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音ゲーとしてのダンス、 ダンスとしてのMV


昨日、こちらのnoteを読みました。太鼓の達人やデレステやプロセカのような「固定されたレーンに譜面(ノーツ)が流れてくる一般的な音ゲー」以外の、少し変わった音楽ゲームがたくさん紹介されている素晴らしい記事でした。

著者のフロクロさんは自身でも音楽を作る傍ら、動画も制作し、かつ実作だけでなくそれらの概念的な分析までこなせるマルチプレイヤーで、わたしが最も尊敬する人物のひとりです。

フロクロさんの多方面への興味・才能は、それらが独立しているというよりは、それらが合流する臨界点に立脚しているように思えます。その傾向は氏の作品群から顕著に感じられます。

リズム(音のパターン=構造)を図形的(視覚的)に表し、目と耳で同時に楽しむときにもっとも魅力が生まれることを示した作品

TVコマーシャルの"サビ"とも言える「企業サウンドロゴ」をカットアップして単一の曲とすることで、「CMとは瞬間的に鑑賞者の印象に残ることを目指す芸術である」ことを看過した傑作


最初に挙げたnoteにおいてもフロクロさんは「音楽ゲームのUI」つまり画面構成やプレイヤーの参加性・自由度について掘り下げています。

氏が人生ベストゲームに挙げる「パラッパラッパー」の項では

パラッパラッパーが革新的なのは譜面を守らなくても良いということで、これは要するに覚えゲーになりがちな音ゲーに対して明確なアンチの姿勢を取り、「音楽ゲームっていうのはゲームシステムを使ってユーザーが音楽に参加する営みなんだよ」って言い切ったところにある。

と、音楽ゲームの本質についてたいへん興味深い意見を語っています。

わたしはこの「音楽ゲームとはゲームシステムを使ってユーザーが音楽に参加する営みである」という意見にビビっときました。

わたしはダンスが好きなのですが、「ダンスとはもっとも自由で奥が深い音ゲーである」という持論があるからです。

ダンスは究極の音ゲーである

ダンスとは流れてくる曲から自由に音を選んで、自由に身体の動かし方を選んでいく遊びです。つまり、世界一自由な音ゲーなんです!「譜面を守らなくていい」どころか、そもそも譜面が存在しません。あなたが自由に好きなように譜面を作って良いのです。

よく音ゲーの譜面にたいして「クソ譜面だ」と失望し文句を垂れている人々を見ますが、わたしからすれば「あなたはなぜ踊らないの? ダンスなら好きな譜面で好きなだけ遊べるのに……」と不思議に思います。(もちろんこれが暴論の一種であることはわかっています。半分は冗談です)

お気に入りの曲が音ゲーに実装されないことを嘆くことも、ダンスならありません。「ダンス」という超人気音ゲーには再生可能な全ての曲がはじめから実装されています。解放条件もありません。いますぐ無限の曲でプレイできます。

こうしたダンス観は以前こちらのnoteで詳しく説明しました。

ダンスとは「とめどなく流れる音の洪水の中から、いかにバランス良く魅力的な音を拾って表現できるか」を目指す遊びだと捉えることができる。

そして、わたしのこうしたダンス観と、フロクロさんの「音楽ゲームとはゲームシステムを使ってユーザーが音楽に参加する営みである」という音ゲー観は非常に親和的であることがわかります。

音楽ゲーム = ゲームシステムを通して音楽に参加する営み
ダンス = 自由に音楽に参加できるゲーム

この2つの方程式を連立させるとおもしろい解が導けます。ダンスを音楽ゲームと捉えたときに、ダンスの「ゲームシステム」は何でしょうか。それは、プレイヤー(踊るひと)の身体そのものです。

「音楽ゲームにおける身体性」については、フロクロさんが同noteにて何度も言及していました。

(VRアクション音楽ゲーム「Beat Saber」について)

譜面の構成自体はグルーヴコースターよりずっとシンプルなんだけれど、VR空間で譜面を「斬る」というアプローチによって音楽が身体に結びついてる感が格段に上がった。リズム天国もグルーヴコースターもビートセイバーも音楽に「参加している」という感覚をめちゃくちゃ大事にしてる印象がある。
普通の音ゲー(ビーマニとか)は入力を継続することによるフロー体験を作り出すことに注力しているけど、グルーヴコースターとかはフロー体験の前段階のエンタメとして「映像に参加する/音楽に参加する」というインタラクティブな世界観を作り込んでいる。

