阪神淡路大震災を振り返って(3)

22年前。
色々忘れる前に、ついに書いておこうと思う。
続きの続き(3) *(2)はこちら 

ウィキペディアではこう記されている。 
阪神淡路大震災
 

避難所で衣服が配布されると聞いた。
混雑を避ける為、一家で一人が取りに行く。

多くの人が集まったが、
衣服を持って戻る人は少なかった。
衣服を持って来た人が
不思議そうな表情をしている。

それは古着だった。
いや、ボロだった。

「ありがとう、コレいただいていきますね。」
中年の女性が、衣服を持って来た男性に声を掛けた。

女性は子供用のマフラーを手にしていた。
派手な配色のマフラーだった。
きゃりーぱみゅぱみゅでも
コーディネートは難しいかもしれない。

女性は「ありがとう」と言いながら泣いていた。

衣服を持って来た男性は
感謝の涙と思ったかもしれない。

恐らく、女性の涙は別の意味だったと思う。
恐らく、女性はそのマフラーを使わなかったと思う。

私も古着(ボロ)の山を見て泣いた。

東日本大震災では、
ニュースやネットで、
「衣服は新品を提供してください。」
とアナウンスしていた。
阪神淡路大震災の教訓が活かされたと
心から安堵した。

海外から支援部隊が来た。
ドイツからだと聞いた。
パリッとした制服(軍服?)を着ていた。
全壊したエリアの整備をしているようだった。
何度も言うが、映画のセットのようだった。

多くの人が思ったように、
私も写真に撮っておこうと思った。
地元を歩いてまわった。

「写ルンです」のパノラマを使って撮った。
震災後20年を経て、
「写ルンです」の人気が復活している事が
非常に感慨深い。

今回はここまで。
もう少し書かせてください。(4)へ続く。

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