまとめていくという。テンポとかはほっておくと大変なことになるので。
斉藤 それは自分でもわかってます。
― 普通のフォーマットにとらわれず、むしろ歪なスタイルでも自分達の求める音を作るというのは、今回のアルバムのキャッチ・コピーにあるように、まさにポストパンクですね。
斉藤、高橋 そうなんですよ!
高橋 僕は2000年以降、バンドじゃないスタイルのアーティストをいっぱい見たんです、ベースレスだったりかなり自由なスタイルでやっているのを見て呪縛がなくなったところがありました、それが活きたんですね。2005年以降ぐらいにそういうフォーマットにとらわれない人たちが増えてきましたよね。
斉藤 その頃は高円寺の小さなバーやライブスペースでのライブをよく見ていて、アイディア先行のも多いんですが、ちょっといいなって思えるのもけっこうありまして。でも僕らはそこにも馴染まないんですよ。その中に入ってしまうとちゃんとしてる、みたいな。
― なるほど、たしかにネオアコ、ギター・ポップと言われる場所でも明らかに異端ですね。かといってアヴァンギャルドでもないし。でも今回のアルバムでは音楽好きな人にはそういう細かいニュアンスも伝わっているような気がします。
斉藤 いま話しながら思い出したんですけど、最初ピートモスで曲を作ろうと思った時にギターの練習をしようと思って、楽譜をいきなり買ったんです。僕はビートルズも好きなんですが、それで楽譜を買ったらビートルズなんかいきなり弾けないじゃないですか。かといってヴェルヴェット・アンダーグラウンドの楽譜はないし。妥協点でティー・レックスの楽譜を買ってみたんですが、全曲ミュートして弾く、みたいな感じなんですよね。それでなんだかなー、と思いまして(笑)。そこで、誰でも弾ける曲を自分で作ろうと思ったんです。おんなじコードの繰り返しなんですけど、そのコードの使いどころを変えると曲ができて。そのやり方は今でもそうなんですが(笑)。なので何かの曲をコピーしたりしたことがないんです、スケールも知らないし。
― それは自分のやり方で発見したいということですよね?パンク以降、楽器ができなくても音楽は作れるという。
斉藤 そうですね。同じコードを鳴らしているとその中からフレーズが聞こえてきて、それを掴みたいという。
高橋 それがなんのコードかも言ってくれないので、僕が勝手に合わせるんですよ(笑)。
斉藤 ベースがじゃまっていうのはそれもあるんです。コードの響きの中にベースが入ってくると自分が聞こえていたものと全然違ってしまうんです。ピートモスはまだAメロ、Bメロ的な展開があるんですけど、いまはもうできるだけ同じ音で続けていきたくて、それが行き着いたのがアルバムのラストに入っている「What's New」です。二つのコードの順序を入れ替えるだけでメロディーが変わると思いまして。
高橋 よく曲を間違えるよね(笑)、そういう人です。
― 斉藤さんが自分のやり方で見つけたいというのはけっこう大事なことですね。
高橋 それはバンドのメンバーも全員よくわかっているので、そのままにしてます(笑)。
斉藤 僕はいろんな音楽を聴く方だと思うんですが、時々変な思い込みがあって。中学生ぐらいの時にシンバルが入っている曲はカッコ悪いと思い込みまして(笑)、それをいまでも実践していたり。
― 今日お二人と話していろいろ腑に落ちました(笑)。お二人はカン(CAN)とかにはハマらなかったんですか?
斉藤 カンは大好きです。
高橋 カンはみんな好きなんじゃないですか?
斉藤 高校生ぐらいの時にラジオで聞いてはまりました。
― ヴェルヴェットやヤング・マーブル・ジャイアンツなんかのポストパンクが好きで、その感じだとカンも好きなのでは?と思いました。
斉藤 あとスージー・アンド・ザ・バンシーズなんかも好きでした、後その当時のジャングル・ビートのバウワウワウとか、シンバルがないんですよ(笑)。クラフトワークもシンバルがないですけど、それをシンセサイザーじゃない音でやれたらかっこいいんじゃないかと思って。
― 僕らの世代は中学時代にYMOを通るか通らないかで音楽の志向が変わるじゃないですか?YMO聴いてました?
