見出し画像

12年ぶりに重松清の『十字架』を読んだ




小学校の頃から重松清が好きだった。

特にこの『十字架』という小説は、自分にとってかなり印象深い本だ。
これを読んでいたのは小学校を卒業する直前、6年生の終わり頃だ。単行本の出版年が2009年12月だというから、新刊で出たばかりの頃に読んでいたことになる。卒業記念として「いちばん好きな本」を小さな画用紙に書き、それを図書室の壁に貼って桜の木に見立てる、という企画があった。そこでこの本のタイトルを書いたのを今でも覚えている。実際に当時いちばん好きだった小説というわけではないが、その時ちょうど読んで衝撃を受けていた。

『十字架』は中学生のいじめ自殺を扱った物語である。主人公はいじめられた側でもいじめた側でもなく、いじめを傍観していた同級生のひとり──ただし、彼の遺書に「親友になってくれてありがとう」と名指しで書かれていた──だ。死んでしまったフジシュン(藤田俊介)とは確かに幼馴染で小学生の頃は仲が良かったものの、中学に入ってからはまったく関わりがなかったはずなのに、なぜ「親友」なんて……。そうして十字架を背負って生きていくしかなくなったひとりの少年の物語が回想形式で語られる。

派手なストーリーなどは存在せず、ひたすらに陰鬱で地味な話だ。このように、小6当時の自分も思っていた。そんな小説を、わざわざ晴れやかな卒業記念の桜の花びらに刻むのはどうなんだ──とも、当時から思っていた。同時に、小学生が「いちばん好きな本」として挙げないような作品を挙げることに、ほのかな優越感と特別感を覚えていたことまではっきりと覚えている。

そうして、格好をつけて「いちばん好きな本」として画用紙に書いたにも関わらず、わたしは『十字架』を最後まで読み切ってはいなかった。とにかく暗く救いのない話だったから、一気呵成に読み終えることはできず、途中でリタイアしてしまったのである。幼い頃からこういうしょうもないところは変わっていない。

小6の卒業シーズンということは、12歳だったはずだ。
ふと、自分にとって大切な本として挙げながらも実は最後まで読んではいない『十字架』を再読しようという気分になった。心が終わっているときには重松清を読みたくなる。わたしにとって重松清の小説はそんな存在である。
狙ったわけではないが、あの頃からちょうど12年が経っていた。

12歳の頃に読んでいた本を、12年後に読み返す。今度は最後まで。わたしは今日、そんな経験をした。



以下、付箋を貼ったところを中心に、雑多に感想を書いている。
海外文学を少しかじった今の自分は、重松清の著作に対して、決してあの頃と同じような感想は抱けない。その自分の変わり具合と、それでも変わらないものを拾い集めるようにして読んだ。


※以下の引用のページ数は講談社文庫版のものである。



・ジェンダー役割の固定

重松清の作品一般にいえることではあるが、本作にも、父権的で保守的なジェンダー観・家族観がありありと見て取れる部分が多くある。(重松清は一般に、昭和末期〜平成初期の市井の大衆の暮らしと人生を大衆的な形で鮮やかに描くことに長けた作家だと見なされており(要出典)、まさにその時代を舞台にした本作において、古臭く「時代遅れ」な描写が見られることはむしろ作中年代に忠実であると評価できる節もあるのかもしれない。ここらへんはフェミニズム批評などでさんざん議論され尽くしていることだろう。ただ、とりあえずいまの自分は本作のこうした面を肯定的に捉えようとは思わない。)

フジシュンの「お母さん」と「あのひと」の、ユウへの対照的な態度
優しく慈愛に満ちた母親と、厳しく叱責する父親、という保守的な家族観

主人公にとってフジシュンの父親だけが「あのひと」と呼ばれる特別な存在となっていった(お母さんは話の中心にはいない)その非対称性が本作の核心だと思うのだが、まだそこが掴めていない。
母親には小学生の頃に家に遊びに行って何度も面識が会ったのに対して、父親はフジシュンの死後にはじめて出会った、という差異は作中でも語られており重要だとは思うが、これだけではなく、上のジェンダー的な非対称性も含めて考えなければいけないと思う。


ふたりの記者──優しく寄り添ってくれる本多さんと、「親友」を見殺しにした罪を厳しく追求する田原さん──は、主人公(たち)にとって擬似的な両親?

