見出し画像

心理学フリーゲーム『親愛なる孤独と苦悩へ』感想メモ


心理カウンセリングを題材にした無料ノベルゲーム『親愛なる孤独と苦悩へ』をプレイしたので、その感想メモを投稿します。

こちらのサイトから無料でダウンロードできます。

なお、Adobe AIR の最新版もインストールしておかないと途中で進めなくなるっぽいので、以下のサイトからあらかじめ落としておきましょう。



環境的にうまく動作しないひと、またPCを持っていないひとも大丈夫です。公式でYouTubeにプレイ動画がアップロードされています。


わたしは23時間かけてプレイしました。といっても、数万字のメモを取りながらだったり、寝落ちしながらだったりで23時間なので、普通にプレイすればだいたい15時間前後でクリアできると思います。

わたしがこのゲームに興味を持ったのは、某サイトでの評価がとても高かったからです。中央値90点というのは、同人ゲームとしては歴代1位タイの評価ですし、商業ノベルゲームとあわせてもトップ20に入るくらいの高得点です。素晴らしき日々、CROSS†CHANNEL、Ever17、シュタゲ、村正、Fate、家族計画、サクラノ詩………らへんとだいたい同じくらい、といえば凄さが伝わるでしょうか。


スクリーンショット (7719)

内容は、先に述べた通り「心理カウンセリング」を扱ったものです。全4章に分かれていて、それぞれ異なる主人公が、それぞれの苦悩を心理カウンセリングによって解決していく……というのが大まかなストーリーとなります。


・・・いかにも「オススメだから紹介します」調で note を始めてしまいましたが、ここで正直に申し上げると、私の本作への評価は決して高くありません。良かったところ、好きなところももちろんあるのですが、以下の感想メモでは、「なぜ自分はこの作品が苦手か」について、かなりの分量をさいて書き連ねています。

したがって、本作のファンの方や、これからプレイしようとワクワクしている人はあまり読まないほうがいいかもしれません。あらかじめご了承ください。

(上でわざわざ下品なほど「世間ではめちゃくちゃ評価されてるんですよ」と紹介したのはそのためです。実際、評判は良いのでわたしのようなひねくれた人間でなければ感動できると思います。ぜひやってみてください。)


本作に登場するような個人の心理カウンセリングではありませんが、私自身も、似たような施設には相談をしにいった経験があり、だからこそ、こうしたセンシティブな題材に敏感になってしまい、素直にこの作品の良さを受け取れなかった節はあるかもしれません。



以下の「プレイ中の感想メモ」は、そういう(精神的に問題を抱えた)人間によるものである、ということに留意して読んでいただけると幸いです。

あくまで自分用の感想メモなので非常に読みにくいと思います

なお、ネタバレには一切配慮せずに書きまくっていますが、プレイ中の時系列で書いたものがそのまま並んでいるため、例えば1章の感想部分ではそれ以降のネタバレ要素はありません。(まだ読んでいない時に書いているので)

また、他のノベルゲームやその他メディア作品(漫画や小説など)を多く引き合いに出しているため、本作品以外での思わぬネタバレもあるかもしれません。ごめんなさい。(そんなに核心的なものはないと思うけど保証はできません)



それではどうぞ!!! ※2万字以上あります


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー







・1章の途中まで読んだ感想(「観念」という単語が出てきた辺りまで)


自分がいちばん苦手な類の作品かもしれない。わたしは今のところ本作を「物語」だと認められない。

わたしが物語に(無意識にでも)期待する条件は「現実逃避させてくれること」なのかもしれない、と本作をやっていて強く思う。
つまり、本作はぜんぜん現実逃避させてくれないから、いちばん嫌いなタイプの物語だ、ということである。

わたしにとってこの作品は、(ちょうど1章の教育実習生の主人公が授業で扱っていた)道徳の教科書にのっているお仕着せのお話のように思えて仕方ない。
なにか明確に伝えたいこと、読者にある知識やイデオロギーを信じ込ませたい、という動機のもとに、形骸的な物語が用意されているような。

心理カウンセラーの「まこちゃん」は、ふつうに巷の大衆向けの心理学・ケア関連の本なんかに載っていることをほぼそのまま話しているだけで、主人公はそれにいちいち「そんなこと考えたこともなかったです……!」と素直に感動しているが、茶番にしか思えない。
この主人公の造形は、それこそ道徳の教科書や、そこら辺の薄っぺらい対話形式の自己啓発本に出てくる「キャラクター」にしか思えない。

そう、本作はどこまでも「自己啓発的」なのだ。「現実逃避させてくれないからイヤ」と言ったが、「自己啓発的だからイヤ」のほうが適切かもしれない。
わたしにとって物語(文学)とは「自己啓発の対極にあるもの」である。

"読み手に「〇〇」と思ってほしい、「〜〜」を知ってほしい、読み手にこのように変化してほしい。"
──こうした、明確な "目的" 意識がいちばんの根底にあって、その目的を達成するために、付随的にストーリーやキャラクターが作られていく……このようにして作られた物語は、物語のなかでもいちばん程度の低いものだと思っている。

たしかに本作で語られる心理ケアの知識は役に立つかもしれない。それによってプレイヤーの日常生活が、人生がとても良い方向へと変わるかもしれない。
だが、それがなんだというのだ?
わたしは別に、人生を良くしたいからゲームを、物語を、フィクションを消費しているわけではない。
いや、もちろん、やりたいから・面白そうだからやっている……というのも換言すれば「人生を良くしたいから」と表現もできるかもしれないが、少なくとも、「自己啓発的な意味でポジティブになる」ことを、フィクション受容において求めてはいない。
自己啓発がしたいなら、自己啓発本を読めばいい。

わたしにとって最高のフィクション、最高の物語とは、第一には「読んでいる最中は『それを読んでいる"わたし"』を完全に忘れてしまうほど作品世界に没入させてくれる作品」である。
(※もちろん、この他にも色んな面はあるだろうが、とても大事な条件の1つであることは確実だと思う)
だから、有名なノベルゲームでいえば某作とか某作のような、いわゆる第四の壁を破ることを核心のギミックとするメタフィクション系の作品がいちばん嫌いである気がする。(自分でちゃんとはプレイしていないので断言はできない)

この『親愛なる孤独と苦悩へ』は(とりあえず現段階では)こうしたメタフィクション作品ではないが、「これをプレイしているわたし」へと、プレイの最中にものすごく意識を向けさせるような作りになっている点で、非常に近い。
言ってしまえば、本作の登場人物や物語はすべて「ダミー」であり、作品の真の目的は画面の向こうのあなた=プレイしているわたしの物語(=実人生)をより良くすることにあるのだと思う。
つまり、本作が前提とする価値観は「フィクション<現実」であり、「キャラクター<プレイヤー」であり「物語<実人生」である。
わたしはこうした「フィクションは現実に奉仕するものである(現実的に役立ってこそ価値がある)」という価値観がものすごく嫌いだ。
この価値観に基づくフィクションは、フィクションを軽視している、甘く見ている、馬鹿にしている、侮辱している……と思う。
フィクションを根本的に誤解していると思う。仮にもフィクションを作る者なら、それのもつ力を最低限は信じてやれよ、と思う。
フィクションのもつ力、自律性をちっとも信じていない者が作ったフィクションが、どうして面白くなるだろうか。