斉藤 YMO聴いてました、あれはかなり大きな影響をうけましたね。
― 僕は当時あまり聴いてなかったんですけど、後々その凄さに気が付きました。
高橋 全く同じです、当時は聴かなくてもどこかで聴かざるを得ないですね。
斉藤 僕は小学校3年生の時にラジカセを買ってもらって、それからラジオばっかり聴いていたんです。それこそ、さだまさしからピンクレディーまで、それをなんでもかんでも録音して。本当になんでも聴いていて、その流れでYMOも聴くんですが、山下達郎とかと同じようにポップスとして聴いてました。細野晴臣の『はらいそ』なんかはよくわからないけど聴くのがかっこいいと思って。当時は日本のパンクやニューウェーブなんかもけっこう聴いてました。
― どの辺りですか?
斉藤 ゼルダとかゲー・シュミット、それから有頂天なんかも聴いてました。
― 僕もじゃがたらやルースターズに熱中してましたよ。
高橋 インディーズ御三家とかもですね。
― そうですね、まさに80年代中旬に一番多感な時期をすごしていた世代ですね。
斉藤 なんでも聴きたかったですね。
― 買わないと聴けない時代ですから、とにかく音楽が聴きたかったですね。
斉藤 その時代、僕は周りに音楽の話ができる友達がほとんどいなかったんです。与田さんはいました?
― 僕は高校の同級生に趣味の合う音楽好きがけっこういたんです、いまでもよく会いますよ。大学生の時は学園祭のコンサートを企画するサークルだったので、しょっちゅうライブハウスに行ってました。そのままそのサークルの先輩がいた会社に入ってしまったので、音楽好きな人はつねに周りにいました。でも30年以上も経つと音楽から離れてしまう人もいますね。そういう経験を経てキリキリヴィラは仕事を続けながら音楽も続けてほしいというのを一つのテーマにしているんです。それぞれにあったペースで音楽をやりながら、無理せず作るものには妥協しないで続けてもらえるようなサポートをできたらと思ってます。
斉藤 そういうスタイルはあまりないですよね。
― いまどき音楽で生活するということを考えてやるというのも無理があるし、そう考える人のほうがあまり音楽を好きじゃなかったりしますね。
高橋 そうですね、音楽が好きで長く続けたい人ほどあまり商業的な方向にいかないかもしれない。
― 売れる売れないというよりは自分達のフィールドやコミュニティーを作りたいというイメージなんです。とはいっても損していいわけではないので、バランスが難しいですけど。そういう意味でもまもなく10年ですが試行錯誤の連続です。
高橋 僕も斉藤さんと付き合って800チェリーズのCDをリリースしてもらった時には30才過ぎてましたから、そこまでくると現実も理解できてましたから。
― 音楽を仕事にするのはとても難しいことだと思うんです。時に自分の音楽を曲げないといけない場面もあるはずで、一度曲げてしまうと取り返しのつかないこともありますから。
斉藤 そうですよね。仕事してて思いますけど、収入を得続けるってとても大変じゃないですか。それを音楽でやるのは想像できないですね。
― よっぽど意志も強くて音楽に対して真剣で、才能があってもどこかで本末転倒することもあると思うんです。それならどれだけ時間がかかってもすごく小さなリリースだったとしても嘘のない音楽であってほしいし、そういうものを聴きたいんですね、理想論かもしれませんが。
斉藤 もうデビューみたいな概念もおかしいですよね。
― 芸能の考え方でしょうね。リスナーとして日本人はまだ成熟してないんだと思います。
高橋 いつか変わるんだろうと思ってたんですけど、あまり変わらないですね。
― いつも思うんですけど、キリキリヴィラのリリースはこの一億人いる日本の中でたった300人から500人に届けばいいと思ってるんです。もちろん1000人や2000人が聴いてもいい内容だと思ってリリースしますけど、でも最小で300人が買ってくれたら成り立つという仕組みをなんとか手探りで作れてきたんです。
高橋 それができるというのがすごいですね。
― まあ、やりたいからしょうがないんですけど(笑)。
斉藤 いま大変でもそういう音楽を聴きたい人はいなくならないんだと思いますよ、僕らもそうですから。僕は日本で大きな反応はそれほど期待していないところもあるんですが、海外で僕らの音楽をわかってくれる人はいるんじゃないか、それはアプローチを続けたいと思ってます。いまは伝わってなくても絶対に分かり合える人たちはいっぱいいるだろうと、それは最初からありました。