自殺翌日の教室や通夜で「何人かの女子はすすり泣きをしていた」という何気ない描写
男子は泣かないらしい。何気ないがゆえに克明に旧来の性役割に囚われている様があらわれている部分


・中川小百合さんについて

恋愛の暴力性と、自殺による加害者/被害者の転倒

好意を相手に伝えることは根本的に加害性を孕んでいる。そのうえ、いきなり電話して「誕生日おめでとう。渡したいものがあるから今から君の家を訪ねてもいいかな」と告げるのはストーカーと捉えられてもおかしくない行為だろう。この件に関して中川さんは完全に被害者といっていいだろう。
しかし、そんな加害者/被害者という構図が、加害者当人──フジシュンの自殺によって転倒する(ように思えてしまう)。
中川さんは「あのとき断っていなかったら」と後悔して罪の意識を感じる。いくら自分は悪くないのだと、むしろよりいっそう被害者なのだと客観的にはわかっていても、それでも罪悪感からは逃れられない。
自殺には、こうした「一発逆転」の作用がある。──本人が死んでいるのにこう呼んでいいのかはわからないが、少なくとも、被害者だったひとを加害者の枠組みへと強制的に引きずり込むことができる。


・回想形式について

本作は、中学2年時の同級生の自殺から始まった長い人生を、すでに大人になった主人公が、過去を振り返るかたちで物語る形式になっている。回想とは原理的に不可能な行いである。過去を正確に記述すること、物語ることはできない。「正確な過去」なんてものは存在しない。本作のナラティヴには、そうした回想の不可能性に関して多分にナイーブなところがあると感じる。

そんな僕たちのことを語ろうと思う。うろ覚えの記憶や、忘れてしまいたかった思い出は、正確にはたどれないだろう。でも正直に書きたい。  p.13

「正確にはたどれないだろう」から、せめて「正直に書」こうとしている。しかし、「正直に書く」とはどういうことか?

翌日の僕たちについて、少しくわしく書いておく。
あの日の記憶をごまかすことや飾り立てることはたやすくても、消し去ることはできない。ならば正直に書くしかない。  p.28

「正直に書く」という行為には、「ごまかし」や「飾り立て」がいっさい入り込む余地がないのだろうか?
わたしには「正直に書く」ことと、「ごまかす」こと、「飾り立てる」ことのあいだにさほど違いがあるとは思えない。記憶に正直に書いたつもりでも、その記憶じたいがすでに多くの意識されないごまかしや飾り立ての上に成立しているものではないだろうか。


・重松清メタ

ひとを責める言葉にはニ種類ある、と教えてくれたのは本多さんだった。
ナイフの言葉。
十字架の言葉。  p.78

ここはこの物語を読み解くうえでも十分に重要な箇所ではあるが、この作品のタイトル『十字架』と並べて対比したかたちでの「ナイフの言葉」という表現に、重松清の読者なら誰しも、本作と同様にいじめを扱った出世作『ナイフ』を連想せずにはいられないだろう。97年の『ナイフ』から10年以上が経って、異なる角度から、異なる質感でいじめの周辺の人々の生を描こうとしたのだという作者の宣言をここに読み込んでしまう。品のない行いであり、個人的な信条としても避けたいところではあるが。


・宛名

僕があのひとに語りかけて、あのひとが僕に語りかける。でも、僕たちの言葉にはずっと宛名がなかった。ぽつりと漏らしたつぶやきが、頼りなげに揺れながら、漂いながら、かろうじて相手の耳に届く、そんな対話を僕たちは何年も何年もつづけてきたのだ。   p.51

そもそも「僕」が主人公として、ひとりの少年の自殺の物語に引きずり込まれたのは、彼の遺書に「僕」の名前が実名で書かれていたためである。「僕」には到底思いもしなかった<親友>という単語を紐付けされて。
そんな「宛名のある手紙」からはじまった物語の中心が、自殺したフジシュン本人から彼の父親("あのひと")へとスライドし、「宛名のない手紙」としてのやり取りに引き継がれるという点は示唆的だ。
記名性と匿名性という軸が、死と生という軸を反映するかのように寄り添って伸びてゆく。そうした印象を受ける。