前述の通り、フロクロさんにとって音楽ゲームでいちばん大事なのは「音楽に参加してる感」です。その究極系として「音楽が身体に結びついてる感」という概念が登場しました。これは「ゲームシステムが身体そのもの」であるダンスを究極の音楽ゲームに位置づけるわたしの意見に合致します。

つまりダンスとは、自分の身体をUIとして使って出来るだけ「音楽に参加してる感=音楽が身体に結びついてる感」を感じることを目指すゲームといえるのです。

身体。これ以上ないほどシンプルなUIでしょう。そこには譜面もノーツもボタンもタッチパネルもスコアも対戦相手もいません。楽しんだもん勝ち……いや、音楽に参加したもん勝ちです。音楽を身体に結びつけたもん勝ちです。

だからダンスは面白いんです。だからわたしはダンスが、踊るのが好きです。



さて、ここまではプレイヤー=踊るひと本人の話でした。フロクロさんの記事でいえば、プレイヤー本人の「身体性≒参加性」に着目した音ゲーUIの話です。

フロクロさんのnoteの後半では、任天堂の岩田社長のインタビューを引用して、プレイヤー以外のひとにとっての音ゲーUIについて語られます。

岩田社長曰く「まわりで見ている人が楽しい」のが「いいゲーム」の条件のひとつなんだそうです。たしかにリズム天国はプレイ画面を見ているだけでも楽しいですよね。

では、先ほどまでの流れを汲んで、ダンスを音楽ゲームとして捉えた場合、ダンスは「まわりで見ている人が楽しい」ゲームでしょうか?

そうですよね?


なぜなら、ダンスとは「魅せるもの」だからです。


あなたは、ダンスと聞いて何を思い浮かべますか?


マイケル・ジャクソン、恋ダンス、登美丘高校ダンス部、踊ってみた、アイドルのMV……などなど色んな答えが返ってくると思います。


これらは全て「魅せるためのダンス」です。


だってそうでしょう。あなたがダンスと聞いて想像するのは「誰かが(カメラに向かって)踊っている姿」、つまり「他人があなたを魅せるためのダンス」です。

間違えないでほしいのは「ダンス=魅せるためのもの」というわけではありません。

さっきまでの話を思い出してください。ダンスとは"自分の"身体を使って音楽に参加するゲームでした。そこに他人はいません。他人のダンスを外側から見ているあなたはおらず、あなたが踊っています。

つまり、ダンスには2つの側面があるということです。あなたがダンスの当事者になる場合。そしてあなたがダンスの鑑賞者になる場合。

これらはそれぞれ「自分が楽しむためのダンス」と「他人を楽しませるためのダンス」に対応しています。

どちらがダンスの本質だとか優れているとか、そういう話ではありません。「自分」という言葉が成り立つには「他人」という言葉が必要なように、「私」には「あなた」が必要なように、ダンスはこれらの要素が互いを補い合うことで成り立っています。「側面」という単語が示すとおり、もともとひとつのものを2つの角度から視ているに過ぎないのかもしれません。


・・・・・・


ダンスは「まわりで見ている人が楽しい」ゲームか?という話でした。

答えはイエスです。なぜなら、そもそもダンスの本分のひとつが「見るひとを楽しませること」だからです。

ダンサーは日夜練習を重ね、技術を磨き、センスを磨きます。なんのために練習するの?なぜ技術を、センスを磨くの?と彼らに問うたら、多くはこう答えるでしょう。「ダンスが上手くなるため」と。

ではダンスの上手さは何で測られるのでしょうか?

……それは「見るひと」によって測られます。あなたがダンスを見て「上手い!」と思ったら、感動したら、衝撃を受けたら、テンションが上ったら、それは「上手いダンス」です。つまり、楽しませたもの勝ちです。だから、ダンサーは実は「見るひとを楽しませるために」日々練習し、踊っているのです。

これが、ダンスが「まわりで見ている人が楽しいゲーム」である何よりの証拠です。なにせ、まわりで見ている人を楽しませるのがこのゲームの目的のひとつなのですから。ダンスは、岩田社長が語るような「良いゲーム」の本質をゲームシステムの根幹に組み込んでいるという意味でも究極の音ゲーなのです。

フロクロさんの言うところの「音ゲー画面退屈問題」はダンスという音ゲーには存在しません。ある意味、ダンスはもっとも"画面映え"する音ゲーである、といえるかもしれません。

(ここでの「画面」とは何を表しているか? と考えると、ダンスに関してまだまだ面白そうなことが掘り下げられそうです)



ここまで、フロクロさんのnoteを発端として「ダンスは究極の音ゲーである」という持論について語ってきました。

ここで終わるかと思いきや、まだダンスについて語りたいことがあります。

それは「MVはダンスである」というものです。


MVはダンスである


わたしはダンスが大好きです。ダンスの良さをもっと広めたい。全人類がダンサーになってほしい(え?)

