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見えない湖 12


 僕は一度起きてしまった体を寝かすのも何かもったいない気がして、外に出た。朝日が徐々に山を照らしていく。山が頂上から、色を塗られていくように変化する。早起きした人にしか見られない光景に圧倒された。涼しい空気をいっぱい吸い込むと、栄養剤よりも体の元気が出てくるように感じた。僕より早起きした鳥たちが、起こし合うように鳴き合っている。
「ヤシロさんが来たのかい?」
 ダンさんが、服に土を付けて帰ってきた。朝早くから疲れているはずなのに、疲れた顔は一切なかった。
「料理を持ってきてくださいました」
ダンさんは紙袋を覗き、何度か深くうなずいた。
「僕はこんな料理作れないな」ダンさんは言った。「これはヤシロさんだから作れるものだね」
「ダンさんの料理も美味しいですよ」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか」ダンさんは照れながら言った。「ところで、ヤシロさんはなんであんなに笑ってるか知ってる?」
「毎日が楽しいからですか?」
「はは。そうかもしれないね。こんな何もない田舎で毎日楽しく過ごすのは難しいのに、あんなに笑顔を振りまけるのはすごいことだ。あの人は人格者だからね」
「あの人は元は何をされてたんですか?」
「元プロ野球選手で、元官僚だよ」
「え」
 あの田舎で土まみれになっていた人が考えられないほどの過去を持っていることに驚いた。あの着ているジャケットも高いものなのだろう。人の上に立つ事に疲れたのだろうか。それとも、何かの力によってこの田舎に追いやられたのだろうか。人生何が起こるか分からないな、と思った。
「嘘だよ」ダンさんは笑顔で言う。「何を思った?そんなすごい人がなんで田舎にと思った?」
「いえ、そうとは思ってないです」僕は強がって嘘をつく。ジャケットは安い。
「本当は、奥さんと子どもを亡くして、身寄りが無くなりこちらに移り住んできたんだって」
「そうなんですか」
 急に、ヤシロさんが愛おしく、同情の念が浮かんできた。どうりであんな顔ができるものだ。抱きしめたくなるほどだ。
「これも嘘」ダンさんは言う。
「なんなんですか」僕は、笑ってしまった。抱きしめない。
「人間は、過去によって縛られる。何も知らないのに過去のことを勝手に想像してその人を判断するんだ。悲しいよね。動物は過去なんて語れないし、相性が合うか合わないかだけで判断するのにね」
「それは言葉が使えるからですか」
「鋭いね。ナイフみたいだね。人間は言葉という最強の武器で色んな事ができてしまう。上手いこと使うにも、人を殺すことだってできる。だからそんなものに騙されず、目の前の今いる存在を大切にすることはとても重要かもしれないね。相当難しいことだし、僕にも出来ないな」
 ダンさんは、笑顔で野菜を調理場に持っていき、冷蔵庫に詰められるものは詰めていった。やっぱりヤシロさんはすごい、と独り言を言いながらタッパの煮物の匂いを嗅いでいた。
 みなそれぞれが、人には見えない過去という『荷物』を背負いながら生きているのかもしれない。歳を重ねるにつれて大きくなったり、軽くなったり重くなったりする。その『荷物』は誰にも背負わせることが出来ない。


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