・欠けた三角関係モノとしての『十字架』

12年振りに読み返すまでまったく考えもしなかったが、本作も、わたしが大好きな三角関係モノの亜種であったことに驚いている。(むしろ、三角関係好きという性質でさえも幼少期に重松清から植え付けられたものだったのか──?)
「僕」と中川小百合は、フジシュンの遺書がなければ深く付き合うことはなかった。このふたりの関係に圧倒的な存在感をもつ彼はすでにいない。彼への罪の意識によって繋がったふたり──このような、2人が惹かれ合ってしまうこと自体に罪悪感と葛藤がありふたりの間には、常にとは言わずとも、ふとした瞬間に暗い陰が入り込む。こうした恋愛関係と一言でいってしまっていいのかわからない(作中で「僕」は「共犯関係」かもしれないと述べている)結びつきが非常に性癖だと感じた。無論、いじめと自殺を扱うシリアスな作品にたいして、ギャルゲや萌えアニメに対するのと同じように「性癖」がどうこうといった語りを適用することへの後ろめたさは感じるが、こう思ってしまうことは事実である。
それに、繰り返すように、そもそもこの性癖を本作や他の重松清作品から植え付けられたとも考えられるため、これを読んで刺さって、こうした語りをもおこなってしまうのは仕方ないことなのかもしれない。わたしにとって重松清という作家はまるで陰謀論のように都合よく作用する、ということが再読していてよ〜くわかった。

「欠けた三角形」と「十字架」のあいだに幾何学的な連関を見出だせたら評論としてかっこいいのだろうけれど、ちょっと思いつかない。

本作のヒロイン(とあえて言ってしまおう)たる中川小百合さん(サユ)が自分にとって魅力的・理想的な理由のひとつとして、彼女の外見の描写がほとんどないことが挙げられると思う。テニス部のキャプテンということで(サッカー部キャプテンの主人公と同じく)スクールカースト上位であることは察せられ、容姿も決して悪くはないのだろうとは思われるが、そうした言及は(少なくとも高校生になり2人が事実上付き合い出すまでは)一切ない。彼女の外見上の魅力は「フジシュンが好きになった」という "事実" などから婉曲的に推察されるものでしかない。この回りくどさがかえって想像の中の中川さんを魅力的にする。むろん、物語が「僕」による語りである以上、彼女の容姿に言及しなかったのはフジシュンへの気遣い・後ろめたさによるものでもあるのだろう。それが良い。また、高校に進学し、毎朝同じバスに乗って仲を深めていってはじめて、彼女の伸びた黒髪(フジシュンが生きていた頃は短かった)のつややかな美しさが満を持して描写されるという構成もすばらしい。地の文での呼び名が「中川さん」から「サユ」へと変わるのも露骨だが良い。

フジシュンにとっては、好きな女子を<親友>に取られる──しかも自分の行為によって──のだから、いわゆるNTRになるのかもしれないが、NTRて絶望し、あるいはマゾヒスティックな快楽を覚えるような主体はもうどこにもいない。「不在のNTR」である。むしろ、罪悪感を抱いているのは寝取った男である主人公側であるのが特異な点だ。中川さん自身もまた罪悪感を抱きながら「僕」と付き合っているであろう点も見逃してはならない。しかも、ふたりは決して罪悪感だけではなく、フジシュンがきっかけではじまった関係を保持し、強固なものにすることで、フジシュンを忘れず、彼への自身の罪を忘れないという前向きな効果をも考慮に入れているだろう。でもそんなの言い訳でしかない、自分たちの関係がフジシュンの母親なんかにバレたら深く傷つけることになるだろう、でも自分たちが彼の十字架を背負って生きていくために最も適切な方法はこれだ……こうした葛藤が2人それぞれの心中で繰り返されたであろうと想像したくなる。わたしにとって理想的な三角関係であり、理想的な男女カップルのひとつだといたく感じている。


・写真と記憶の恣意性

遺影はどうやって選ぶのだろう。亡くなったひとがいちばん幸せだった頃の写真なのか、亡くなったひとのこの頃のことをいちばん覚えていてほしい、と遺族が願う写真なのだろうか。   p.241

ここで、遺影の選定における遺族の恣意性が言及されているが、これはこの回想形式の物語自体にも言えることだろう。「正直に書く」と主人公は語り、そのテクスト(手紙)自体がこの物語を構成しているが、物語とは原理的に「何を語って何を語らないか」という恣意性によって成り立つものである。
遺影だけでなく、本作では「写真」はひとつの重要なモチーフになっている。中学の卒業アルバムから彼が抹消されていることや、フジシュンの幼少期からのアルバムを彼のお母さんが押し付けるように見せてくることなど、写真に関するエピソードの存在感は大きい。
図像的な写真と、像を思うように結ばない記憶──それを騙るテキスト。これら、共通点も相違点も持つモチーフが折り重なるようにして本作は出来ている。