もちろん、「現実的に役立つ」ことと、「物語として面白い」ことは、二者択一の関係にはない。
現実的に役に立ち、かつ、物語として単純にものすごく面白いフィクションは数多く存在するだろう。(むしろ、それが「古典」といわれる歴史の風化に堪えうる名作群なのかもしれない)

しかし、少なくとも『親愛なる孤独と苦悩へ』はそうではない。と現段階でのわたしは考える。
いったん、作中で語られる内容を実生活に活かす、といった「わたし(プレイヤー)」のことは一切棚上げしよう。忘れよう。
作品の外=プレイヤーのいる現実世界はまったく存在しないことにして、純粋に、この物語が、そのなかで閉じた存在として、面白いかどうかを考えてみよう。
すると、上述の通り、本作の物語じたいは何も面白くない。と、わたしは思う。

第1章の主人公の造形や設定はほんとうに「形骸的」としか言いようがない。
テンプレのような毒親設定に、テンプレのような「もういない優秀だった姉」という設定。こうした背景を持つキャラクターはありふれすぎているが、本作のそれは、なかでもダントツで中身がない。物語を進めるのに都合がいいように設定が組まれたハリボテの人間。
言い換えれば、心理カウンセリングを効果的・魅力的に見せるのに都合がいいように作られたキャラクター。
あらゆる物語のあらゆるキャラクターは少なからず物語の都合上で存在するものだが、だからこそ、いかに「物語の都合上で作られた感」を隠すかが大事になっている。あらゆる創作者は、そこに心血を注いでいる。
本作のキャラクターは「作られている感」がまったく隠されていない。隠せていない。
それも、わざと形骸的なキャラクター性を持たせることで物語上うまく作用するのだったらいいのだが、本作でもっとも大事な「臨床心理の知識をプレイヤーにわかりやすく伝える」という目的においても、このキャラクターが脚を引っ張ってしまっている。
なぜなら、彼女は心理カウンセリングに対してあまりに前向きで肯定的すぎるからだ。
「心理カウンセリングってすげーーーー!!!」を物語でやりたいがために、「心理カウンセリングってすごいんですね!ちょっと楽になりました!」と素直に影響される、カウンセラーにとって扱いやすく都合のいい ""客""、都合のいい優等生キャラに設定されている。
これでは、いくら彼女が心理カウンセリングによって救われていても、それは(救われるように設定された)彼女だから役に立っているのであって、何も心理カウンセリングのすごさが伝わってこない。
おそらく本作の態度は「主人公がどうとかじゃなくて、とにかくお前=プレイヤー自身が作中の知識を実生活で実践してみろ。そうすれば威力がわかる」ということなのだろうが、何度も言うように、これでは物語としての価値を自ら放棄しているのと同じだ。

それに、主人公の毒親や姉の設定もひどい。単にテンプレだからひどいという以上に、心理ケアの効用を喧伝する、という本作の目的にとって致命的に不適切だ。
まだ1章を読み終えていないが、今後の展開は誰でも簡単に予想できる。おそらく、主人公の憂鬱の根本的な原因は幼少期の家庭環境にある、ということになるのだろう。
──父親が優秀な姉ばかりに構い、出来損ないの自分は構ってもらえなかった。そして、優秀な姉は父との関係がこじれて「いなくなって」しまい、そのトラウマ・影響で中学2年から必死に勉強して上都大学に入るまでになった……おおかた、そんなところだろう。
ここで問題なのは、主人公の苦悩の原因があまりに明確に「これだ!」と特定できるものでありすぎている、という点だ。
心理カウンセリングでは、「なぜ苦悩するのか」という原因をさかのぼって丹念に紐解いていくことで、最終的には「自分が特に理由もなく勝手に設定していたルール=観念のせいだったんだ」と気づくことで苦悩を解消できるのだと説く。
つまり、苦悩の原因が特定しやすいほど、苦悩は簡単に解消される。
だから、主人公の苦悩の原因が特定しやすいということは、作中で心理ケアが相対している事例が非常に簡単なものであることを意味する。
都合がいいのだ。スライムを倒して喜んでいるようなものである。
しかし、現実には──本作が本当に相手にしようとしている現実には──こうした「都合のいい」背景をもつ人間ばかりではない。
毒親とか喪われた姉妹だとか、そういうわかりやすい環境要因がある人間しか心理ケアによって救われないのか??ということになってしまう。
これでは、現実に苦しんでいる人々をさらに苦しめることにも繋がりかねない。「あぁ、わたしにはこの主人公のようなわかりやすい苦悩の原因がない。だから彼女のように楽になることはできないんだ」と。

もちろん、これはまだ第1章だから簡単なケース・肩慣らしであって、これからより困難な相談者が現れるのかもしれないが、少なくとも現段階では、心理ケアの威力がものすごく発揮できるような設定のキャラクター=事例を引き合いに出して心理ケアってすごいでしょ!!!と自慢している愚かなマッチポンプ・正真正銘の茶番としか受け取れない。

別の問題もある。
作中では心理ケアの要点として「苦悩の原因を他人や外部に求めるのではなく、自分の心がけ次第で幸せになれるのだと信じる」ことが重要だと説いている。
これ自体が、新自由主義に脳幹まで侵された典型的な自己責任論者の末路という感じで、昨今のリベラルな風潮からすれば完全にアウトなのだが、そうした政治的側面に目を瞑ったとしても問題がある。
「感情は自分の心がけ次第。苦悩の原因を外部のせいにするな」と言っているのにも関わらず、主人公には、毒親や優秀な姉といったわかりやすい「外部の原因」を用意している。これが矛盾でなくてなんだろうか。
正しいと主張する心理ケアの知見を作品のなかで否定しているのだ。マッチポンプとしても成功していないのである。
──いや、実は本作の真の〈メッセージ〉は「心理ケアなんて嘘っぱちだから信じるな」なのだろうか?? それならば、わたしはここまで書いてきた文章をすべて取り下げて考え直さなくてはならない。


・1章の続き

お姉さんの過去はだいたい予想通り。死んではいなかったのね
にしても長女に出ていかれて全く反省せず次女に同じことを繰り返す父親ヤバすぎ

「〇〇してもよい」というワーク、なんか既視感があったけど、ぺこぱじゃん。
「い〜〜や〇〇しても良い」

幸せにならなくてもいい
苦悩を抱えたままでいい
法律を守らなくてもいい
人を殺してもいい
死にたくてもいい
死んでもいい
心理ケアを信じなくてもいい
この作品を酷評してもいい

「生きていかなくてはいけない」という観念をそもそも持っていないからなぁ……

そういや、「ネガティブな感情は自覚して感じきると長続きしないが、ポジティブな感情は自覚しても持続時間が短くなることはない」というのを「人間はそういうものだから。ポジティブなのが自然の状態」だと言っていたけれど、この辺もちゃんとエビデンスあるのだろうか。

「ネガティブな感情を抱くのは、何らかの観念を持っているから」と言うが、ポジティブな感情もまた、観念に基づくものではないのか?
例えば「結婚出来て嬉しい」というのも「結婚しなければならない」という観念によるものだったり、「高級車を買えて嬉しい」のも「高級車を持っている人はスゴい」という観念によるものだったり。

ネガティブな感情=『親愛なる孤独と苦悩へ』が苦手だ!
→『親愛なる孤独と苦悩へ』が好きになれなくてもいい!
「このゲームはとても評価が高いから、自分もこの作品をやって絶賛しなければならない」という観念を捨てよう!!!

