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見えない湖 13

 太陽がほぼ真上に位置している。直角に僕たち人間を照らしている。今日も午前中から精を出して畑仕事をした。川で顔を洗ってから家に帰ろうと考える。
 地面からの照り返しで、足元も暑い。夏だから仕方ないだろう。
 川の水は冷たく、体全体が冷えていくようだった。少し川辺で涼んでから、家に帰った。
 昼ごはんは、ヤシロさんが持ってきてくれた切り干し大根だった。それに味噌汁と白ご飯を食べる。ヤシロさんの料理はいつ食べても美味しくて、毎日食べたいと思うほどだった。
「いやー、美味しかったね。今回も格別だったね。やっぱり、自分たちで作ったものも美味しいけど、人から頂くものも愛がこもってて最高だね」ダンさんは言った。
「そうですね。また違いますよね」
「あ、カイくん。もう食べ終わったし、ヤシロさんにタッパ返してきてくれないか。お礼の野菜も付けて」
「わかりました」
「ちゃんとお礼もよろしくね。あ、あとこれも大事。おいしかったです、もよろしく」
「はい」
 ダンさんはタッパを洗い、僕はその間に野菜を袋に詰めた。洗い終わったタッパーを受け取り、家を出た。
 ご飯を食べたばかりで少しお腹が痛い。だが、歩いているうちに慣れてくるだろう。太陽が肌を焼くように照りつける。僕は、空の入道雲は好きだった。あの入道雲の世界にいつか行きたいと思っていた時期もあった。こんな人生なんか捨てて、空の世界に行きたいと思っていた。
 ダンさんが書いた略地図を見ながら歩いていく。最初見た時は、こんな地図でたどり着けるのか心配になったが、案外簡単に行けそうな気がした。なぜなら、この村には家があまりない。それに建物が密集していない。
 十分ぐらい歩いたら辿り着いた。脇腹が少し痛くなった。
 ヤシロさんの家も、僕たちの家と似たような木造建築だった。玄関も引き戸だ。しかし、ヤシロさんの家は二階建てで、インターフォンがあった。僕はインターフォンを押した。だが、押した感覚が全くなかった。何度も押したが家の中にベルの音が響いているようには思わなかった。
「こんにちは。いらっしゃいますか?」僕は大きな声で言った。だが返事はない。
引き戸を引いてみた。鍵はかかってないらしく、スッと開いた。タッパーだけ置いていれば、帰ってきた時に分かるだろうと思い、中に入って置こうとしたその時、物音が室内から聞こえた。少し立ち止まって聞いてみると、涙を啜っている音だった。居間の扉が開いている。その隙間から中を覗くと蹲っているヤシロさんの姿があった。
 声をかけていいのか、そのままそっとしておいたらいいのか分からなかった。しかし、僕にはヤシロさんの苦しみを受け止めるのは怖く、おこがましい気がした。そのため、みなかった事にして帰ろうとする。
「ダンさんのところの子なんか?」ヤシロさんの声がした。
「あ、はい。タッパー返しにきました」僕は戸惑いながら言った。
「わざわざありがと。変な所見せてしまってごめんな。ちょっと上がってお茶でも飲んで行き」
「あ、いや」
「いやいや、遠慮せずに入ってや。襲ったりせんから」
 そう言われて、居間に入った。家の中はさして自分の家と変わらなかったが、居間の先にはもう一つ部屋があった。そこには仏壇があった。仏間には物がなく綺麗なのだが、居間は襖はに殴ったときにつくような凹みがあり、障子は全て破れていて、木の板も何本か折れていた。地面の畳も摩擦によってか、凹んでいる場所がいくつもあった。ヤシロさんの顔から想像すると、少し違和感のある室内だった。
僕が部屋の中を見渡していると、ヤシロさんはお盆にお菓子やお茶を持って入ってきた。少し驚いて、ヤシロさんを見た。
「汚い家やけど勘弁してな」ヤシロさんはいつもの笑顔で笑って言った。
「いえいえ。ありがとうございます」
「自分の場所って、普段は見せたくないけど、時々見せたくなる時があるんやな」
 饅頭と緑茶を出してもらった。饅頭なんていつから食べてないんだろう、と思いながら食べた。表面は茶色で柔らかく、中はこしあんが詰まっている。一口食べると、口の中に甘さが広がった。そのまま緑茶を飲む。絶妙な苦味とこしあんの甘さが合わさって、口の中が暖かくなった。こんなにも饅頭が美味しいものだと思わなかった。野球ボールにグラブがいるように、饅頭には緑茶しかないなと思った瞬間だった。
「そんなに美味しそうに食べてくれて嬉しいわ。ありがとう」
「本当に美味しいです」
「ほんまか。ほんならまた饅頭も家に持って行くわ」
 ヤシロさんもゆっくりとお茶を飲んでいる。その手に目がいった。ヤシロさんの手はタコのようなのもがいっぱい出来ていて、傷もたくさんついていた。その傷は小学生が描く絵画のようだった。その手と、襖の破れや障子を連想する。ヤシロさんが我を失い、獣のように室内で暴れている姿が浮かんだ。しかし、その姿をすぐに消す。ヤシロさんに限ってそんなことはない。最初からこんな家なのだ。
 ヤシロさんは俯きながら緑茶を飲んでいる。僕をみると微笑んだ。僕はなぜか怖くなってきて、残っている饅頭と緑茶を駆け込んだ。
「ご馳走様です。昼の作業もあるので帰ります」
「もう帰るんか。饅頭に満足か」
 沈黙が起きる。
「ダジャレにもなってないし、韻も踏んでない。失敬失敬。ダンさんによろしくゆーといてな」
「あ、はい」僕は苦笑いをしながら言って、ヤシロさんさんの家を後にしようとする。「あ、料理おいしかったです」言い忘れていたことを思い出して言った。
「ありがとう」ヤシロさんは満面の笑みで手を振っていた。
 帰り道なぜか早歩きになっていた。ヤシロさんが怖いのか、ヤシロさんを怖いと思う自分が怖いのか。頭がぐちゃぐちゃになった。あの涙の意味も分からなかった。
 気持ちを落ち着かせようといつもの河原に行こうとする。しかし、そこにはみたことのある人を見つけた。キンちゃんだった。キンちゃんはヤギを散歩していた。笑顔でヤギに引きずられながら歩いていた。なぜか分からないが、嬉しい気持ちになった。
 河原には寄らず、引き返して帰る。少しは嬉しい気分が続いたが、すぐにヤシロさんの家の光景が頭に浮かんできた。手の中に刺さったトゲのように、抜きたくてもすぐには抜けないように思えた。


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