・親は被害者か

「お前らにとっては、たまたま同じクラスになっただけのどうでもいい存在でも、親にとっては……すべてなんだよ、取り替えが利かないんだよ、俊介の代わりはどこにもいないんだよ、その俊介を……おまえらは見殺しにしたんだ……」
p.253

物語のなかで、フジシュンの家族・両親はどこまでも被害者として描かれる。それは、主人公たちクラスメイトが書かされた「反省文」を父親がマスコミに渡したときの描写によっても逆説的に浮き彫りになっている。

裏切られた、と誰かが言った。女子の中には泣き出した子も何人かいたし、男子でもまじめな奴のほうが怒っていた。
あのひとは「被害者」だったはずなのだ。どんなに憎まれても、恨まれても、しかたない。理屈では覚悟していて、でも心のどこかでゆるしてもらいたくて、だからこそみんな、哀しくて、悔しかったのだろう。 (pp.168-169)

(※ちなみにここでも「女子が泣き出し、男子は怒る」というジェンダーステレオタイプな背景描像が見て取れる。当たり前の背景としてさらっと手癖で書いている風なのが余計にたちが悪い)

ようやく「被害者」になれた。二年三組の生徒も、親も。同じ「被害者」になってしまえば、もう負い目を感じることはない。 p.170

あくまでフジシュンとその家族に向けて書いたはずの作文を勝手にマスコミに流出させられたことで、フジシュンを見殺しにした加害者だった彼らはようやく被害者になれたという。"あのひとは「被害者」だったはずなのだ。" という描写が前提としているのは、フジシュンの父親は、こんなことをしなければ絶対的に被害者であった、という価値観である。
小学生の頃にこれを読んでいた自分もまた、「子供を学校のいじめで喪った可哀想な親たち」は100%被害者であるということを疑うことすらしなかっただろう。──あの頃の自分はまだ、反出生主義も知らなかった。
べつに反出生主義を持ち出さなくとも、そもそも親が子供をつくり育てることは、子供への加害行為である。どんなに優しく大切に恵まれた環境で育てても、その加害性が拭い去られることはない。もちろんいじめの主犯や見殺しにしたクラスメイト・教師たちも悪いが、近くにいながら子供の苦痛に気付けず見殺しにしていたのは家族だって同様だろう。
思うに、重松清の小説には、こうした親の子への加害性へのまなざしがいっさい存在しない。思春期の子供が親を鬱陶しく思う話や、子育てに失敗したと後悔する話はたくさん書いている(後の『ゼツメツ少年』でも、本作と同じく子供を自殺で亡くした親の無念が扱われている)が、親になること自体は肯定的にしか描かれていない。少なくともわたしが読んで覚えている限りでは。
彼の著作に決定的な影響を受け続けているひとりの読者として、重松清に反出生主義を題材にした物語を書いてほしいと思う。しかしながら、おそらく、上のような彼の思想性から考えればいちばん遠く相性が悪いテーマであることは間違いないので、仮に書いたとしても、川上未映子『夏物語』よりもさらに記号的な人物造形と筋書きになるだろうとは思う。

保護者とは加害者でもある、という観点で親の被害者性のみに立脚した語りを批判したが、のこされたフジシュンの家族として2歳下の弟(健介くん)をも配置しているところはうまいと思う。親は100%被害者面ではいられないと考えるが、さすがに兄を亡くした弟に対して加害者でもあると指摘することはできない。むろん、完全な被害者であることはあり得ないが、限りなくそれに近い存在である彼に、主人公を常に敵対視して冷たくあしらう立ち振舞いをさせるのは理にかなっている。父親たる「あのひと」が主人公に対して、掴みどころがなく不気味に揺れ続ける存在として描かれているのと好対照である。
また、この「上の兄弟を亡くした弟」という人物像からは、アニメ『あの花』のめんまの弟を連想する。両親の描写も結構似ている──母親は特に。
わたしが『あの花』から深夜アニメにハマったのも、小学時代に重松清を読んでいた影響が大きいのかもしれない。(それどころか、『あの花』に出会った高3当時も、未来と自分自身に絶望した傷を舐め、ノスタルジーという殻にこもるように、久し振りに重松清の著作を読みふけっていたことを思い出した。『ポニーテール』『一人っ子同盟』などをこの時期に読んでいた。)