「観念の原動力は常に "恐怖" です」
なるほど。
にしても、観念による本音の抑圧というが、じゃあ全ての人は必ず本音を持っているのだろうか?
そこの前提があまりにナイーブ過ぎないか。観念を一つ一つ除去していったら、自分には何もありませんでした、ということにもなりそう。
別にそれでいい……というか、それがいちばん自然な状態だとも思うけれど。
「本音」もある意味で「観念」と同じようなものじゃないだろうか。
挙げられていた例でいえば「ダンサーになりたい」というのも「ダンサーにならなくてはいけない」という観念。「ダンサーになれない自分は嫌だ」という恐怖からのもの。
つまり、自分を苦しめるルールを「観念」と呼び、今のところ苦しめてはいないルールを「本音」と便宜的に呼び分けている、というだけでは?
その本音も、恐怖心を原動力にした観念の一形態じゃないの?とは思う。
そして、観念は自分を縛るもの、苦しめるものだと言うけれど、むしろ、観念の集積そのものが「自分」なのでは??
「こういう夢・願い・趣味・趣向を持っているのが"自分"だよね」という自己規定。それが揺らいでしまうのをアイデンティティ危機として何よりも恐れている。
それがあらゆる人間の在り方ではないだろうか。
すなわち、ここで「自分を苦しめる観念を自覚して、そこから解放されていきましょう」と薦めているけれど、これを突き詰めると、そもそも自分というものが何もなくなるのでは。自己からの解放。なんか仏教めいているが、近代的自我からの解放といってもいいかもしれない。

そして、わたしは「"自分"は存在しない」あるいは「"自分"が存在しなくてもいい」と思っている節があるので、ここで言われているようなことは当たり前のことだと思ってしまうのかなぁ。すごく親和的ではあるんだよな。自分にとって都合がいい。

※ただ「自分は無我論者でなければならない」という形で、「『自分の存在を信じていない自分』を強く信じている」という、自己矛盾的なところに陥っている節もまたある。つまりは、「〇〇だと思う」と主張した時点で、それは「〇〇だと思うのが自分だ(=〇〇だと思わなければいけない)」という自己規定になってしまうため、避けるのはきわめて難しい。
これを緩和する1つの方法は、「"今の自分は" 〇〇だと思う」という形で、「自分」の現在性を強く認識し、時間的な同一性をなるべく信じないことかな。
1秒後にはまったく別のことを言っていても、それは別の自分、別人なんだから何も問題はない、と。
ただ、これもやっぱり自己矛盾していて、「自己の時間的同一性を信じないのが自分だ」という自己規定になっていやしないか、とは思う。
あ〜〜〜〜〜抜け出せねえ〜〜〜〜 自己という牢獄 フーコー的な意味で?


親による子供への教育・育児・接触は、なにも毒親に限らず、すべてがある種の暴力行為だと思うけれど、それだけでなく、この心理カウンセリングもまた暴力行為であることは同じだよな。
特に、その人の人生に関わることに対して、原理的には責任を負えない第三者があれこれ口出ししているのだから。
だからカウンセリングはダメ!ってことじゃなくて、こうした原理的な暴力性への自覚がいっさいないままに話が進んでいったらやだな〜〜ということ。


「本当は相手に言いたいのに言えないことが大きければ大きいほど、多ければ多いほど、その相手を嫌いになるように人間はできている」
なるほど。これはそうだな〜。
「あなたのこういうところが苦手・嫌いです」というのを言える関係は貴重だよなぁ
それに、仮に正直に相手への文句を伝えたことで関係が悪化したり断絶したりしたとしても、それで相手を嫌いになることは少ない気がする。
むしろ言えて良かった、それによって自分はますます相手のことが好きになった、ということはある。


ビックリした〜〜〜
演出がホラーっぽいというか、ホラーなんだよな
思えば冒頭の実写オープニング映像からして地雷臭がすごかった
押し付けがましい。もうひとりの自分("本当の自分", 本音)との対話とか、あ〜ハイハイって感じ

常に画面の左端に主人公の立ち絵が表示される画面構成は、右端に「本音」の立ち絵を置いて対話させるためか……
ふつうのノベルゲームが一人称主観で、画面の「奥/手前」というz軸の方向意識なのにたいして、この作品は「左/右」というx軸方向の意識
これは、対話そのものをストーリー上で重要視しているのと、プレイヤーにも考えてほしいからこその構成だろうなぁ。
ある意味で舞台演劇・戯曲っぽいとは言えるのかな。上手(かみて)と下手(しもて)。第4の壁


・・・こんなに酷い父親で、こんなに酷いお涙頂戴プロットなのに、それでも感動して泣けてしまうところに、
親子愛や、家父長制というイデオロギーの強固さ、恐ろしさを感じる。こりゃあ出生礼賛主義が蔓延りますわ!!!


突然のスカイプ映像不調、不穏すぎるだろ・・・
名古屋で直接会うのも無理。こっわ・・・実は地下かどこかに閉じ込められてたりすんの?
無料でカウンセリングしてるのも、一人暮らしではなく、誰かの保護下にあると考えれば納得はいく
2024年!? 近未来の話だったのか……
AIRみたいな空を飛ぶポエムだが、こっちはガチのスピリチュアル布教みがあるので恐さが段違い

1章おわり!
……まぁ、うん。はい。だいたいわかりました。
お姉さんとは再会してほしいですね。いや、向こうはもうわりきって別の人生を歩んでるのかもしれんけど。
父親も母親も、あれで許されるとは思うなよ。
でもヒサキちゃんも真面目すぎてちょっと好きにはなれん……予定調和で安直すぎるシナリオに相応しい主人公でした。



・2章の終盤(小説をやめようとしている妹との話し合いに向かうところ)まで

悩みの「真の原因」として、幼い頃からの家族環境に関わるものが用意されているシナリオ自体は1章とまったく変わらないんだけれど、キャラクターが好みなのか、こっちの話のほうがよっぽど楽しんで読める。
キムを筆頭に大学の男友達連中も良い奴らだし(主人公がボケの漫才みたいなやり取り好き)、何より妹の唯菜が良いキャラクター。
兄妹モノに弱いのかもしれん。6歳差かぁ……
兄はもう成人してるのにめちゃくちゃ仲が良い。格ゲーで兄が活躍するのを誰よりも喜んでくれる妹なんて最高じゃないか。
唯菜ははじめ弟かと思っていたほどにジェンダーレスっぽいキャラデザなのも良い。

スタジオ・おま〜じゅの『雪子の国』の主人公:ハルタと非常に近い設定だなぁと思った。
妹が生まれると聞かされて、"兄"として立派に振る舞おうと意気込むが失敗して、自身の根幹に深いトラウマ(「観念」?)を形成してしまったキャラの系譜。
ありがちな設定だろうけれど、こうして比べてみると、いかに『雪子の国』は「説明しすぎないこと」を徹底しているかがわかる。自分はそちらのほうがずっと好みだ。説明しすぎるのは下品というか、自分が馬鹿にされているようにも感じてしまう節がある。
『雪子の国』は本当にそのへんの描写をなるべく省いているので、正直言って、初見プレイの時点では置いてけぼりをくらった感はあった。唐突さを感じ、困惑していた。今このように引き合いに出してこれているのも、作者のブログで詳細な設定の背景を読んだから、というのが大きく、結局説明を受けてるじゃん!といえばその通りで反論のしようがない。作品外で補足するのだって、よりいっそう下品かもしれない。


本作に物語を求めるのは、抜きゲーに物語を求めるようなもの?
抜きゲーならぬ「息抜きゲー」としてプレイするべきか?
今の自分は、抜きたくないのに抜きゲーをプレイして酷評している状態、あるいは趣向が合わない抜きゲーを自分からプレイして「抜けない!」と叫んでいる状態のようなものではないか?

