見出し画像

見えない湖 2

 目を覚ますと、いつも以上に寒さを感じた。喉も乾燥し、水分が体内にないように感じる。上半身を起こし、現実に戻ろうとした。襖の先では物音が聞こえる。枕元にある時計を確認したが、まだ午前五時だった。もう一度眠ろうとしたが、寒さで睡眠が邪魔された。
 襖をあけて居間に出ると、ダンさんが台所兼玄関で歩きながら編み物をしていた。手元を見ながら器用に同じ場所を行ったり来たりしている。
「あ、おはよう。起こしてしまったかな」ダンさんは顔だけこちらに向け、歩みは止めようとはしなかった。
「いえ、そんなことはありません。寒さで眠れませんでした」
「木造の家だから、隙間が多いんだよね。すまないね。またストーブを用意しておくよ」
「ありがとうございます」
「あ、でも、灯油が無いね。買ってこないと」
「僕が行って来ましょうか?」僕が扉に向かおうとすると、ダンさんが僕の目の前に立ちはだかる。
「いいよ。今日は、僕が行く。燃料のありがたみを再認識しないといけないからね。僕らは、燃料なくしては生きていけないんだよ。科学が進歩するにつれて、小さな微生物も見えるようになっただろ。それによって、僕たちはこんなにも大量の微生物を殺しているんだと知ることができるようになってしまった」
「それは仕方のないことなんじゃないでしょうか?」
「そう、人間が支配していると思い込むこの世界ではね。だからこそ、僕らは感謝しないといけないんだ。様々な屍の上に立って生きているということにね」
「そうすると、僕たちは毎分、毎秒感謝しないといけないことになりますが」
「そういうことになる。でも、微生物や植物には言葉が通じない。だから、『思う』っていうことが大事なのかもしれない。まあ今のところはそれしかできないんだけどね。それに今もいっぱい微生物踏んでいるしね」
 ダンさんは、またさっきと同じように同じ場所を歩き出した。手に持っている編み物は進んでいる様には思えなかった。僕も足の裏を見たが何もなかった。
 僕が立っている居間は、畳と囲炉裏、木の棚と箪笥だけがある質素な部屋だ。部屋は障子と襖で仕切られている。僕はそのまま居間の畳に座り込んで、囲炉裏を眺める。この燃えている木炭にも多くの命があったのではないか。この木の命だけではなく、この木がなる前に種を運んだ動物や、木の近くで肥料になって行った虫たちや腐らないように外側を防御した微生物たちの命が燃えている。想像しようとしてみたが、上手くできない。僕は、感謝するという気持ちにはなれなかった。最後の最後まで、命を全うさせてもらったことに感謝していいのは、この木炭の方だという気持ちが沸き上がった。そんなことを話したところで、ダンさんには通じないと思った。ただ木炭が赤く燃え上がるのを見ているだけだった。木炭は鳴き声のように定期的にパチパチと音を立てた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?