・ジャーナリズムの暴力性

これはわたしにとって大切な物語であるが、田原さんの存在はかなり受け入れがたい。端的にいって、なぜこの人はそんなに偉そうに、惨事を見殺しにした人を追及し続けるのか? あなたが取材と称してやっていることも、他者の問題に安全圏からほとほどの距離を保って首を突っ込んで溜飲を下げている、同じくらいグロテスクな行為じゃないのか。重松清は確か作家になる前は記者かライターだったと思うけど、ジャーナリズムの暴力性に無自覚なのはちょっと理解できない。むしろ、いっさいの自覚なしに取材をする田原という人物を描き出すことによってそれを浮かび上がらせているつもりなのか? いずれにしろ、主人公も、反発しつつも最終的にいい感じの関係を築いているため、そうした手法だとも思えない。
これだけ攻撃的なのだから、さぞかし自身のトラウマがあるのだろうとは思っていたが、それもあくまで取材先での出来事であり、ある意味では部外者としての立ち位置が徹底されていた。自分の大切な人が見殺しにされた恨みで……みたいなお仕着せの過去を設定されても萎えるだけなので良かったのかもしれない。
もちろん本多さんだって、めちゃくちゃ優しくていい人だとは思うけれど、ジャーナリズムで身を立てている以上、逃れられない構造はある。


・伏線回収

「隣には、俊介がいたんだ。二人並んでるのを、健介が撮った。ウチのと俊介が二人だけで写ってる写真、それが最後だったんだ」
結局、その頃の幸せを超えることがないまま、お母さんの人生は終わった。 p.372

ここめっちゃアツい。"遺影はどうやって選ぶのだろう。亡くなったひとがいちばん幸せだった頃の写真なのか、亡くなったひとのこの頃のことをいちばん覚えていてほしい、と遺族が願う写真なのだろうか。" への100ページ越しのアンサー。遺影を選ぶのは遺族(他人)だけでなく、生前に自ら選ぶことができる。これによって後者の解釈が消えて、前者──「亡くなったひとがいちばん幸せだった頃の写真」という解釈が自然に採用される。とはいえ、自分で選んだからこそ、「その頃の幸せを超えることがな」かったのだという哀しい結論へとたどり着かざるをえない、その妙を噛み締めている。



・読み終えて

「正直に書く」ことを目指して語ってきた物語が、最後の最後で「想像」に羽ばたくのは非常にエモーショナルだし、終わりの見えない十字架を背負った歩み、という作品テーマを鑑みても、はっきりリアリズムで終わらせるよりも適していると思う。


小学生の頃に読みかけていた頃は、あくまで話の中心は死んでしまったフジシュンと、彼に<親友>と書き残された「僕」ふたりの関係だと認識していたが、今回はじめて最後まで読んでみて、むしろ彼の父親「あのひと」との名状しがたい関係を書きたいがための物語なのだと知ってびっくりした。いくら記憶を介して参入できるとはいえ、基本的には死者は物語のなかで生者と関係を持ち更新することは許されず、生き残ってしまった者同士の関係を描くことに注力したのは死者に対しても真摯な態度だと思う。


今回12年越しに『十字架』を読んでみて思ったのは、じぶんがいかにこの本から、そして重松清から影響を受けているか、ということであった。大活躍するヒーローや、ふたりが想い合うことを全肯定するラブコメや、世間を妬み自己を卑下するルサンチマンの物語があまり好きではなく、加害者性と被害者性のはざまで懊悩したり、相手と結ばれてしまうことへの恐れ・躊躇が根底にあったりする物語が好みになったのは、多分に重松清の影響だろう。それが、現在でも深夜アニメや漫画やギャルゲといったオタクコンテンツの好みにまで深く広く根を下ろしている。

「子供をつくって親になること」を、人が生きていくなかで当たり前に経験すべき通過儀礼のように描く筆致にはほとほと嫌気がさすが、そうした保守的な面も含めて、自分のいちばん深いところに確かに根付いているのだと認識した。こうした十字架をも背負って死ぬまで生きていくしかない。

また、そうした好みや保守主義だけでなく、文体そのものも非常に影響を受けていると思った。重松清は村上春樹のように特徴的な文体ではなく、むしろ非常にシンプルかつスタンダードでわかりやすい文章を書く作家だが、両義性・わからなさをそのまま提示したり、一度言ったことを「むしろ」「いや」「それとも」といった接続詞で繋いで言い淀み、予防線を貼ったり、もう一歩深く考え直す──といった特徴があるとわたしは認識しており、それがこうして自分の書く文章にも影響していると思われる。

当時のような衝撃はないが、幻滅するようなことはなく、むしろ今だからわかる面白さと、数多くの難点とを、ともに感じ入りながら読むことができた。またいつか再読します。あとストックホルムの『森の墓地』という行きたい場所ができてしまった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?