クロタニとの決勝戦のめっちゃ良いところでフリーズして草

格ゲーを漫画のオノマトペのように表現する演出は面白いなぁ
イラスト素材が豊富でない同人環境のなかで上手くやりくりしている感が良い

批評空間の長文感想に載っていたAdobe AIR最新版をインストールしたら上手く動いた!ありがとうございます


2章おわり!
いや〜〜最終戦の連続ガード演出は気合はいってたなぁ
やっぱり典型的な「良い話」に過ぎないんだけど、1章よりは物語に入り込めた。
妹や兄の進路はぼかしたまま終わってしまってやや無責任というか逃げたと感じないこともない。

名古屋で生対面は断固拒否するまこちゃん。
なんだ……?某映画のように実は住んでいる世界線が数年間ズレてたりするのか?まさかのSF展開説
でも章ごとの「2024年」「2025年」「2029年」という年代サブタイトルも意味深だしなぁ
まぁ最終章は年代をさかのぼってまこちゃん自身の過去話になるんだろうけど。
未来人だから収入体系も違って無料でいい?スカイプの通信がたまに不具合を起こすのも、別の時空から繋いでいたから?
あと、章の合間やプロローグでのkeyみたいな空を飛んでいる私のポエムも、そういうSF・ファンタジックな世界設定への伏線だったりするのか?



・3章


ルックバックか!?

この海って子は既にまこちゃんカウンセリングを受けて長い状態から始まるのね。なるほど。冗長さの回避。飽きさせない工夫
すでに観念の自覚や「〜〜でもいい!」という思考法を飲み込んで日常的に応用している
それから、開始時点で幼少期からの経歴、今の彼を作り上げてきた歴史がほとんど語られている。終盤で明かされるような隠された真実はあまり無さそう
これは期待できるかも

「殴られてもいい」と自分を変えるだけでなく、相手に変わってもらうことも時には重要。これはまさに1章で疑念を抱いていたことそのものだ。
明らかにこれまでの章を俯瞰したうえで、批判的なことをやろうとしている。スピリチュアル宇宙の意思を茶化すようなくだりも然り。
まこちゃんも世界一周するし。

ただし「とことんまで話し合いをすれば好転する」という姿勢もそれはそれで、「話し合い」とか「質問」のもつ暴力性・抑圧性に無自覚すぎないか、とも思う。
現実では、いくらでも相手に質問して良いとか、前向きに話し合いをしてくれる相手・場合ばかりではない。幾つも質問されたらイラッときたり、不信感を覚えたり、ますますその人のことが苦手になることもあるだろう。
そもそも「とことんまで話し合える」のなら初めから問題はなくて、現実的には、話し合いに応じてくれない相手にどう対処するのか、という要素が大きいような気がする。

えっ!?
2人以外には聞こえない着信音とか、意識を集中させると通話が繋がる携帯とかどういうこと!?
2029年にはそういうテレパシー技術が確立された設定なのか、それとも実は2人は同一人物とかそういうアクロバティックなやつ!?

普通に技術があるらしい。PCとタブレット端末間でのデータ転送も念じるだけでできる時代・・・

「まこちゃんと一番長い付き合い僕が一番最後の相談者って、なんか面白くないですか?!」と堂々と言えてしまう海くん良いな
少しも遠慮せずに最後の枠に予約を入れてこう伝えられることに、彼のまこちゃんへの想いと信頼と、彼自身の性格の裏表の無さが滲む

ルックバックもそうだけど、ヒロアカのデクと爆豪みたいな感じでもあるなこの2人

"俺が誰よりも上手いと思うお前の言葉は強かった。"

"……まぁ、俺の塗った色が正しく見えてる訳じゃないんだけど……。"

これは非常に強い関係性ですね……

あー……はいはい……なるほどー……そういうことね……
これは関係性モノとしてはテッパンの展開ではあるが、良いですね……
気が強くて相手を引っ張っていると思っていたほうが実は自信や才能が無くて相手に負い目を感じてしまっていた(足を引っ張っていた)パターン……
それに気付いて相手から離れようとするパターン……
これは実質リズと青い鳥でもありますねぇ!!!
「自分が天才だと気付いておらず、むしろ周りの人間を天才だと崇拝している(ことで無自覚に他人を傷つけまくっている)天才児」キャラ、めちゃくちゃありがち

ああ。。。まじか……そういうことだったんか……それはキツいな〜〜
というか海君は気付きもしなかったのか。あぁ色盲だからしょうがないのか。いやでも流石に……

あ、それは最初の準入選のほうだったのか!!
ああ〜〜ーー……さらにキツい・・・

「みぞれのオーボエが好き」じゃん・・・

にしても、やっぱりこの話も「隠された大きな秘密」があって、それを後半でドラマチックに明かす構成になっているわけだけれど、これまでの章とは異なるのは、やはり主人公が2人いる、という点。
1, 2章では、主人公1人がカウンセリングに相談して、その秘密に気付いたことで悩みが解決へと向かうという筋書きだったが、本章では、話のドラマ性と、心理カウンセリングで扱っている苦悩の解決が直結はしていない。もちろん、このあと海君が真相を知ってクライマックスがあって大団円へと向かうのだろうけれど、尋君はそもそもカウンセリングを受けていないし、ここではプレイヤーに秘密が明かされただけだ。というか尋君からしてみればずっと思っていたことであって、そもそも隠されてなどいない。プレイヤーと海君に隠されていただけで、これまでのように、その主人公個人の内面に抑圧されていた無意識の秘密などではない。

すなわち、これまでの章では主人公の心理カウンセリングの進展とプレイヤーのゲーム体験がほぼシンクロしていたが、本章はそこが乖離している。
これを、海君がまこちゃんから"卒業"するように、プレイヤーも主人公の追体験からは卒業する──という解釈でいくのか、それとも、作中カウンセリングで語られていた、「自分ひとりの考え方の問題」から「相手とのコミュニケーション/関係性の問題」へとステージが移行していることのメタな反映ととるのか……

上で言った「無自覚な天才キャラ」って、不登校の引きこもりだったり極度のコミュ障だったりと社会性に問題がある造形をされることが多くて、海君も中学時代に引きこもり経験があるからバッチリそれに当てはまっているのだけれど、まこちゃんに長年相談している影響で、現在の海君はめちゃくちゃ前向きというか、心理ケア知識を引っさげて合理的な問題解決に向かうことができていて、それが「天才キャラ」のステロタイプからすると似合わなくて面白いな〜〜と思った。
というか、だからこそ尋君が絵を辞める真の理由に気づきにくくなっているのだけれど。
典型的な天才キャラ像への批評というか、典型から出発して、心理学を通じて真人間というか、似つかわしくないキャラクターへと成長した後の姿を描いていることが斬新で意義のある取り組みかもしれないなぁと思った。