だから、ダンスの敷居を限界まで下げたいと考えています。
ダンスをめちゃくちゃ広〜〜〜く捉えているのです。

具体的には「音に合わせて動くもの」なら全てダンスです。
わたしがそう決めました(天上天下唯我独尊)

たとえば、これはダンスです。フロクロさんは実はダンサーなのです。

だってそうでしょう。音楽に合わせて文字が上下から横から現れては消え、回り、組み合わさり、揺れ、ぼやけ、寄り、踊っています。これをダンスを呼ばずして何をダンスと呼べばいいのでしょうか。

ダンスの基本は「音ハメ」つまり音に合わせて動くことです。このPVに限らず、あらゆるミュージックビデオ、それからMAD動画の類はダンスの一形態と言えます。だって「音ハメ」しまくってるから。

もちろん本家MVもダンスです。いわば2つのMV(PV)は「シャルル」という一つの曲にたいしてアボガド6さんとフロクロさんという2人のダンサーが異なる2つの踊り方を披露している、といえます。どちらの映像も華麗な音ハメやその他の様々な演出(動き)で満ち溢れた素晴らしいダンスだと思います。


ストリートダンス(Hiphop)シーンには、目の前のダンサーがいい動きをしたときには指で銃を作り掲げることで相手をたたえるガンフィンガーという仕草があります。

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ガンフィンガーをするR-指定さん

わたしは良いMVやアニメのOPやMAD動画を見ているとき、画面の前で何度もガンフィンガーをします。マジで。だって良いダンスはたたえたいから。


ダンスの応用テクニックとして「歌詞ハメ」があります。歌詞ハメとは、流れている曲の歌詞に沿った動きをすることです。例えば「胸に残り離れない苦いレモンの匂い」という歌詞に合わせて胸に手を当てる……とかが分かりやすいでしょうか。

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さきほどのシャルルPVも歌詞ハメをしています。「夜の群れ」という歌詞に合わせて夜の文字が増殖して群れになりました。

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もちろん本家MVも最初っから「それなのに頬を濡らしてしまうの」という詞が濡れて垂れ落ちる見事な歌詞ハメをかましています。ガンフィンガー!

音ハメという基本テクニックだけでなく、応用テクニックの歌詞ハメまでしているなんて、もはやダンス以外の何物でもないでしょう。断言します。MVやMAD動画など、全ての「音と映像がシンクロする動画」はダンスです。(この観点からいえば、全ての(有声)映画もダンスかも……!? たとえあからさまにダンスするシーンが無くても、映画はダンスの一種である説)


さて、ここまで「ダンスとは"音に合わせた動き"である」という持論に基づいて「全ての音声映像はダンスである」ことを説明してきました。

ここで、さっきまでの「ダンスとは"音楽ゲーム"である」という持論を思い出しましょう。そして再び連立方程式を解くと、三段論法で「全ての音声映像(MV)はダンスなのだから、音楽ゲームである」ことが導けます。

ここで、フロクロさんの論「音楽ゲームはゲームシステムを使ってユーザーが音楽に参加する営みである」をふまえると、MVを音楽ゲームと捉えたときの「ゲームシステム」とは"映像表現そのもの"であるといえるでしょう。例えば動画制作ソフトとしてAfter Effectsを用いているとしたら、AEで行える全ての動作があなたとゲームの間のUIそのものです。

はじめわたしは「ダンスほど自由な音ゲーはない」といいました。
しかし、MV(制作)をダンスと捉えると、こちらのほうがより"自由"かもしれません。狭義のダンスは自分の身体に縛られており、自分の身体が動かせる範囲でしか音楽を表現できませんが、映像制作においてはもはや肉体という枷は外れ、2次元平面上で行えるあらゆる映像表現があなたの擬似的な「身体」になります。MV上で文字を縦横無尽に動かすとき、その文字は、画面は、しなやかにうごくあなたの腕であり、たくましく地をふみしめるあなたの脚となります。

("身体拡張"という観点からも「MV=ダンス」論は面白いかも!)