― そうですね、ぺルヴァンシュのサウンドは海外の方が受け入れてくれそうですね。
高橋 ぺルヴァンシュはフランス・ツアーをしてるんですよ。
斉藤 そう、スマイリーと一緒にパリ行ってレンヌいってボルドーまで(*21)。
― それは斉藤さんの思いが伝わったことですよね。
斉藤 そうですね、人数の問題ではなく自分の何かが伝わったという実感が嬉しかったんです。いまでもフランスから通販の申し込みがあったり。ただ自分の曲を誰かに聴いてもらいたいんです、もっと言えば僕ギター弾けるんです!ぐらい(笑)。
― 演奏自体はシンプルですけど、ぺルヴァンシュのあの音の響きを見つけるのは簡単ではないですよね。独特のものがありますね、ぱっと弾き語りではできない。
斉藤 それはできないですね。
― 僕はちょっとした価値観の転換ぐらいの驚きがあって、どこにも無いものを感じました。音響的にとでも言うんでしょうか。その感覚に気づいて欲しいと思いました。
クローバーレコーズからのお知らせ
クローバーレコーズ初期音源、発掘音源のカセットリリース準備中!
red go-cart :1st+2ndカセット&カバー音源
Kactus :全音源&ライブ音源
Smiley :1st+2ndカセット&初期音源
Peatmos :全音源&ライブ音源
Pervenche :Subtle Song June, 1998
Rocky Mountain Broncos Power :全音源コンパイル
st★sm : Apartment StarとSmileyの合体バンド未発表音源集
などなど。
Now On Sale
Pervenche『quite small happiness』アナログLP
KKV-138VL
3,850円税込
収録曲
Side-A
1. Be Long
2. Cat Horn(Good Night)
3. Blue Painting
4. I'll Keep It With Mine
5. Simple Life
6. Out of The Room
Side-B
1. We Surely Become Happy
2. I Think So
3. Miraculous Weekend
4. Fade Away
5. Quite Small Happiness
6. What's New
Pervenche『quite small happiness』CD2枚組
KKV-138
CDは2枚組でリリース、2010年に録音した未発表プロトバージョン。
1stアルバムからのミッシングリンク『Another Quite Small Happiness』にプレ・ペルヴァンシュ Peatmosの音源を収録。
Disc 1 収録曲
1. Be Long
2. Cat Horn(Good Night)
3. Blue Painting
4. I'll Keep It With Mine
5. Simple Life
6. Out of The Room
7. We Surely Become Happy
8. I Think So
9. Miraculous Weekend
10. Fade Away
11. Quite Small Happiness
12. What's New
Disc 2 収録曲
Pervenche - Another Quite Small Happiness
1. Simple Life
2. Quite Small Happiness
3. Cat Horn(Good Night)
4. Out of TheRoom
5. Mess
6. Blue Painting
7. Earl Gray Tea
8. What's New
Peatmos - Watching Us With Archaic Smile
9. earl grey tea
10. many suns
11. to my little friends
12. mad cow disease
13. mess
14. picnic
15. d'yer wanna dance with kids
16. out of the room
17. blue painting
18. play the wind
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