みぞれや京本が心理ケアの知識を習得したらどうなるんだろうな……キャラぶち壊しだと言われそうだけど、逆に言えば、それだけ「天才キャラ像」は凝り固まっていて、大衆が天才(キャラ)を求める需要の在り方がどれだけいびつか、というのが浮き彫りになるところでもある。

いやほんと海君がめちゃくちゃ理知的に二人の間の問題を分析してテキパキと対処するのおもろい
普通だったら「でも僕は尋ちゃんの絵が好きなんだ。一緒に絵を描くのがいちばん楽しくて大切なんだ」という相手への想い一辺倒エモ100%で乗り切るであろうところに心理ケアという外部の異物が顔を出してきて、エモではなくロジックで強引に話を大団円へと導くの斬新でおもろい
この感じだと「心理学マンセー」だとか揶揄する気は一切起きなくて、単純にフィクションではあんまり見たことのない、むしろありふれたフィクションへの批評として機能しているように思えるから素直に評価したい。意図せぬ化学反応というか。

「下手でもいいから、僕の為に描いてよ」とかめちゃくちゃ残酷な言葉ではある
そういう天才ゆえの暴力性・傲慢さと、心理ケアのド正論が同時に出てくるのがチグハグ過ぎておもろい

まさかのここで選択肢!?!?
というか「今の顔おかしくなかった?」を見逃したんですけど

まさかの間違ってる選択肢無限ループ

カウンセリングの質問攻めからシームレスにまこちゃんの謎解決の質問攻めパートに移ってて草
まぁ心理カウンセリングもこの作品においてはミステリーみたいなとこあるからな

ウミガメのスープみたいw

実はまこちゃんバ美肉VTuberで、中の人はあのNPOマイゴールのキャリアカウンセラーの人だとか?

真面目に、心理ケアとか宇宙の意思スピリチュアルとかが、人間の精神生活・人生に「理由」を見出していく行為であって、それは現実に解決可能な「事件」とか、盛り上がる面白いドラマを見出すフィクション化の作用と非常に似ている。

マジで尋君との話はもう終わってまこちゃん救出編に入っとる

なんで旅に出るのってゲーム内だとしてもこんなにワクワクするんだろうな〜〜
それに海君は元引きこもりで東京からもほぼ出たことないっぽい(新幹線の切符の買い方を知らない)から、まこちゃんとのカウンセリングでどれだけ成長できたかが同時に伝わってくるのも上手い

!!
しゃろうさんのBGMだ!!!
やっぱり同人ゲームとかにも使われるんだな〜〜

名古屋の名鉄:大道駅が聖地ですか

5月下旬

こっちもめっちゃ緊張してきた・・・!

やっぱりいいいいいいいいいいい!!!
ホラー。。。というかKey作品にありがちなやつ・・・というか、本当に君の名は。じゃねえか!!!

ここで1章のいなくなったことにしている姉の件を回収してくるの草

やっぱりあいつがラスボスか!?

いちおうまだ非リアリズムに足を踏み入れたと確定はしていないのね
ずっとリアリズムで心理ケアなんて生々しい現実的なテーマを扱ってきて、キャラの画風も実写背景もそのリアリズム性に貢献していたから、展開的にはよくあるやつでも、実際に海君じしんが感じた衝撃がかなりこちらにも伝わってきて、「まぁエロゲ(フィクション)ならよくある展開だよね〜」とは軽く言えないんだよな。

まこちゃんとのメールをお兄さんに見せてはどうだろうか
なんかこの感じ、あの花のめんまを思い出すなぁ

探偵役の海君が、推理パートでもまこちゃん直伝の心理ケア方法を自然に使ってておもろい
海君いいキャラしてんな〜 さっきまで無自覚な天才キャラとして屹立していたとは到底思えない
ここにきて、ずっと説明してきた心理ケア知識が、物語外部のプレイヤーの実人生に役に立つものというよりも、物語内部でこの物語をより面白くするためのスパイスとして効いてきていてすごく良い

スピリチュアルとか言ってて、実際に作中で非現実的な事態が起こると全登場人物がしごく現実的にそれをなんとか理解しようとするのも良い

"正しい" と思っていた自分が正しくなかったかも、ってなった瞬間に、自分が "ない" と感じられて何も無くなるの、わかるわ〜〜

24:48
え、2人も見えるの!?
ここで最終章突入!?!?


・最終章

家庭環境がヤバすぎる。1章のやつを更に酷くした感じ
仲の良い兄妹ってのは2章の反復でもあるのか

これだけ周りの環境が酷ければそりゃあ社会不適合者にもなるわなぁというか、大抵の心理的な苦悩の真の原因は小さい頃の育成環境にある、と主張したくもなる、というか、そう主張するためのある意味で下品な筋書きだなぁという気もする。
比較すると、『CARNIVAL』において、理沙が最初に自己を偽ったきっかけとして、あからさまな親からの抑圧や虐待ではなく、"畳の目" という至極ありふれた物事を設定したのはなかなか上手いというか上品かもしれないと思った。
もちろん、現実にこんな酷いのがあり得ないなんて言うわけではなく、もっと酷い境遇だってごろごろいることは分かっているが、あまりにも物語のために作られすぎている感がキツい。自殺とはそもそも、あらゆる人の人生を否応なしに物語化し、周囲の人にその "原因" を追求させずにはいられなくする作用がある、といえばそうなのだろうけれど。

真琴視点の4章になった途端にあまり入り込めず、3章終盤のお兄さんや市郷さん視点のパートにめちゃくちゃ泣いてしまったのを鑑みるに、やっぱり自分は被害者の物語より加害者の物語のほうが好み……というか、共感できるのだろうと思う。
ただただ可哀想な被害者の物語を見せられても「あぁはい、可哀想ですね……人生って、現実って、本当に残酷だ……出生はするべきではない……」と思うだけで、キャラクターを可哀想に演出するためにライターさん頑張ってるな〜というメタ視点を抱いてしまい、可哀想になればなるほど冷める。なんというか、「可哀想なキャラクター」に自分が感情移入/共感して感動するなどして消費してしまっていいのか、と躊躇する気持ちがあるのだと思う。感動ポルノやレイプ・ファンタジー消費への恐怖といえばいいのだろうか。

その点、「自分はなんて酷いやつなんだ。一生許されないことをした」と苦悩し後悔し自責するキャラクターには、さほど躊躇せずに感情移入できる。そういう加害者(だと自認する)キャラクターに共感して消費する行為は、それ自体が「申し訳無さ」を含んでいるために、逆説的に、一切やましい気持ちなく感動できる。彼らを見て泣けば泣くほど、自分が許されているような気がするからなのだろうか。
もちろん、「加害者キャラに感動する行為には感動ポルノ的な下品さが一切存在しない」というのは紛うことなき "幻想" である。消費行為の欺瞞を自覚していますよとアピールできる論理を内部に組み込んでいるぶん、被害者キャラ消費よりも余計にたちが悪いかもしれない。
ただ、現在の自分は、その内部の論理に、たちの悪さに安住してしまっている、ということは確かだ。

