柔い救われ

 彼女と別れた。
 待ち合わせ場所についてからそのあたりの交差点まで歩いて、信号待ちをしている時に彼女から切り出した。信号が青になったら僕は横断歩道に入って、彼女はもと来た道を戻っていった。
 その後僕は街をしばらく彷徨って、イヤホンの替えを買ったり、短歌集を買ったり、チューハイを買ったりした。そして家に戻ると、イヤホンを耳の穴に突っ込んで、酒を飲みつつ歌集を開いた。当然全てに対して集中を欠いたので、僕は早々に切り上げて、酒だけにした。まだ昼間だったけれど、どうせいつか日は暮れるものだから。でも三十分もしないで僕は酔っぱらった。僕は酒に弱いのだった。
 もう死んでしまった友達に、風呂で溺死したのがいた。僕も風呂を溜めようと思ったけれど、すぐにやる気がなくなって、やがて眠った。

 起きると既に日は落ちきっていた。22時だった。お腹が減っていた。
 外に出で歩きながら、どこかで食べようと思った。そう思ってから財布を持ってきていないことに気づいた。スマホもなかった。ついでにズボンのベルトもなかった。
 あくびが込み上げてくる。どうせなら朝まで眠らせてくれればよかったのに。逃避する気持ちは朝までは持続しなかったようだ。割り合い、大したことなかったのだなあと、ずり落ちるズボンを直しながら思った。大抵そんなものだ。
 気が付くと中華のお店に行き着いていた。中国か台湾の人がやっているお店だった。ツケがきくところだ。入店すると一人だけ先客がいた。先客は僕を見て舌打ちした。付言しておくと全く知り合いではない。
 座布団に腰を下ろし麻婆豆腐の定食を頼んだ。
 僕は先客に背を向ける形で座っていた。それが正解だと思った。注文が来る間、スマホも何も持っていなかったので、指のささくれを弄ったり足の臭いを嗅いだりした。臭かったので瞑目して時間の過ぎるのを待った。
 しばらくするとこちらに足音が近づいてきたので、ようやく舌鼓を打てると思ったのだけれど、それは麻婆豆腐を運んでくる店主ではなくて先客だった。
「何ですか?」
「あんたこそなに?」
 僕は何だろう? とりあえずは大学生をやっているけれど。
「何か用ですか?」
 先客は女だった。多分大学生だと思う。僕から見て右の頬が赤く腫れている。しかし薄い赤色で顔全体も染まっている。したたかに酔っぱらっているようだった。酒の悪がらみだ。
「私が悪いの?」
「そうじゃないんですか?」
 僕は即答していた。何かはわからないが、多分それが正解のような気がした。答えるとその人の眉間にしわが深く刻まれた。
「私は何もしてないのに、あっちが手出してきたのに?」
「きっと自分にも悪いところがあったのでは?」
 一段としわがよって、こちらへの睨みが痛々しくなってきた。
「まあそれだけ怒るんだったら、相手が悪いんでしょうかね?」
 だん、と彼女はテーブルを叩いた。何を言っても怒らせるだけのようだ。他人の声が無意味ならそもそも絡んでこないでほしいところなのだが。
「あんたは何にもわかってない」
「そりゃ何にもわかってないので」
「話聞いてた?」
「まだ聞いてないですね」
 また舌打ちがあった。
 そこで彼女はスマホを取り出した。何かを見て、しかめ面はあいかわらずだったけれど、眉間にしわが少し和らいだ。そしてしばらく一人で舌打ちを続けていた。それはどこか弾むような調子があった。舌打ちを連打しながら、スマホの入力を高速で行っていた。
「返信ですか?」
「関係ないでしょ」
 それは仰る通りだった。打ち終わったら彼女はスマホをしまって立ち上がった。自分の座席に戻って鞄を取り上げ、勘定を終えて店を出ていった。素早い挙動だった。それと入れ替わるようにして僕の麻婆豆腐定食がやってきた。

 嫌な目にあったような気がしたけれど、定食は美味しかったし、価格も安かった。勘定はツケにしてもらおうと思ったけれど、お代は既にいただいておりますということだった。さっきの人が一緒に支払ったらしい。もしかすると酒が抜けてきて、少しは正気に戻ったのかもしれない。
 手ぶらで外に出かけた僕は、手ぶらで、しかしとりあえずお腹はふくれて住処に戻った。そしてスマホを持っていかなかったことを思い出し、部屋の中を見渡した。目につくところにスマホがなく、そこかしこを探した。


 やがてベッドの脇の隙間に落ちてるのを発見した。なぜそこに落ちていたのかはわからない。酔っぱらっていた時に、放り投げたかしたのだろう。スマホを取り上げて画面を点けると、少し画面が割れていた。そこに新着のメッセージが来ていた。中身まで確認していないけれど、画面の傷ごしに見たそれに、僕は何だか救われたような気がした。

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