ふたたび岩田社長の言葉を思い出してください。「見ている人が楽しいのがいいゲーム」この観点からも、MVはダンスとしてだけでなく、ゲームとしても優れているといえるでしょう。なにせダンスと同じようにMVだって「魅せる/見せる」ために作られるのですから。

そして「ダンスには他人に見せるための側面と自分が楽しむための側面がある」ことをふまえると、じつはMV制作にだって、製作者本人が楽しむという側面があることがわかります。動画を作るひとは、動画を作りながら踊っているのです。自分の拡張した身体を思う存分動かして、音楽に参加する歓びに打ち震えているのです。だからわたしは、映像制作に携わる全ての方々をダンサーとして尊敬しています。




さて、ここまで「ダンスとは音ゲーである」→「MVはダンスである」という流れで語ってきました。そしてダンスを介して「音楽ゲーム」と「MV」が結びつきました。

ゲームとMVというと、インタラクティブなメディアであるゲームに対して、MVは鑑賞者が受動的に楽しむメディアであるという真逆のイメージがあり、これらが広い意味での「ダンス」という概念を通じて繋がるのは不思議に思えます。

この不思議な繋がりを紐解くヒントは「ダンスとは"音に合わせた動き"である」という例の持論にあります。「動き」とは要するになんのことか?と問うのです。

すると「動き」を主観的(主体的)に捉えるか、それとも客観的(客体的)に捉えるかによって2つの道に分かれます。

まず「動き」を主体的な身体の運動と考えると、最初の方で言及した「身体性」という概念に帰着することができます。主観的なダンス、つまり「自分が楽しんだもん勝ち」のダンスとは、鮮やかな身体性の発露であり、ゲームという参加型メディアに接続できます。

これはフロクロさんのゲーム論と相性がよく、更には独特の創作論にもつながりそうです。(ゲームという"体験"と、"創作"の関係とは……?など、まだまだ面白そうな領域が広がっています)


次に「動き」を客体的に、つまり他人事として外から見ると、広く「映像」一般を指していると考えられます。ダンスとMVを同一視する立場に親和的でしょう。

このように、ダンスの定義における「動き」を主体的/客体的のどちらで捉えるかによって、主体的に参加できるメディアであるゲーム寄りになったり、客観的に鑑賞するメディアである動画・映像寄りになったりする、ということです。「不思議な繋がり」は主観と客観という形而上学的な二項対立からもたらされているのでした。

ところで、「動き」を客体的に解釈した場合に帰着できる「映像」とは「映る像」つまり"視覚で感じられるもの"ということです。ここで「視覚」という単語が出てきたことに着目しましょう。

「ダンスとは"音に合わせた動き"である」というテーゼから出発していたのですから、動きを視覚的なものの象徴と考えると、それにともなって「音」は聴覚的なものの象徴と位置づけられます。つまり、ダンスとは聴覚から視覚への写像(繋がり)であるといえます。

視覚と聴覚、目と耳といえば、なんだか見覚え/聞き覚えがあるような……

リズム(音のパターン=構造)を図形的(視覚的)に表し、目と耳で同時に楽しむときにもっとも魅力が生まれることを示した作品

そう、はじめに挙げたこちらの作品はもちろんダンスの一種なのですが、特にダンスを聴覚と視覚を対応づける写像とみなす立場をこれ以上なく鮮やかに表していたのです。

同時に、フロクロさんが優れたダンサーである理由もすべて詰まっています。聴覚で捉えた世界と視覚で捉えた世界を結びつける創作行為-創作物こそが「ダンス」であり、この稀代のアーティストは2つの世界が重なる舞台上で踊り続けているのです。これからもどんなダンスを見せてくれるのか楽しみで仕方ありません。
次のダンスが見れるときまでわたしも踊っていようと思います。

それでは。





最新作






サムネイルにはフロクロさんの「回るリズム」スクリーンショットを使用させていただきました。


【11/14追記】

このnoteにフロクロさんが熱いリプライnoteを書いてくれました!感激!

感激したので再応答noteを書きました!





「〇〇としてのダンス」シリーズ


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