そして、こうした傾向は最近のものではなく、それこそ小さい頃から既に萌芽があったと思う。小6の頃に重松清『十字架』という、いじめで自殺した子の "友人" を主人公にしたひたすらに陰鬱な物語を読んでいたく感動していた記憶がある。
フィクションにおける自殺表象にはまた独特の難しさがある。すでに死んだキャラ、この後死ぬとわかっているキャラの動向を追うことは、いわば「死人に口なし」の原理を破る反則行為ではないのか、という点だ。百ワニがヒットする現代、むしろこの反則行為は物語上の手法としてますます需要が高まっているのかもしれない(すでに両想いであることが読者にはわかった上で楽しむラブコメ──高木さん系や僕ヤバなど──の台頭にも近いものを感じる)。
ただ自分は、むしろ遺された人々、原理的にもう見ることも触れることも交流することも出来ず、それゆえに消費することもできないブラックホールのような "死" の周囲で、うろたえ、後悔し、自責する人々の物語を消費したいと思っている。

完全に適応障害。アニメ青ブタの妹とかどういう感じだったかな

あとは、こういうめちゃくちゃ酷い環境で可哀想なキャラクターにあまり自分が共感できないのは、単純に、自分が彼女らに比べると圧倒的に恵まれているためだろう。恵まれているのにも関わらず社会不適合である自分は、ますます救い難く許されない、どうしようもない存在なんだなぁと思ってしまってひどく落ち込む。
フィクション中の引きこもりとかダメな人間には、大抵の場合、それ相応の「原因」がある。毒親とかいじめとか。でも、そういう表象に触れれば触れるほどに、そんなわかりやすい不幸な原因がまったく存在せず、むしろめちゃくちゃ良い人達に囲まれている自分が申し訳なくなる。そういう恵まれた環境でもこうなってしまう自分は甘え以外の何物でもなく、フィクション中のキャラクターにさえ自分のしょうもなさ、救いようのなさを糾弾されているような気がする。
いろいろ書いてきたが、まぁこれが、可哀想な被害者キャラ表象を自分が好まないいちばん大きな理由だろうなぁ。自分はどこまでも加害者であるという意識が強く、被害者の物語を見せられれば見せられるほどに、自分の加害者性が引き立ち、申し訳なく思えてくる。
本作ではまさに「自分を加害者なんて思わなくてもいいよ」とか「加害者でもいい!」という方向性の救いを描いているのだけれど、そうした救いに説得力を持たせるための物語において、結局こうしたステロタイプな被害者の物語を必要としてしまうという事実が、私に「加害者でもいい!」とは思わせず、むしろよりいっそう自責してしまう。・・・と書くと、この作品がわたしにとって加害者で、わたしは被害者である、という図式に落とし込もうとしており、そうした自分の狡猾さ・浅ましさに気付いて、またやりきれなくなる。ああああああ

これはどこまでも自分に都合の良い、それこそ甘えた考えだけれど、「めっちゃ恵まれた環境で育ち、周りには良い人しかいないのに引きこもったり社会不適合になってしまうキャラクター」とか、「親も素晴らしい人達で、客観的にみて全く不幸なことがないが反出生主義を支持するキャラクター」とかがもっと出てこないかなぁと思う。川上未映子の小説『夏物語』の善百合子も、とてもステロタイプな「不幸なひと」で、それは言い換えれば「こういう人なら反出生主義者であっても今の読者が納得できるひと」ということで、そこは残念だったなぁ。物語自体は傑作だと思うのだけれど。作者の技量不足というよりも、もっと社会スケールの問題だと思う。今の社会の想像力がまだそこまで達していない。その限界を如実に示す例というか。ただ、間違いなく、これからは、自分が望む方向へと次第に進んでいくのだろうとは思う。楽観とかではなく、リベラルな風潮の必然的な帰結として。「親ガチャ」とかがトレンドワードになる社会なら絶対にそうなる。反出生主義と優成思想の峻別、両者の境界についての議論の普及もまた必須だろうけれど。
その点、うめざわしゅんの短編漫画『唯一者たち』に出てくる女性は善百合子の対極にいる見事な(ヤバい)造形だった。「今の自分は本当に恵まれていて毎日が楽しくて仕方ない。でも、自分が生まれなかったらいいのにとは思っている。でも、子供はほしい」という旨を言い放つキャラクター。最高。極まりすぎてて反出生主義者ですらないのが面白い。

冷静になってみると、こういう(非現実的要素はあれど)地に足のついたシナリオとルックのノベルゲームは、商業作品には難しいだろうから貴重だよなぁ
それ自体は普通に自分好みなんだよな。だからこそ、色んな点に敏感になって文句を付けてしまうだけで。
本作は、自分にとって、心地よさと心地悪さが同居している奇妙な体験をもたらしてくれる。


つい、"ちょっとはマシになってるアピール" をしてしまい、嘘を言ったみたいでいたたまれなくなるの、わかる〜〜

映画が苦手と言ってるけど、ここから週1くらいで映画館に通うようになるまでに何があったのだろう。一度死んだら映画嫌いが映画好きになるのか?

あの阿部寛みたいなホームページも、このお兄さんが提案した「簡単ホームページ作成」の影響なのか……?

まこちゃん自分からキャリアカウンセラーに相談できてえらいなぁ

ホームページ作成教本の上に積まれた漫画、そういうすれ違い・・・

ああ、まこちゃんの前のカウンセラーの名前の女性、お兄さんの同僚だったんか

意識で通信操作できる技術はお兄さんの勤める会社のもの


死への道がお膳立てされすぎている。
「こりゃあ確かに死んでも仕方ないわ」と思えすぎてしまう。
こんな、誕生日に唯一信じていた優しい兄からも厳しい言葉を投げかけられるとかいう劇的なイベントが起こらないと死んじゃだめなのか?と思ってしまう。
実際には、もっとふとしたひょうしで、というかそもそも何もきっかけがなくとも、ほんの数分前まで「人生最高!」と心から思っていた人が自ら死を選ぶことも、ありふれているとまでは言わずとも、現実に全然ありえることだと思う。
市郷さんが脳科学の勉強会に関して「橘さんのように学校で辛い経験をされていた人でも参加できていますよ」と言ったことが、まこちゃんにとっては「じゃあそれにすら参加できないわたしは何なの……?」と傷ついたのと全く同じに、「じゃあまこちゃんのように酷い環境でも劇的な要因もないのに "すごく死にたい" と毎日思っているわたしは何なの……?」とダメージを受けてしまう。
死とは、こんなに偶然のすれ違いの重なりにお膳立てされ舗装された道の先にあるものではなく、もっと、常に生と表裏一体で日常に寄り添っているもの、いつそちら側に足を踏み入れても何もおかしくないものだと思っているので、こうした描かれたかは、いくらまこちゃんを可哀想だと思えても、まこちゃんが可哀想に描かれれば描かれるほどに、ちょっとモヤモヤする。

やっぱり、「死」特に「自殺」は、究極にドラマチックなものだなぁと思う。自殺をまったくドラマチックではなく描くのはとても難しい。どうあがいても、読者ともども緊張させ、感情が高ぶり、文字通りのクライマックス感を醸し出してしまう。この世にあるフィクションのうち、もっとも自殺を他愛もなく描いた作品ってなんなのだろうか。『CROSS†CHANNEL』は全体的にも、特に彼まわりのエピソードはそこそこ良い線いってる気もするけど、こうして印象に残ってしまった時点でドラマチック/センセーショナルであるとは言えるのかな。自殺って原理的に"絶頂"=エクスタシーと同じところはあるよなぁ。原理的にというか、原義的に? 生からの解放。
これは「もっとも無名な作家としていちばん有名な作家は誰ですか」という問いと同じような自己矛盾を孕んでいる。

死人の語り……ラテンアメリカ文学のそれのような、生も死も渾然一体になっているリアリズムを描くためならいいんだけど、本作のように、悲劇性を露骨に強調して、その上で「死後」の人間の語りを導入するというのは、やろうとしていることとやっていることがチグハグな気がするんだよな……
死んでも死者として作中に登場できて、死者として身の上を、死の瞬間に至るまでを克明に語ることができるなら、死なんて大したことないんじゃない? 死の特別性って、そういう「死後」とか、死までの道筋の語りなんかをいっさい拒絶する、その厳然たる潔癖さにあるんじゃないの? 死のそうした潔癖さを捨ててしまうのであれば「生も死も大したことではない」というラテンアメリカ文学的な世界観のほうに接近してしまい、本作でやろうとしていることとは真反対の方向に行ってしまうと思うのだけれど。

「終末の微笑」を聞きながら余韻に浸ろうと思ったけど、なんかそういう感じでも無かった

女の子が可哀想に死ぬ悲劇といえば『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』はすごく潔癖で上品で良かったなぁ
あれは当人ではなく友人の一人称で描いていたから良かったのか。ノベルゲームでは、それこそすば日々もそうだけど、被害者の一人称視点でガッツリと一部始終を見せてしまうことがよくある。これはノベルゲームというメディウムの形式的な性質によるものか?でも前述のC✝Cのように、傍観者視点のもたくさんあるだろうし。

その金髪、一念発起の心機一転で染めたとかじゃないんだ・・・

なんか小学生の時によんだ小説『カラフル』を思い出す。全体的に、話の構造というか発想が小学生っぽい
あとは、通り抜ける幽霊が主人公といえばJ. ソーンダーズ『リンカーンとさまよえる霊魂たち』とか。あれは馬鹿馬鹿しさと切実さが同居したフシギな感じだった。さすがソーンダーズ。一人称とも三人称とも言えない変な語りの形式だったし。

スピリチュアルも意識を前向きにするための方便だと思えば効果的とかなんとか言っておいて、本当にオカルトな話を持ち込んでしまうのはどうなんだ?

1章の頃に「自殺してもいいや〜」と半ば冗談で書いたけど、まさか本当にそうなるとは……
でも、もちろんこう思えるのはフィクション内でオカルトが通用するからであって、現実では絶対にこう思うことはできない。死んでいるので。

ひどい言葉をかけられていじめられても、その言葉自体に傷つくのではなく、自分がいじめられている自分を責めているから傷ついている。自分を傷つけられるのは自分だけ。・・・相変わらずこういう主張はめちゃくちゃ反動的で有害だ。それ他人から殴られても言えんの?と思うし、突き詰めたバージョンの「それ他人に殺されても『殺されてもいいや〜』とか言えんの?」という疑問に対してこの物語が提示した答えは「はい、物語内なら一度死んでも幽霊状態で10年は生活できるので、殺されたあとでそれを克服することは十分に可能です」だもんな、まいっちゃうよ。そう明言はしてなくとも、そう言っているのと同じだ。
あーあ、こんなに表面上は生々しくリアル調の作品なのに、結局のところ「フィクションだからなんとかなる」という落とし所では、はじめに言っていたような、現実のプレイヤーの人生を好転させる自己啓発のための作品としても機能しないと思うのですが。
全体的に最終章は1章の反復という趣が強い。まこちゃんがここで初めて心理ケア知識を身に着けはじめて、いちいちその内容に驚いて「そんなこと考えたことなかった……!すごく心が軽くなった。今までのわたしはなんて間違った思い込みのなかにいたのだろう!」と、実に優等生らしく啓蒙されていく様子には白々しさを覚える。しかし、すでに死んでしまった状態で啓発されているというのを、どう捉えればよいのだろうか? 痛烈な皮肉としても捉えられてしまう。

あ、もしかして、あの触れずに操作通信できる技術のおかげでまこちゃんもメールとかスカイプとか出来ている感じか。
人間の脳波はたとえ幽霊状態でも生身の人間と同様に作用できるという発想がまさしくオカルトだ
わざわざSF的ガジェットを持ち出したのも、近未来設定にしたのも、幽霊との通信というオカルト的なプロットのためだったのね。あーはいはい。腑に落ちた。腑に落ちすぎてつまらない

というか、世界と自分に絶望して死を選んだひとが「あと10年間、幽霊状態のままで生きてください」と言われたら発狂しないんかな。最悪だと思うんだけど。死んでも死にきれない(物理)
死だけが救いだと思っていたのに、死なせてもらえないなんて……
まぁまこちゃんの場合は、将来への不安とか対人恐怖症とか家族関係が主な悩みだったから、幽霊になってそこらへんがすべて一掃されたからそこまで絶望しないんかな。

というか、こーちゃんのスピリチュアル話、完全にフラテルニテなんだよな。というかあっちのほうがよほど上品な作品だと思う

「今苦しいこともぜんぶ、生まれる前に自分で書いたシナリオ通りなんだ!」と思うことで "救われる" ひとも確かにいるだろうけど、逆に絶望して死に至る人も多そうなんですが……
自己責任論・新自由主義の成れの果てだ。

やっぱり本作中の心理カウンセリングって、現実の人間をミステリーのように事件化・物語化して、あたかも「隠された真実」が潜んでおり、それを解明すればすべてが解決する!と思い込むことで対処しようとする、非常に危険な行為だと思うんだよなぁ。スピリチュアルもまさに、現実の自分を「大きな物語」のなかに押し込むことで使命や目標を方向づける装置なわけだし。
心理カウンセリングと陰謀論は紙一重だと思う。
そして、そういう性質がある心理カウンセリングをまさに物語のなかでドラマチックに扱うことで、その危険性がより誇張され、先鋭化している……という印象

私にカウンセリングやらせてよ!と内心で叫ぶまこちゃん、完全にフラテルニテの友佳ちゃんと同じだ・・・
「他人を救いたい」というヒーロー願望の暴力性への無自覚

というか、そういうの抜きにしても、単純に最終章に入ってから話がつまらない。
このあとまこちゃんが通信技術を使ってカウンセリングを始めることはだいたい予想がついているのに、冗長に彼女が心理カウンセリングに興味を持って詳しくなっていくまでの過程が描かれているだけで面白くない。せいぜい、前の章のカウンセリングでまこちゃんが言っていた知識、この人の受け売りだったんだーとわかるくらいだし、それ自体も何も面白くない。
幽霊になっているのに、あまりに普通の人っぽいというか、われわれ生きている人間からしても理解・共感がしやすい造形で描かれているのが悪い気もする。そしてそれは、まこちゃんが一人称の語りを担っているからだろう。やっぱり死者による語りをやろうとしたのが間違いだったんだよ〜。そこを変更したら本作の構造はかなり変わるだろうけれど、いちばん伝えたいであろう心理ケア知識とかは生者だけでもじゅうぶんに表現できるのでは?
ほとんど話はわかっている過去の話を長々と繰り返されるのはCARNIVALを思い出す。

そうか、脳波だけじゃなくて声の認識も、姿の認識・投影もできるのか。どんな技術やねん・・・
というか、メール送れるのに兄に連絡とかはしないんだ。まぁ余計混乱させちゃうのを心配しているのかなぁ

ストーリー上の全ての物事があまりに後の展開への伏線になりすぎている。こうした性質は、本作中でうたわれる心理ケアやスピリチュアルに基づく世界観(全てはあなたの魂が書いたシナリオ通り)ときれいに符号する。この点を評価することもできるのかもしれないけれど、わたしにとっては、むしろ、「フィクションだから」こうした都合良く伏線が貼られたドラマを生み出せるのであって、きれいに符号すればするほどに、作り物だな〜と冷めていく。

「こちらの声……聞こえていますか……?」
CROSS†CHANNELだった……?

映画が好きになった理由、消去法だった……w ですよねー
いいね。娯楽なんてそのくらいでいいんだよ

というか、兄が住む家でやっててよく長年見つからなかったな……

というかなんだよ《こいつ》……
内なる自分を2者用意して対話させてるところがナイーヴすぎる……ここでもCARNIVALですか

ああホームページ本の上の漫画、開いておくためじゃなくてシワがつかないようにするための重しだったんかいww
「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は喜劇(茶番)として」をここまで素でやるとは・・・

死んだ人に謝ることができる、というのは、実際に死者に対して罪悪感を抱えた人がもっとも苦悩するそれを完全にないがしろにしている、かなりの暴挙だよなぁ
逆に死んだ側が遺された側に謝ったり許しを与えたりできる、というのも同じく。それが絶対に不可能なことが、死を取り巻くもっとも本質的かつ痛切な点なのに、それをフィクションの都合できれいサッパリ消した上で、なお死と生にまつわる感動話をやろうとしているというのが本当に邪悪
まぎれもない感動ポルノなんだけど、そこらへんの感動ポルノ以上に邪悪だと感じるのはなぜなのだろう。

マジで『十字架』とかを書いた重松清が見たらブチ切れそう。……いや、でもあの人結構こういう話も書いてた気もするなぁ……

自殺を「過去のこと」だと当人が語ってるのめちゃくちゃ倒錯してて面白いのと呆れるのとが一緒に来る。当人にとっての現在と未来を永久に断つのが死では?

そういやヒサキちゃん歌うのが好きとか言ってたな……すっかりパンキッシュになって……
歌詞が直球過ぎて笑っちゃう。まぁこの作品らしいけど。連絡聞いて数日で作ったんかな

龍くんnakoはやめちゃったのね。そうか……

泣かせ方が完全にあの花なんだよな。もしかしたら今あの花みたらもう泣けないかもな……悲しい……
あとはAB!の卒業式回も少し思い出す

エンディング!!!おわり!!! 歌ものオリ曲2つもあるの凄いな

合計23時間か。しっかりフルプライスレベルのボリューム

いや〜〜〜・・・・・・・
登場人物の皆にはさすがにそこそこ愛着があるというか、幸せになってくれて良かったな〜とか、これからも幸せに生きていってほしいな〜と思うところはあるけれど、作品としては非常に……嫌いと言ってしまって良いのかわからないけれど、かなり問題含みの作品で貴重な体験をさせてもらいました。

章ごとのざっくりした好き度を書くと

1章:最悪
2章:ちょっとマシ
3章:前半(海くん尋くん編)=わりと好き / 後半(名古屋編)=かなり好き
4章:最悪

こんな感じ。
詳しくはすでに上で散々書いた。

好きなキャラは那古唯菜(妹)と龍輔(兄)、格ゲー仲間のキム、それから海くんと尋くんの関係かな。その次くらいがまこちゃん


まこちゃんが決意するきっかけの1つとなった、市郷さんの「自殺するなんて周りの人の迷惑になるようなこと、絶対したらだめだ!もしそういうやつがいたらぶん殴ってやる」という言葉。もちろん作中ではこれが批判な文脈で扱われているわけだけど、そうした作品の意図とは別に、意図しないところで、このセリフとほとんど同じような暴力性をこの作品じたいがはらんでしまっていると思う。
それは「あなたが全て望んでこのような人生を送るように決めたんだよ」というスピリチュアル系統の教えだったりとか、自殺した人をコミュニケート可能な幽霊として描いて、あまりにも明け透けなハッピーエンドをやってしまったりだとか、そういうところが……。市郷さんのように、本人からすれば全くそんな意図はないんだろうけれど、本当につらい人からすれば、ふざけんなとしか言いようのない内容になってしまっている節はあると思う。

わたしは「本当につらい人」だとは到底自称できないけれど、それでも、自殺しようとしている人に向かって「やめなよ!生きていれば良いことあるって!」と良心から良かれと思って声をかけて引き留めようとする人の薄ら寒さ、暴力性、そうしたものとかなり近いたぐいのものを、本作からは感じる。

あまりにもピュアすぎるというか、幼稚というか、心がきれいな人が作ったんだろうな、というのは伝わってくるのだけれど、しかし、本作がやろうとしていることは、心がきれいな人がその心の赴くままにやってしまっては、いちばん危険なタイプのことだと思う。……いや、こうして作者の意図とか素性とかを考えたくはないのだけれど。


本作に感銘を受けるひと、感動するひと、人生がいい方向に変わりました!と言うひとはたくさんいると思う。それは素晴らしいことだ。物語化して素晴らしいかどうかは置いておいて、1つの行為、1つの現象としては確実に良いことだと思う。
でも、それと同時に、この作品は、この作品をもっとも届けなければいけない人たちには決して届かない作品だとも思う。

生きることに悩んでいるひと。毎日辛くて仕方がないひと。心理カウンセリングに頼ってみたい気持ちもあるけど、その教えを素直に飲み込めないほどに精神がゆがんでしまっているひと。(自己紹介です)

もちろん「この作品を受容するのにもっともふさわしい人間は自分だ」なんて主張はあまりにも馬鹿げているし、あまりにも傲慢だ。それはわかっている。社会には、わたしよりもはるかに深く苦悩しているひと、つらい状況にあるひとが大量にいることもわかっているつもりだ。

でも、本作で「救われる」ひとがいる一方で、救われない、どころか、何千字にもわたってどこが苦手かを書いてしまうほどにひねくれている人間も世の中には存在する。それはちょうど、まこちゃんのように幸せな最期?を送ることができた自殺者がいる一方で、そうでない者もいる、というのと同じように。


1章で書いた通り、わたしは物語に現実への影響とかメッセージ性とかを求めていないので、別に本作で自分が救われなくてもどうでもいい。

ただ、1つの独立した作品として見たときに、わたしはやっぱり、手放しでは本作を評価することはできないし、そうしてしまうことが非常に危険な類の作品でもあると思う。

作品として独立しているといっても、現実世界・社会と完全に無関係なフィクションなんてものは存在しない。本作はなかでも強く現実社会と関係を取り結ぼうとしている作品なだけに、それに、もっともよろしくない形で失敗していると思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?